その後、Amazonを覗いたら、さらに非道い匿名書評(とても書評とは言えぬ)が出ていた。馬鹿馬鹿しくて、こんなことに時間を割く必要性すら感じないが、これはもう誹謗中傷・営業妨害以外の何ものでもないので、一言だけ記しておこう。
その批判とも言えない批判では、ぼくは学者の卵ですらないそうだ。所謂学者が偉いとは思わないから(事実、多くの大学教授は人間としてのレベルがかなり低い)、そう言われても痛くも痒くもないが、論文と著書あわせて50本以上書いている人間が、学者の卵ですらないとすれば、日本の大学教授の中で学者と呼べる人は、かなり減るのではあるまいか。そう言うあんたは何なんだ?と詰問したくなるが、まあ、馬鹿馬鹿しいからやめておこう。



下らぬことを書きました。口直しに、自戒としている思い出話を書いておきます。
ノーベル賞シーズンである。ノーベル賞を貰う人は偉くて、貰わない人は偉くないか。当然、ノーベル賞を貰う人の方が偉い。これが常識だが、もちろんそうでない場合もある。ノーベル賞など欲しくないというもっと偉大な人もいる。人の価値を決めるものは何かというのは、とても難しい問題だ。ぼくは基本的には、どんな賞を貰ったかで人や著作の判断をしたくないという部類の人間だと思っている。しかし、思っているだけで、本当にそうかは怪しいのである。
昔、ぼくは編集者をしていた。ぼくがおつき合いをさせて戴いた著者の中に松下真一さんという方がおられた(多くの人はご存じないだろうが、物理学者・哲学者にして作曲家という希なる才能を持った方であった。物理学者ヨルダンと親交があり、ハイデガーに関する論文もあった。作曲家としての才能は大澤徹訓さんのホームページをご覧あれ)。その松下さんと電話で話していたときのこと、ぼくはある学者のことを肯定的に「あの方はノーベル賞候補だから」と言ってしまった。そうすると松下さんは「橋元君、君までもがそんなことを言うのか!」と烈火のごとく怒られた。ぼくにもやっぱり、ノーベル賞を貰う人偉い人という「下心」があったのだ。
松下真一さんは、天才でありながら世間にあまり認められることなく世を去られた。亡くなられる少し前に、ぼくに電話をしてこられた。「君だけが頼りだ」みたいな電話だったと記憶しているが、ぼくはすでに編集者を辞めていた。もう多くの記憶は薄れてしまったが、あのノーベル賞の電話だけは、いまだにはっきり覚えている。



【注】この記事に関連するAmazonの書評は、現在、消去されています。2008.01.31