「追悼 デヴィッドボウイ」の記事は、
ちょっと感傷的な、
100%私的ブログになってしまった。
洋服屋のブログのくせに、
ファッションの視点が欠けていたのでは?
と反省しもう一度…
というのはウソで、
ロックファンの私としては、
ただデヴィッドボウイのことを書きたいだけなのだ。
デヴィッドボウイの
ファッションと言えば、
真っ先にクローズアップされるのが、
ジギースターダスト時代の
山本寛斎デザインのステージ衣装だ。
マントに「出火吐暴威」の当て字が、
たくさん書かれたアレです。
その後の時代も、常に音楽シーンだけでなく、ファッションシーンでもトップを走り続けた。

同時代でロック界における洒落者には、
ロキシーミュージックの
ブライアンフェリーや、
エリッククラプトンなどがいるが、
どこどこのブランドを着ているとかいう、
先に服ありきの二人に比べ、
ボウイの場合は彼が身に付けた服が、
その時代の象徴の服になるという、
トップデザイナーにまで影響を与える、
別次元のレベルなのだ。
ロックシーンにおいても、
常にその時代の先にある音を読む
嗅覚とセンスは、ずば抜けていた。
ブライアンイーノやナイルロジャースを
いち早く起用したのもいい例だ。
他のアーティストは、
彼の切り開いた道を、後から追えば
いいだけなのだ。

さて、ここからは、
メンズビギとデヴィッドボウイとの
浅からぬ関係について。
1960年代におけるロンドンは、
世界中で最も刺激的な街だった。
「スウィンギング・ロンドン」と呼ばれ、
ファッション、音楽、映画、アート、建築に至るまで、若者のストリートカルチャーの黄金時代を迎えた。
特に音楽とファッションは密接であり、
一体化していたと言っても過言ではない。
このような土壌の中から、
デヴィッドボウイが
出現してくるのである。
そして世界中からも、
多くの才能のある若者達が
刺激を求めてやってくる。
ロンドンは、カオスと化す。
そんな中に、日本からやってきた
若かりし菊池 武夫氏もいたのである。
伝統と革新の混在の中から生まれた、
新しい価値観のユースカルチャー。
当時ロンドンでしか体験できない刺激、
エネルギー、パワー。
同じ時代に、同じ場所で、
同じ空気を吸った、二人の若者。
その後70年代に入った
デヴィッドボウイは、
「ジギースターダスト」で
トップアーティストに上り詰める。
一方の菊池 武夫氏は、日本に戻り、
伝統的な英国ファッションに、
ストリートの要素を取り入れた、
全く新しい価値観の男服、
「メンズビギ」を立ち上げ、
一世を風靡していくのだ。
そして80年代…
デヴィッドボウイは、
それまでの路線から一転し、
究極のポップアルバム「レッツダンス」
を発表し、世界中を熱狂させる。
一方、菊池 武夫氏の意志を引き継いだ
メンズビギは、80年代に巻き起こる
空前のDCブランドブームの牽引役となる。
当時のメンズビギには
「バルビッシュ」という、
゛大人のヨーロピアンラグジュアリー゛
ブランドがあった。
(1976年、菊池 武夫氏が立ち上げた。
その後デザイナーは、愛弟子の
小栗 壮介氏に受け継がれる)
デヴィッドボウイは「レッツダンス」
発表後、大規模な世界ツアーに出る。
その「シリアス・ムーンライト・ツアー」
時に愛用していたのが、
なんと⁉
バルビッシュだったのです❗
ついに、繋がったのです。
メンズビギとデヴィッドボウイが❗
関係ないけど、
実は、私も13年間バルビッシュを
担当していたことがあるのです。
その時に、世界基準の服というものを
勉強させてもらいました。
その後2000年代に入り、
当時のメンズビギディレクター、
坂田 真彦氏が、デヴィッドボウイの
「ジギースターダスト」や、
「アラジンセイン」をシーズンテーマに掲げ、その世界観を服で表現したのです。
その時のカタログを披露しようと探したんだけど、見つからなかった。
残念…。
あ~書いてて楽しかった、今日の記事は。
結局また、100%私的ブログだけど…。
メンズビギ マルイシティ横浜店 GMより