Lex&Co Webマーケティング部
1
不意の電話は
夜8時に
その日はパチンコを打ち終え
心地よい疲労感に包まれながら
夜の道を歩いていました。
長時間ホールにいたせいか
体には少し疲れが残っています。
「今日はこれで終わりだな」
そんなことを考えながら歩
いていた夜8時頃、ポケットの
中でスマートフォンが鳴りました。
画面に表示された名前を見て
私は少し驚きました。
いつも一緒にパチンコへ行っている
「お兄さん」からでした。
「もしもし、どうしたんですか?」
電話に出ると
向こうから聞き慣れた
声が返ってきます。
「おぅ、今何してた?」
「ちょうど今、パチンコを
終えて歩いているところですよ」
すると、お兄さんは
少し嬉しそうな声で言いました。
「いやさ、今日お好み焼きを
焼いたのはいいんだけど
ちょっと張り切りすぎちゃってさ。
気がついたら山ほど作りすぎちゃったんだよ。
良かったら一緒に食べないか?
今から迎えに行くから
今どこにいるか教えてよ」
思いがけない誘いでした。
時計は夜8時。
ちょうどお腹も空いてくる時間です。
「本当ですか?
じゃあ、今〇〇駅にいます」
「了解。すぐ行くわ」
私はてっきり車で迎えに
来てくれるものだと思い
駅のロータリー付近で待っていました。
ところが、数分後。
遠くからこちらへ歩いてくる
お兄さんの姿が見えました。
「あれ? 車じゃないんですか?」
そう尋ねると
お兄さんは笑いながら答えました。
「うん。ここから俺の家
歩いて五分だからさ」
「えっ?」
思わず聞き返しました。
「引っ越したんですか?」
すると、お兄さんは
少し考えるような顔をして
「あれ、言ってなかったっけかな」
と、いつもの
自由奔放な調子で答えました。
まさか、いつの間にかこんな
近くに引っ越していたとは。
そんなことを話しながら
私たちは駅から歩いて
お兄さんの新しい家へ向かいました。
2
ドアを開けると
お好み焼きの香り
本当に駅から歩いて五分ほどでした。
「近いですね」
「だろ? だから車で
迎えに来る必要ないんだよ」
そんな会話をしながら
お兄さんの新しい部屋へ入りました。
ドアを開けた瞬間
香ばしいソースとマヨネーズの匂いが
部屋いっぱいに広がってきます。
その香りを嗅いだだけで
さっきまでパチンコを
打っていた疲れが少し吹き飛びました。
テーブルの上には
大皿に盛られた熱々のお好み焼き。
そして、その横には
冷えた缶ビールが並んでいます。
「どうぞ、座って」
「ありがとうございます。
いただきます」
部屋を見渡すと
いつも一緒にいる彼女さんの
姿が見当たりませんでした。
少し気になって尋ねます。
「そういえば
彼女さんはどうしたんですか?」
「あぁ、今ちょっと
出かけてるんだよね。
そのうち戻ると思うよ」
そう言いながら
お兄さんが
ビールの缶を開けました。
私もお言葉に甘えて
冷たいビールを一口。
パチンコ店の喧騒と
一日の疲れが、少しずつ
体から抜けていくようでした。
そして、お好み焼きを一口。
「これ、美味しいですね」
お兄さんが「だろ?」
という顔をします。
山ほど作ったという話でしたが
確かに箸が止まりません。
二人でお好み焼きを食べながら
その日のパチンコの収支や
最近の出来事など
いろいろな話をしました。
そんな中、お兄さんが突然
少し真面目な顔になりました。
「この前は、ごめん」
「え? 何がですか?」
私が聞き返すと、お兄さんは
前回一緒に出かけたときの
話を始めました。
「ほら、この前一緒に行った
漫画ミュージアムさ。
ぶっちゃけ
あまり面白くなかったでしょ?
普段からあまり本とか読まないよね。
退屈させちゃったんじゃないかって
ずっと気になってたんだよ」
その言葉を聞いて
思わず笑ってしまいました。
「そんなことないですよ!
新鮮で楽しかったですって」
自分が楽しめたかどうか以上に
相手が退屈していなかったかを
気にしてくれていた。
その優しさが
なんだか嬉しかったです。
お好み焼きを囲んだ夜は
ますます和やかな
空気になっていきました。
3
彼女さんが帰宅
時計の針が21時を過ぎた頃。
玄関から鍵を開ける
音が聞こえてきました。
「ただいまー」
彼女さんが帰ってきました。
「おかえり。今
お好み焼きいただいてます!」
私が挨拶すると
彼女さんは優しく微笑んでくれました。
「どうぞどうぞ
たくさん食べてね。でも
この人の作るお好み焼き
あまり美味しくないでしょう?」
すると
すかさずお兄さんが口を挟みます。
「いやさ、美味しいよ!」
私も笑いながら
「いやいや
そんなことないですよ。
本当に美味しいですよ」
と答えました。
お兄さんは得意げな顔をし
彼女さんは
「お世辞が上手なんだから」
と笑っています。
二人の掛け合いを見ていると
こちらまで自然と
笑顔になりました。
長く一緒にいる
二人だからこそ出せる
何とも言えない温かい空気でした。
やがてお好み焼きを食べ終え
お腹もいっぱいになりました。
すると、お兄さんがテレビの
リモコンを手に取ります。
「よし。食べ終わったし
DVDで『鬼滅の刃』の
今までの分を見るか?」
「いいですね。見ましょう!」
ここから
深夜の宴が始まりました。
4
ビールから
日本酒へ――
そして記憶が途切れた
テレビ画面では
熱い戦いが繰り広げられています。
こちらでは
お酒を飲みながら、それを眺める。
最初はビールでした。
しかし、時間が経つにつれて
テーブルの上に
空き缶が増えていきました。
そして
ついにビールがなくなります。
すると、お兄さんが
奥から一本の日本酒を持ってきました。
「これ、結構いい
酒なんだよ。飲んでみて」
「じゃあ、いただきます」
小さなグラスに注がれた
日本酒を口にします。
思っていたよりも
口当たりが良い。
すっと入ってくる。
それが危険でした。
飲みやすいお酒ほど
ペースを忘れてしまいます。
テレビから流れる劇中の音。
お兄さんとの楽しい会話。
彼女さんの穏やかな相槌。
そして、少しずつ
早くなっていくお酒のペース。
気がつけば
自分がどれだけ飲んだのか
完全に分からなくなっていました。
かすかに覚えているのは、壁の時計。
その針が「2時30分」を
指していたことだけでした。
「まだ、いけますね……」
自分ではそう言ったらしい。
しかし、それが最後でした。
次の瞬間から
私の記憶は完全に途切れました。
5
朝6時
見慣れない天井
目が覚めました。
朝でした。
時計を見ると
6時頃。
目に飛び込んできたのは
見慣れない天井。
窓からは薄明るい
朝の光が差し込んでいます。
「うわ……やってしまった……」
頭が少し重い。
どうやら完全に泥酔して
そのまま寝落ちして
しまったようです。
横を見ると
お兄さんはまだ眠っています。
気持ちよさそうに
寝息を立てていました。
私は申し訳なさと気まずさで
しばらく身を縮めていました。
すると、キッチンの方から
静かな足音が聞こえてきます。
彼女さんは
もう起きていました。
「あ、おはようございます……」
私は慌てて頭を下げました。
「昨晩は本当にすみませんでした。
図々しく朝まで寝てしまって……」
すると彼女さんは、怒るどころか
ふんわりとした
笑顔を見せてくれました。
「おはよう。
気にしなくて大丈夫よ」
そして、マグカップを
差し出してくれました。
「はい。濃いコーヒーを入れたから
飲んで、少しはすっきりすると思うから」
6
朝のブラックコーヒー
受け取ったマグカップから
香ばしいコーヒーの
香りが立ち上っていました。
そして、彼女さんが一言。
「ミルクや砂糖はいらないよね」
「はい」
自分の好みを覚えていてくれたことが
なんだか嬉しかったです。
私はブラックコーヒーを一口飲みました。
強い苦味が
まだアルコールの残る
頭にガツンと入ってきます。
眠気と酔いが少しずつ
抜けていくようでした。
「本当にごちそうさまでした。
そろそろ自宅に帰りますね」
荷物をまとめ、立ち上がります。
彼女さんは
「駅まで送ろうか?」
と言ってくれました。
しかし、これ以上ご迷惑を
かけるわけにはいきません。
「いえ、大丈夫です。
すぐそこですし
歩いて帰ります。
お兄さんにも
よろしくお伝えください」
そう言って
何度も頭を下げました。
そして
お兄さんの家を後にしました。
7.
自宅で飲む
もう一杯のコーヒー
外に出ると
朝の空気はひんやりとしていました。
火照った体には
その冷たさが心地よく
感じられました。
まずは〇〇駅の方向へ歩き
そこからバスに乗って
自宅へ向かいました。
無事に自宅へ着いたのは
朝7時30分頃。
玄関を開け、荷物を置きます。
少し落ち着いたところで
私は自分でもう一杯コーヒーを
作ることにしました。
朝の静かな部屋に
コーヒーの香ばしい香りが
広がっていきます。
出来上がったコーヒーを
ゆっくりと口に含む。
苦味が心地よく
頭の中に残っていた
眠気が少しずつ薄れていきました。
何口か飲んでいるうちに
不思議なほど目が冴えてきます。
さっきまで感じていた眠気は
いつの間にかなくなっていました。
「これなら、もう大丈夫そうだな」
そう思いながら
私は昨夜のことを思い返していました。
パチンコを打ち終えた夜。
突然かかってきた
お兄さんからの電話。
駅から歩いて五分という
思いがけない新居。
熱々のお好み焼き。
冷たいビール。
彼女さんとの温かいやり取り。
深夜まで見続けた『鬼滅の刃』。
飲みやすかった日本酒。
そして
朝6時にいただいたブラックコーヒー。
さらに帰宅してから
自分で作った、もう一杯のコーヒー。
振り返れば
ずいぶん濃密な一夜でした。
楽しい時間は
あっという間に過ぎます。
それなのに、翌朝になって思い返すと
とても長い時間を
過ごしたようにも感じました。
そして何より心に残ったのは
食事やお酒そのものではありません。
突然声をかけてくれた
お兄さんの優しさ。
前回の漫画ミュージアムのことまで
気にかけてくれていた心遣い。
そして、泥酔して朝まで
寝てしまった私を責めることなく
温かいブラックコーヒーを
出してくれた彼女さん。
人の優しさというのは
大げさな言葉ではなく
こうした何気ない瞬間に
感じるものなのかもしれません。
彼女さんからいただいた
ブラックコーヒーで朝を迎え
自宅に帰ってから自分で
作ったコーヒーで眠気も
すっかりなくなりました。
その二杯のコーヒーが
長い夜の終わりを静かに
締めくくってくれたような
気がしました。
パチンコを打ち終えた
夜にかかってきた、一本の電話。
その電話から始まった
思いがけない一夜。
お好み焼きの味。
日本酒の酔い。
深夜まで
続いた楽しい時間。
そして最後に残った
コーヒーの香りと人の温かさ。
長くて、短くて
とても濃密だった一夜。
そんな忘れられない夜が
静かに終わりました。
これで終わります。
最後まで読んで頂き
ありがとうございました。
