走りの殿堂の不思議な世界

走りの殿堂の不思議な世界

アウトローなオヤジのひとり言

2026年、1月3日・・・何の前触れもなくオレのアンテナは久しぶりに良い周波数をキャッチした

一般的にはこれを「神のお告げ」というw

霧が晴れるように心の中にあったモヤモヤしたものがスーっと消えてゆき、今年、あるいはこれからの私の方向性を

まったくブレない状態で保ってゆく・・・オレを縛り付けていたあらゆるものから解放された気分である

 

もともとオレは1970年代後半、高校生ぐらいのとき仲の良い友達も何人かいたが、学校の中ではなんとなく孤立しているタイプだった。。。みんなはテレビや雑誌などで何が流行っているとか友達の噂話とか・・そんなのばかり

パンク・ロックが好きでバンドもやっていたが、オレ自身が何者なのか?何をどうすればよいのか?

まったくわからない状態だった。。。

高校卒業後、20歳ぐらいのとき、アメリカのロックバンド「ザ、ドアーズ」のリーダーだったジム・モリソンの自伝が発売された。それまで神秘のベールに覆われロックのカリスマ的存在だった男の詳しい話が書いてある初めての本であった

ドアーズというバンド名も18世紀のイギリスの詩人、ウイリアム・ブレイクの詩の一説に「知覚の扉が開かれたとき、すべてはありのままに万物は無限に永遠の実相を顕すだろう」という言葉が由来しているという

その後、20世紀に入ってからオルダス・ハクスリー博士がメスカリンなどの幻覚剤による実験をもとに

その現象を詳しく書いた「知覚の扉」という書物も出されていて、どちらかというとブレイクよりもハクスリーのほうが

有名になっているようだが・・どちらも内容が難解すぎて、あまり理解されずにいる

だが、オレはそれらを読んでものすごくインスピレーションを得て、言葉では説明しずらいこのことを

自らの音楽に取り入れ創作活動をしていた

また・・ジム・モリソンが愛読していたというランボーやニーチェ・・その他、多くの哲学、文学書も読み漁った

そのころのオレは風変わりな若者と思われていただろうが・・・ロックバンドのリーダーということもあって

それもまた強力な個性としてなんとなく受け入れられていたような気もする

 

しかし社会人になると・・そんなものは一切通用しない、そのころは昭和の終わりのバブルの時代だったが

世間の常識みたいなものを否応なく叩き込まれ、オレの本質的な部分などはまったく理解されるはずもなかった

世間の一般常識と言葉では理解されない神秘の世界の狭間で常に軋轢を感じながら妥協を繰り返すしかない日々を送っていた

 

90年代に入ってから「チベットの死者の書」の解説本を1960年代に出版し大きなムーブメントを起こした

ティモシーリアリーの本が復刻され、読んでみるとやはりオレの本質的な考えに間違えがなかったことに気が付く

そのころからか?日本でも「スピリチュアル」などという言葉が現れ・・目には見えない不思議な力が存在する・・

みたいなことを言う人たちが徐々に増えてきた

時代がやっとオレに追い付いてきたという感じか?しかし、にわかスピリチュアルの連中はパワースポットだの

パワーストーンだの根拠がわからないのに、なんとなくファッション感覚で楽しんでいる風潮もあり

オレは自分の考えが他人に理解されなかった経験から、そのようなことを物理や化学で説明できるよう

そっち方面の勉強もかなりやってきた

 

2000年代に入ってからアメリカではレオナルド・ホロヴィッツ博士という人が注目され始め

彼の書いた本「528Hzは愛の~」みたいなタイトルの本があるのだが・・これは日本では売れないだろうと思ったのか?

出版社は「ジョン・レノンを殺した凶器の旋律A=440Hz」というタイトルで発売した

もともとビートルズやジョンのファンでもあったため・・買って読んでみたがジョン・レノンについて書かれているのは

わずか4ページぐらい。。しかしそこには528Hzの周波数が自然界の法則のもとになるものである!

ということを詳しく書いている

 

またあるときオレは仕事の関係もあってカイロ・プラクティックの店舗に訪問し施術をうけてみた

一見、ごく普通のカイロで施術者は50歳ぐらいの女性であったが・・・オレが店内を見まわしなにやら

大がかりな装置が置いてあるのを見つけ「あれは何に使うんですか?」と聞くと

「あれは電磁波で治療するものなんです、そのうち薬なんか使わなくてもすべて電磁波で病気が治る時代が来ますよ

ただ製薬会社の反発にあって、なかなかすすまないんです」と言う

オレは「なんかレオナルド・ホロヴィッツみたいなことを言いますね?」と言った瞬間、その女性がびっくりしたような顔で

「あなたはホロヴィッツ博士をしってるんですか?だったら話が早い」といろいろ話し始めたのだが

「ところでオルダス・ハクスリーやティモシー・リアリーとかは?」と聞くと、そんな人はまったく知らないという

このひとは最近になってスピリチュアルにはまりこんだホロヴィッツ信者なんだろうな?

 

アメリカに住んでいる知り合いで(日本人)UFOとか宇宙人などに強い関心を持つ人がいて

その人から528Hzやスターシードなどの話も聞いた

そういうことは、今でも仲の良い友人でも理解してもらえない・・そりゃそうだ・・オレだって理解できてないんだから

理解できなくても直感的にわかることもある

目の前にある現実、物、金、テクノロジー・・それらも無視できないが・・そういったものに囚われすぎて

本当の何かを忘れかけているのではないか?

 

新年の抱負ではなく・・単なる覚書として

私は若いころロックミュージシャンになりたいと思っていた

高校生からバンド活動をはじめ・・その後、プロを目指しライヴハウスなどで活動しインディーズからレコードも発売した

自分には才能があると思い込んでいた

しかし段々と経験を積んでいくうちにプロの世界は思っていたような理想的なものではないということに気が付いていくものだ

結局、25歳でプロは断念しバンドは解散にした。それでも自分が表現したかった音楽を自己満足ではあるができていたので

それでよいと思った

それでも何か音楽関係の仕事をしてみたいという気持ちがあり、あるときレコード会社の社員募集の広告を見て

面接に行った

私は、以前バンドをやっていたこと、音楽のことには詳しく、聴く耳も強くあることをアピールしてみた

・・・が面接担当の人は「バンドをやっていたような人は原則お断りしているんです」という意外な言葉?

つまり音楽に対するこだわりが強すぎたり、その世界にどことなく夢や理想を持っている人が多く

結果、その思いが根底から崩れて逆に失望感から辞めてしまうという人が多いそうだ

音楽なんか知らなくてもビジネスや金儲けの手法に長けているひとを採用するという

今となっては・・まあ、そんなもんだよな・・という感じだが若き頃の自分には夢や幻想が打ち砕かれた

 

その後、何を考えてか募集広告の中に「学習塾の講師」というのを見つけ、いきなり人間が変わったかのように

応募してみたら見事採用が決まり、小、中学生を対象に数学、理科の講師となるのだが

ロックミュージシャンからいきなりネクタイをした先生へ・・これはこれで面白い、やりがいもあると

思った・・公立の学校がメインだったが私立受験コースの数学、または算数も担当し、それなりの実績も残した

しかし、ちょうどバブル経済が崩壊した90年代、倒産、リストラ当たり前の時代、私の勤め先も窮地に立たされ

6~7年勤務したが、いろいろあって退職した

しかし、まだその頃は30代後半ぐらいの年齢で、まだまだ諦めるのは早いと考え私立中学受験専門の塾の募集を見て

とりあえず面接に行ってみた

面接の担当は私より若い感じだったが履歴書を見て「あなたが通っていたのは公立の中学ですが私立受験の経験はないんですか?」

「大学以外は私立受験の経験ないです」「自分自身が経験ないのに私立受験の子供に教えられるんですか?」

・・・この言葉には驚いた「前の塾で実際に教えていたんだからできるに決まっているじゃないですか!」

結局は不採用の通知が来た

実力ではなく経歴だけで見てる・・・差別以外の何物でもないと感じた

 

その後、急に人間が変わり頭を使う仕事から肉体労働の世界へ・・

こういうとこなら実力主義だろう?と思ったのか

某、大手の物流関係の会社に勤めることとなる。トラックのターミナルで荷物の積み下ろしの作業の繰り返しだが

とりあえず、それも良かろう・・だが、このような現場では大学出ているような人はほとんどいなく

現場の主任のようなひとでも高卒レベルだった

大学出は最初からネクタイをしてデスクで仕事をする支店長候補のような人ばかりで

そんな具合だから現場では「あいつは大学出てるからって、やたら態度が偉そうな感じだよね!?」

と・・ここでも学歴による逆差別をうけなければならないはめに・・

それでも仕事は人一倍きちんとやっていたから、誰にも文句は言わせなかった

なんだかんだ10年働いたが・・やはり大学出だからか・・高卒の連中とは人間関係的に上手くいかないことも多く

結局は安い賃金でこき使われて使い捨てのように退職に追い込まれた

 

結局、30年間に渡り・・仕事においては差別と偏見に晒されながら何一つ大きな成果を出すこともできなかった

これが現実である!

とかく世間では、たまたま成功した人間の美談ばかりが語られるが1%の成功者の裏に99%の犠牲がある

努力や能力などではどうにもならない不条理な世の中はますます悪くなるばかりのような気がする

 

それでも・・俺は妥協することなく自分の思った通りのことを貫いてきたから一切、後悔も何もない

そして、これから先も世の中がどう変わろうと俺は俺でしかないのだから

日々を精一杯生きることしかできなのだから・・それに満足する以外に選択肢はないのだから

総括するとブレない自分がわかっていて頭の中では整理ができているのだから、不条理な世の中でも

幸せに生きてる自分がここにいる・・それに間違いはない

私が空手を始めたのは、中学1年の時。。。

牛を殴り倒し、ビール瓶の首を手刀で切ってしまう

超人的な空手家の存在を知り・・それまではプロレスファン

だったのだが、ジャイアント馬場やアントニオ猪木のような

身体のデカい人じゃなくても、そのような神業を使う大山倍達という空手家は「空手バカ一代」という劇画で少年マガジンに連載されていて夢中になって読んだ

またブルース・リーなどのカンフー映画も大ヒットし

ちょっとした空手ブームが巻き起こっていた

 

オレも強くなりたいという一心で当時、地上最強と言われていた

大山倍達の極真会館、総本部に入門した

 

厳しいというより壮絶な道場であった

まさにサバイバル。。極真空手が強いというより強いものが生き残るという感じだったと思う

入門者は空手ブームで大勢いた。しかし1ケ月で10人中9人はやめる・・1年後に残っているのは100人に1人。。

黒帯になれるのは千人にひとりと言われていた時代であった

 

オレは中1から中3まで道場に通い審査も受け青帯(7級)を

貰った

 

しかしである・・その頃、パンクロックなどが現れ夢中になり

またアメリカングラフィティーのような映画を見て

当時15歳のオレは・・あのように楽しく愉快なティーンエイジャーの青春を謳歌するのに憧れた

毎日を苦しい修行と全身アザだらけの痛い思いをし続けながら

過ごすのと・・しかも誰かに強制されてるのではなく自分の意志でやっているのだから。。

 

結果的には誘惑に負けて道場はやめてしまった

それでも2年間の間にかなり強くもなったし良い経験もできた

 

千人にひとりのサバイバルに残れず黒帯にはなれなかった挫折感。だけど2年間もよく頑張ったという言い訳のような満足感

 

とにかくパンクロックをやりながら新しいライフスタイルにワクワクしていた

 

高校生になると違う中学から来た知らない奴から

「土井君ってF中学でしょ?F中で極真空手やってたのって

土井君のことですかー?」と聞いてくる奴がいた

「うん、F中で極真空手をやっていたのはオレしかいないから」

と答えると「あんたのことはウチの中学でも有名でしたよ!

なんでも極真空手の二段でブロックなんかも簡単に割るとか」

 

噂というものは誇張されて伝わるものだが格闘技の世界では特にそれがスゴイ。。

オレは余裕をかました口調で「あ~道場はもうやめたんだけどな・・ブロック?ここにあれば割ってやってもいいよ」

と冗談半分でいったのだが、そいつは本気にしてあっちこっちで言いふらかし、いつの間にか学校中に広まっていた

 

似たようなことは大学に入っても社会人になってからも、多少なりともあった。。北斗神拳の伝承者じゃないんだから

オレはサバイバル競争についていけなかった負け犬なのに

過大評価され、ついつい調子に乗ってしまう。。

だが、そんなに強くはない

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

時は流れ・・オレも50歳を過ぎたころ極真空手をやめてから

35年も経っていた・・もう若くないんだから何か運動をしないと体力や筋肉もどんどん落ちるな~何かやらなくちゃ?

と思っていたころ、灯台下暗し・・ウチの近所に空手道場があるではないか。。看板も出ていない小さな町の空手愛好会みたいなもんかと思っていたら・・そこは極真会館、本部師範代も務めていた真樹日佐夫先生が設立した真樹道場の支部であった

真樹先生は他界していたが・・極真と変わらない稽古をしながらも・・あのようなサバイバルではなく子供も年配も女性もみんなで仲良くやっている雰囲気が伝わってきて

あの汗臭い空手着の匂いをもう一度味わってみたくなり

入門した。。。

それから10年、私は昇段審査を受け黒帯になっている

 

先日、これまた偶然なのだが、オレが中学生の時に通っていた

池袋の極真会館、旧総本部に46年ぶりに行ってみた

大山総裁が亡くなった後、本部は別のところに新しく作られ

しかし、この場所を取り壊すのはもったいないという話から

レンタルスペースのような形で今もそのまま残っている

 

真樹道場の横浜の支部長がこの場所を1日レンタルして

マスターズ組手祭りのイベントを開催してくれたので参加してきました

61歳になった私が、あのころ果たせなかった夢を、、そう黒帯を締めてもう一度、原点だった場所に戻ってきた

もう、負け犬ではない

東大オールナイト、ライヴは雑誌などでも大きく取り上げられ、日本でもハードコア・パンクが注目を集めるようになってきた。

 

しかし・・LiVing Deadはベーシストもいなく宙ぶらりんな感じになっていた。。。。

長谷川ヒロトモは「変態クラブ」というバンドを作りライヴ活動をしていたが・・オレの記憶では、そんなに多くのライヴはやってなかったと思う。

 

一度、ライヴを見に行ったが、ヒロトモはギターで歌ってはいなかった。

演奏は、かなり滅茶苦茶なノイズのような雰囲気だったが、ステージに上がるや否や・・・ヒロトモはズボンとパンツを下ろしチ〇〇を引っ張りながら「イーッ!イーッ!」と奇声を発する!

演奏が始まる前から盛り上がっていた(笑)暴力的なことは何もやらないのだが・・異色の存在を示していた。。。

 

そんな頃、オレは、たまたま1冊の本と出合う。

「ジム・モリスン」の伝記だった。高校生の頃、一時期、ドアーズにハマった時期もあって・・1stアルバムしか持ってなかったが、インターネットもビデオもない時代、ドアーズというバンドは謎のベールに包まれた異次元のような存在だった気がする。

だから、その当時、流行っていたパンクやニューウェイヴを、よく聞いていたのだが・・・

 

今でこそ、ドアーズやジム・モリスンに関する書物は多く出てるが、その時見つけたシンコーミュージックのジム・モリスンの伝記は、それまでにはなかったもので・・オレは引き込まれるように読んだ。

そして、ドアーズのレコードは全部、買い、当時、ビデオが普及する前だったが海賊版のようなビデオを見つけ高価なのに手に入れた。

演奏シーンも断片的だが入っており、インタビューなどが多かったが字幕もなく、しかし表情や喋り方だけでも不思議と魅了された。

 

だんだんとロンドンのパンクから・・ニューヨークのパティ・スミスやイギー・ポップなど、さらに遡ってヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ルー・リードなど、NYアンダーグラウンドに強く興味が移ってきていた。

ドアーズはカリフォルニアだが・・別格の存在だった。

 

そんなあるとき、突然だったが・・イズミが「ヒロトモをLiVing Deadのメンバーにいれようと思うんだけど?あいつのヴォーカルの方が絶対いいから・・」「・・・で、イズミ・・お前は何やるの?」「オレ、ベースやるよ」

ヒロトモ(Vo)オレ(G)イズミ(B)クリヤン(Ds)・・・と、かなり強引な感じだが・・・やってみると、案外、すんなりとまとまった!

ある意味、最強だったかも知れない?ヒロトモのヴォーカルは歌というより叫びに近い感じで・・狂気に満ちている雰囲気はすでにあった。

曲はヒロトモ、オレ、イズミの3人が作っていた・・

 

どういうわけだか、そのメンバーでやったライヴはYAMAHAのイースト・ウエストというバンド・コンテスト、1回きりだった。予選落ちだったが、なんで、そんなコンテストに出たのか?よく覚えていないが・・他の奴らがやらないことをやるのが・・オレたちのポリシーだったからかな?

 

だが・・演奏は悪くなかったのだが・・納得がいかない?

意見や考え方がバラバラだった。。人間関係は悪くないのだが、やりたいことの方向性が定まっていないというか・・・

ヒロトモが入ってから、みんな個性が強すぎたのかもしれない?

ドラムは、いつの間にか(マル)に変わった。。。

 

1982年も、終わりに近づいたある日、イズミから電話があり・・「ヒロトモがやめたいと言ってるんだよ・・そろそろ解散にしないか?オレも、もうやる気なくなってきたし・・」

う~ん、やっぱりそうか~?仕方がないな。。。

 

オレは、しばらくバンドから離れ受験勉強をし・・大学に合格する。

 

気が付いたら、ヒロトモ、イズミ、マルの3人はベースにヒロシを入れて

イズミはギターに変わり、「あぶらだこ」という新しいバンドを結成していた。

あいつら・・・裏切ったな!?

でも、それで良かった。。オレは自分がヴォーカルで作詞・作曲も全部、オレが手掛ける新しいバンドを作りたいと思っていたのだから。。

 

1981年~82年にかけて短いけど濃かった、勢いだけでハチャメチャだった・・この時代があってオレたちは成長し・・自分の音楽を確立していったのかも知れない?

あの時代と、強烈な個性を持った奴らが刺激しあい・・裏でコントロールする人などいない状態で自らの力で何かをやろうとしてた・・

 

80年代、後半には「イカ天」「ホコ天」などのバンドブームでロックシーンは薄っぺらくなり・・90年代以降は、デジタル化した商業主義がはびこる。。

昭和のアナログの時代。。アンモニアとビールとタバコが入り交ざったあの匂い。。。

 

クリヤンは、その後「グレイト・リッチーズ」のベーシストになり、イカ天をきっかけにメジャーデビューした。

 

                          END

 

 

 

 

 

1981年11月、LiVing Deadは目黒のロッキーというライヴハウスで

ライヴをおこなった!

メンバーは、イズミ(Vo)オレ(G)マキ(B)元ミドルクラスのドラム(名前は忘れてしまった)であった。

そのころにはオレも曲を書くようになっていて、オレが作った曲も2~3曲ばかり演奏した。

 

 

しかし、このライヴを最後にベースのマキが脱退する。

オレ、イズミ、ミドルクラスのドラムと・・・ゴリゴリのパンクが集まり、もともとパンクっぽくなかったマキは、やけに浮いた存在になっていた。

金髪にしていたのもロジャー・テイラーの影響なんだから(笑)

 

イズミの四畳半のアパートは、なぜか、みんなの溜まり場状態になっていて、いつ行っても誰かいる・・みたいな、テレビも冷蔵庫もなく、ちゃぶ台とラジカセがあるだけの、その部屋は盗まれるものも何もないから鍵もかかってなく、勝手にみんなが入り込んでいるみたいな?

金も、あまりなかったので酒は酒屋で買ってきてイズミの四畳半で、みんなで飲んでるみたいな感じ・・

そうやって、いろんな奴らが出たり入ったりしている溜まり場には、長谷川ヒロトモもいた。

彼も同い年だが、俳優になりたくて東京に来たと言っていたが何らかの専門学校に籍を置いていた。オレたちと知り合ってからパンクを聞くようになっていた。

 

ちょうど、そんな頃、スターリンの法政大学でのライヴがあり、そのときの演奏はスターリンのインディーズのLP「TRASH」のB面に収められている。

1曲目は「メシ喰わせろ」だったがイントロが長い!そのイントロの間じゅうミチロウは客席に向かって放尿していた。。

噂には聞いていたが本当だったんだな。。しかし500人を超える観客の目の前でやるのだから・・その後、警察からもマークされ、次のライヴでは逮捕!それからは一切、そういうことはやらなくなったもんだから・・伝説になっている変態ぶりを実際に見た貴重なライヴだった(笑)

 

オレの記憶では、そのスターリンのライヴの時、ヒロトモが、たまたま見に来ていたイヌイという奴と知り合い意気投合していた。

イヌイは年下だったが高校には行ってなく、ベースが出来るという。

そこで・・LiVing Deadにベースで入らないか?と誘ったところ喜んでOKした。

また、ミドルクラスのドラムであるが・・ロッキーでのギグの後、バックれてしまい連絡も取れなくなっていた。イヌイの友達にクリヤマというドラマーがいるということで・・とりあえず、そのクリヤンにドラムを手伝ってもらうことにした。

 

 

ベースとドラムに新たにイヌイ、クリヤンが加入し、もう一度、ロッキーでライヴをやったあと、12月には、エモーショナル・マーケットというプロモーター主催のパンク・パーティーに出演!

LiVing Deadの他にもGAUZE,・・・GISM・・・・アレルギー、など新しい旋風を巻き起こすバンドが集結していた。

このときのライヴのことは雑誌「DOLL」などでも大きく取り上げられた。

 

1982年、この年からハードコアは一気にブレイクした!81年は、その序章のようなものだった。

1月、スターリンのタムが作ったADKの企画によるライヴが渋谷のプルチネラというところでおこなわれ、オレたちはエクスキュートも紹介して彼らのデビューライヴとなった。

このときの演奏の一部は後にシティロッカーレコードから発売されるオムニバス・アルバム「アウトサイダー」にも収録されたものも多いと思う。(LiVing Deadは収録されていないが)

 

2月にはエクスキュートの企画で新宿、キモノマイハウスで、エクスキュート、LiVing Dead、GISMの3バンドでライヴをおこなう。

 

5月、GISMの企画で東大オールナイト・パンク・ライヴがおこなわれることなったが・・かなり多くの出演バンドの中にオレたちの名前もあった。

しかし、ベースのイヌイが、いろいろと問題があり、脱退することに・・

よくも短期間に、こんだけメンバーチェンジがあるよな~?

東大ギグは、もう決まっているから、急遽、ベースを探した。

オレの高校時代の同級生に頼んで、この日だけでも参加しないかと誘うと・・「まあ・・面白そうだ、やってみるか!」という話になり・・・

しかし、彼は矢沢永吉とかのファンでパンクには、さほど興味もなく、というかパンクといっても・・・クラッシュとかラモーンズみたいなのは好きだがハードコアとかは、まったくと言っていいほど知らなかった。

髪はリーゼントっぽくしてたな~。。。

ライヴ当日、事件は起こった!

会場はハチャメチャのカオス状態・・あちこちでケンカやトラブルもあったが・・ウチらのリーゼントのベースが、何気なく通路を歩いていると、誰だかわからないが・・そいつ目掛けて石を投げつけた奴がおり、直接は当たらなかったが、そばにあったガラス窓に当たってガラスが砕け落ち・・彼はガラスの破片を頭からかぶってしまった。

 

オレは、その場にいなくて見てはいないのだが・・近くにいたイズミたちが、心配していたらしい。幸い怪我はなかったのだが、リーゼント・ベースは怒って帰ってしまった!

それで、オレたちは演奏をキャンセルにした。

次の日、彼に電話をしたが・・まだ怒っていて

「オレはロックを楽しみたいんだ!だけど、あの連中は楽しもうという気が、まったくないみたいだな!」

 

その言葉できがついた!イズミとオレが出会ってから、まだ1年足らず・・その間に、いろんなことがあったが・・少なくとも仙台に行った頃は楽しかった。。しかし、スターリン、ハードコア・・そもそもオレが目指していたものは・・そういうものではなかったのではないだろうか?

 

                       つづく・・・・