走りの殿堂の不思議な世界

走りの殿堂の不思議な世界

アウトローなオヤジのひとり言

Amebaでブログを始めよう!

私が空手を始めたのは、中学1年の時。。。

牛を殴り倒し、ビール瓶の首を手刀で切ってしまう

超人的な空手家の存在を知り・・それまではプロレスファン

だったのだが、ジャイアント馬場やアントニオ猪木のような

身体のデカい人じゃなくても、そのような神業を使う大山倍達という空手家は「空手バカ一代」という劇画で少年マガジンに連載されていて夢中になって読んだ

またブルース・リーなどのカンフー映画も大ヒットし

ちょっとした空手ブームが巻き起こっていた

 

オレも強くなりたいという一心で当時、地上最強と言われていた

大山倍達の極真会館、総本部に入門した

 

厳しいというより壮絶な道場であった

まさにサバイバル。。極真空手が強いというより強いものが生き残るという感じだったと思う

入門者は空手ブームで大勢いた。しかし1ケ月で10人中9人はやめる・・1年後に残っているのは100人に1人。。

黒帯になれるのは千人にひとりと言われていた時代であった

 

オレは中1から中3まで道場に通い審査も受け青帯(7級)を

貰った

 

しかしである・・その頃、パンクロックなどが現れ夢中になり

またアメリカングラフィティーのような映画を見て

当時15歳のオレは・・あのように楽しく愉快なティーンエイジャーの青春を謳歌するのに憧れた

毎日を苦しい修行と全身アザだらけの痛い思いをし続けながら

過ごすのと・・しかも誰かに強制されてるのではなく自分の意志でやっているのだから。。

 

結果的には誘惑に負けて道場はやめてしまった

それでも2年間の間にかなり強くもなったし良い経験もできた

 

千人にひとりのサバイバルに残れず黒帯にはなれなかった挫折感。だけど2年間もよく頑張ったという言い訳のような満足感

 

とにかくパンクロックをやりながら新しいライフスタイルにワクワクしていた

 

高校生になると違う中学から来た知らない奴から

「土井君ってF中学でしょ?F中で極真空手やってたのって

土井君のことですかー?」と聞いてくる奴がいた

「うん、F中で極真空手をやっていたのはオレしかいないから」

と答えると「あんたのことはウチの中学でも有名でしたよ!

なんでも極真空手の二段でブロックなんかも簡単に割るとか」

 

噂というものは誇張されて伝わるものだが格闘技の世界では特にそれがスゴイ。。

オレは余裕をかました口調で「あ~道場はもうやめたんだけどな・・ブロック?ここにあれば割ってやってもいいよ」

と冗談半分でいったのだが、そいつは本気にしてあっちこっちで言いふらかし、いつの間にか学校中に広まっていた

 

似たようなことは大学に入っても社会人になってからも、多少なりともあった。。北斗神拳の伝承者じゃないんだから

オレはサバイバル競争についていけなかった負け犬なのに

過大評価され、ついつい調子に乗ってしまう。。

だが、そんなに強くはない

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

時は流れ・・オレも50歳を過ぎたころ極真空手をやめてから

35年も経っていた・・もう若くないんだから何か運動をしないと体力や筋肉もどんどん落ちるな~何かやらなくちゃ?

と思っていたころ、灯台下暗し・・ウチの近所に空手道場があるではないか。。看板も出ていない小さな町の空手愛好会みたいなもんかと思っていたら・・そこは極真会館、本部師範代も務めていた真樹日佐夫先生が設立した真樹道場の支部であった

真樹先生は他界していたが・・極真と変わらない稽古をしながらも・・あのようなサバイバルではなく子供も年配も女性もみんなで仲良くやっている雰囲気が伝わってきて

あの汗臭い空手着の匂いをもう一度味わってみたくなり

入門した。。。

それから10年、私は昇段審査を受け黒帯になっている

 

先日、これまた偶然なのだが、オレが中学生の時に通っていた

池袋の極真会館、旧総本部に46年ぶりに行ってみた

大山総裁が亡くなった後、本部は別のところに新しく作られ

しかし、この場所を取り壊すのはもったいないという話から

レンタルスペースのような形で今もそのまま残っている

 

真樹道場の横浜の支部長がこの場所を1日レンタルして

マスターズ組手祭りのイベントを開催してくれたので参加してきました

61歳になった私が、あのころ果たせなかった夢を、、そう黒帯を締めてもう一度、原点だった場所に戻ってきた

もう、負け犬ではない

東大オールナイト、ライヴは雑誌などでも大きく取り上げられ、日本でもハードコア・パンクが注目を集めるようになってきた。

 

しかし・・LiVing Deadはベーシストもいなく宙ぶらりんな感じになっていた。。。。

長谷川ヒロトモは「変態クラブ」というバンドを作りライヴ活動をしていたが・・オレの記憶では、そんなに多くのライヴはやってなかったと思う。

 

一度、ライヴを見に行ったが、ヒロトモはギターで歌ってはいなかった。

演奏は、かなり滅茶苦茶なノイズのような雰囲気だったが、ステージに上がるや否や・・・ヒロトモはズボンとパンツを下ろしチ〇〇を引っ張りながら「イーッ!イーッ!」と奇声を発する!

演奏が始まる前から盛り上がっていた(笑)暴力的なことは何もやらないのだが・・異色の存在を示していた。。。

 

そんな頃、オレは、たまたま1冊の本と出合う。

「ジム・モリスン」の伝記だった。高校生の頃、一時期、ドアーズにハマった時期もあって・・1stアルバムしか持ってなかったが、インターネットもビデオもない時代、ドアーズというバンドは謎のベールに包まれた異次元のような存在だった気がする。

だから、その当時、流行っていたパンクやニューウェイヴを、よく聞いていたのだが・・・

 

今でこそ、ドアーズやジム・モリスンに関する書物は多く出てるが、その時見つけたシンコーミュージックのジム・モリスンの伝記は、それまでにはなかったもので・・オレは引き込まれるように読んだ。

そして、ドアーズのレコードは全部、買い、当時、ビデオが普及する前だったが海賊版のようなビデオを見つけ高価なのに手に入れた。

演奏シーンも断片的だが入っており、インタビューなどが多かったが字幕もなく、しかし表情や喋り方だけでも不思議と魅了された。

 

だんだんとロンドンのパンクから・・ニューヨークのパティ・スミスやイギー・ポップなど、さらに遡ってヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ルー・リードなど、NYアンダーグラウンドに強く興味が移ってきていた。

ドアーズはカリフォルニアだが・・別格の存在だった。

 

そんなあるとき、突然だったが・・イズミが「ヒロトモをLiVing Deadのメンバーにいれようと思うんだけど?あいつのヴォーカルの方が絶対いいから・・」「・・・で、イズミ・・お前は何やるの?」「オレ、ベースやるよ」

ヒロトモ(Vo)オレ(G)イズミ(B)クリヤン(Ds)・・・と、かなり強引な感じだが・・・やってみると、案外、すんなりとまとまった!

ある意味、最強だったかも知れない?ヒロトモのヴォーカルは歌というより叫びに近い感じで・・狂気に満ちている雰囲気はすでにあった。

曲はヒロトモ、オレ、イズミの3人が作っていた・・

 

どういうわけだか、そのメンバーでやったライヴはYAMAHAのイースト・ウエストというバンド・コンテスト、1回きりだった。予選落ちだったが、なんで、そんなコンテストに出たのか?よく覚えていないが・・他の奴らがやらないことをやるのが・・オレたちのポリシーだったからかな?

 

だが・・演奏は悪くなかったのだが・・納得がいかない?

意見や考え方がバラバラだった。。人間関係は悪くないのだが、やりたいことの方向性が定まっていないというか・・・

ヒロトモが入ってから、みんな個性が強すぎたのかもしれない?

ドラムは、いつの間にか(マル)に変わった。。。

 

1982年も、終わりに近づいたある日、イズミから電話があり・・「ヒロトモがやめたいと言ってるんだよ・・そろそろ解散にしないか?オレも、もうやる気なくなってきたし・・」

う~ん、やっぱりそうか~?仕方がないな。。。

 

オレは、しばらくバンドから離れ受験勉強をし・・大学に合格する。

 

気が付いたら、ヒロトモ、イズミ、マルの3人はベースにヒロシを入れて

イズミはギターに変わり、「あぶらだこ」という新しいバンドを結成していた。

あいつら・・・裏切ったな!?

でも、それで良かった。。オレは自分がヴォーカルで作詞・作曲も全部、オレが手掛ける新しいバンドを作りたいと思っていたのだから。。

 

1981年~82年にかけて短いけど濃かった、勢いだけでハチャメチャだった・・この時代があってオレたちは成長し・・自分の音楽を確立していったのかも知れない?

あの時代と、強烈な個性を持った奴らが刺激しあい・・裏でコントロールする人などいない状態で自らの力で何かをやろうとしてた・・

 

80年代、後半には「イカ天」「ホコ天」などのバンドブームでロックシーンは薄っぺらくなり・・90年代以降は、デジタル化した商業主義がはびこる。。

昭和のアナログの時代。。アンモニアとビールとタバコが入り交ざったあの匂い。。。

 

クリヤンは、その後「グレイト・リッチーズ」のベーシストになり、イカ天をきっかけにメジャーデビューした。

 

                          END

 

 

 

 

 

1981年11月、LiVing Deadは目黒のロッキーというライヴハウスで

ライヴをおこなった!

メンバーは、イズミ(Vo)オレ(G)マキ(B)元ミドルクラスのドラム(名前は忘れてしまった)であった。

そのころにはオレも曲を書くようになっていて、オレが作った曲も2~3曲ばかり演奏した。

 

 

しかし、このライヴを最後にベースのマキが脱退する。

オレ、イズミ、ミドルクラスのドラムと・・・ゴリゴリのパンクが集まり、もともとパンクっぽくなかったマキは、やけに浮いた存在になっていた。

金髪にしていたのもロジャー・テイラーの影響なんだから(笑)

 

イズミの四畳半のアパートは、なぜか、みんなの溜まり場状態になっていて、いつ行っても誰かいる・・みたいな、テレビも冷蔵庫もなく、ちゃぶ台とラジカセがあるだけの、その部屋は盗まれるものも何もないから鍵もかかってなく、勝手にみんなが入り込んでいるみたいな?

金も、あまりなかったので酒は酒屋で買ってきてイズミの四畳半で、みんなで飲んでるみたいな感じ・・

そうやって、いろんな奴らが出たり入ったりしている溜まり場には、長谷川ヒロトモもいた。

彼も同い年だが、俳優になりたくて東京に来たと言っていたが何らかの専門学校に籍を置いていた。オレたちと知り合ってからパンクを聞くようになっていた。

 

ちょうど、そんな頃、スターリンの法政大学でのライヴがあり、そのときの演奏はスターリンのインディーズのLP「TRASH」のB面に収められている。

1曲目は「メシ喰わせろ」だったがイントロが長い!そのイントロの間じゅうミチロウは客席に向かって放尿していた。。

噂には聞いていたが本当だったんだな。。しかし500人を超える観客の目の前でやるのだから・・その後、警察からもマークされ、次のライヴでは逮捕!それからは一切、そういうことはやらなくなったもんだから・・伝説になっている変態ぶりを実際に見た貴重なライヴだった(笑)

 

オレの記憶では、そのスターリンのライヴの時、ヒロトモが、たまたま見に来ていたイヌイという奴と知り合い意気投合していた。

イヌイは年下だったが高校には行ってなく、ベースが出来るという。

そこで・・LiVing Deadにベースで入らないか?と誘ったところ喜んでOKした。

また、ミドルクラスのドラムであるが・・ロッキーでのギグの後、バックれてしまい連絡も取れなくなっていた。イヌイの友達にクリヤマというドラマーがいるということで・・とりあえず、そのクリヤンにドラムを手伝ってもらうことにした。

 

 

ベースとドラムに新たにイヌイ、クリヤンが加入し、もう一度、ロッキーでライヴをやったあと、12月には、エモーショナル・マーケットというプロモーター主催のパンク・パーティーに出演!

LiVing Deadの他にもGAUZE,・・・GISM・・・・アレルギー、など新しい旋風を巻き起こすバンドが集結していた。

このときのライヴのことは雑誌「DOLL」などでも大きく取り上げられた。

 

1982年、この年からハードコアは一気にブレイクした!81年は、その序章のようなものだった。

1月、スターリンのタムが作ったADKの企画によるライヴが渋谷のプルチネラというところでおこなわれ、オレたちはエクスキュートも紹介して彼らのデビューライヴとなった。

このときの演奏の一部は後にシティロッカーレコードから発売されるオムニバス・アルバム「アウトサイダー」にも収録されたものも多いと思う。(LiVing Deadは収録されていないが)

 

2月にはエクスキュートの企画で新宿、キモノマイハウスで、エクスキュート、LiVing Dead、GISMの3バンドでライヴをおこなう。

 

5月、GISMの企画で東大オールナイト・パンク・ライヴがおこなわれることなったが・・かなり多くの出演バンドの中にオレたちの名前もあった。

しかし、ベースのイヌイが、いろいろと問題があり、脱退することに・・

よくも短期間に、こんだけメンバーチェンジがあるよな~?

東大ギグは、もう決まっているから、急遽、ベースを探した。

オレの高校時代の同級生に頼んで、この日だけでも参加しないかと誘うと・・「まあ・・面白そうだ、やってみるか!」という話になり・・・

しかし、彼は矢沢永吉とかのファンでパンクには、さほど興味もなく、というかパンクといっても・・・クラッシュとかラモーンズみたいなのは好きだがハードコアとかは、まったくと言っていいほど知らなかった。

髪はリーゼントっぽくしてたな~。。。

ライヴ当日、事件は起こった!

会場はハチャメチャのカオス状態・・あちこちでケンカやトラブルもあったが・・ウチらのリーゼントのベースが、何気なく通路を歩いていると、誰だかわからないが・・そいつ目掛けて石を投げつけた奴がおり、直接は当たらなかったが、そばにあったガラス窓に当たってガラスが砕け落ち・・彼はガラスの破片を頭からかぶってしまった。

 

オレは、その場にいなくて見てはいないのだが・・近くにいたイズミたちが、心配していたらしい。幸い怪我はなかったのだが、リーゼント・ベースは怒って帰ってしまった!

それで、オレたちは演奏をキャンセルにした。

次の日、彼に電話をしたが・・まだ怒っていて

「オレはロックを楽しみたいんだ!だけど、あの連中は楽しもうという気が、まったくないみたいだな!」

 

その言葉できがついた!イズミとオレが出会ってから、まだ1年足らず・・その間に、いろんなことがあったが・・少なくとも仙台に行った頃は楽しかった。。しかし、スターリン、ハードコア・・そもそもオレが目指していたものは・・そういうものではなかったのではないだろうか?

 

                       つづく・・・・

 

仙台から帰ってきたが、それからが大変!

短期間に、いろんなことが起きた。。

まず「JAP荒頽子」というバンド名を「LiVing Dead」に改めた。

これはオレの発案だが・・なんでも、シド・ヴィシャスが新しいバンドを結成する・・そのバンドがLiVing Deadになるらしいと雑誌に書いてあったのを思い出した。

結局、その直後にシドが急死したために幻のバンドになってしまったが・・特に深い意味はなく、なんとなく音の響きが良かったからだった。

 

それまで使っていた新宿の音楽館というスタジオは、なんだか料金も高いしイマイチな気がしていた。

じゃがたら、が自ら持っている彼ら専用のスタジオを、安価で貸し出すらしいというのを、どこかで聞きつけ・・行ってみることにした。

渋谷の駅からは、かなり歩くが古い雑居ビルの屋上にあった。

TVドラマ「傷だらけの天使」で萩原健一、水谷豊がねぐらにしていた、

あの場所に、なんとなく似ていて、すごく気に入った!

後に「じゃがスタ」と呼ばれ伝説的になっている、そのスタジオでオレたちは練習することになったから・・ヴォーカルの江戸アケミとも、よく会うようになった。

アケミは気さくな人で、「1時間、千円でいいよ!オレたちが使ってないときは人に貸した方がオレも儲かるからな~」と初対面でも長い友人のような話し方をする。。

もう、ひとつ重要なことは、ドラムのヒロシが家庭の事情で急に脱退するという!

次のライヴも決まっていたから急遽、新しいドラマーを探すことにした。

もともとヒロシは徳島の出身だったが・・同じ徳島の同級生(?)で山田君というのがいてアジア大学に在籍していた。

彼はパンクが好きでヒロシがパンク・バンドに入ったと聞いて、オレたちのリハのときに、しょっちゅう遊びに来ていた。。

山田君はギタリストだったが・・バンドのメンバーを探していたな~。

 

メンバー募集をかけたところヒロくんというのが来て、とてもうまいドラマーだったがパンクのことはよく知らず・・ロックでもジャズでもヒュージョンでも、なんでも叩けるという職人的なドラマーだった。

もうひとつに・・イズミの以前からの知り合いでミドルクラスというバンドがあったのだが解散するという。。

リーダーのオビガ・ジュンはウイラードという新しいバンドを作ることになっていた。そのことを聞きつけたイズミはミドルクラスのドラマーに新しいバンド、決まってないならウチに来ないかと誘ったところ二つ返事でOKだった。

山田君もヴォーカルとベースは決まったんだけど・・ドラムがいなくて・・というから、ヒロくんに「悪いけど別のドラムに決まっちゃたから、他のバンド紹介するよ」と言って山田君に紹介した。

そのバンドが「エクスキュート」だった。

 

また、ちょうど、その頃、ロンドンから今井アレクサンドルが帰ってきた。

彼はバンドはやっていないが・・ライヴハウスなどに、よく出没し、個性の強いハーフだけに目立つ存在だった。カメラマン志望でロンドンではデヴィッド・ベイリーのアシスタントもやっていた。現在ではモダンアートの世界では、ちょっとは有名な人物だが、その頃はまったく無名で・・しかしオレたちより3つ年上で兄貴分的な感じだったな?

そのアレクサンドルに、今、パンクのバンドやってる・・という話をしたら・・「パンクなんて、もう古いよ!今じゃハードコアの時代だよ!モヒカン刈りでさ・・ニワトリのトサカみたいに真ん中を立ててるみたいのが、キングスロードあたりにウジャウジャいるんだ!日本では、まだいないから・・それやったら一気に有名になるぜ!」

なんてことを言われて、その気になったイズミはモヒカンにした。

ベースのマキは金髪だし・・オレたちは、そうとう目立っていた。

 

オレたちの影響ではないが・・その頃から急速に金髪やモヒカンが増えてきたな?まるでインフルエンザのように、どんどん広まるんだよね?

その頃(この言葉、多すぎ?)結成されたばかりの「GAUZE」が髪を赤にしたり、モヒカンだったり・・・あいつらが日本のハードコアの火付け役だったといっても過言じゃないと思う?

モヒカンや金髪はオレたちの方が先だったけどね?

 

                        つづく・・・

それで・・イズミ(Vo)オレ(G)マキ(B)ヒロシ(Ds)というメンバーで、早速スタジオ入り!

曲は全部・・イズミが作詞、作曲したものだった。ベースのマキとドラムのヒロシも高校を卒業したばかりで、全員、同い年だった。マキとヒロシは実をいうとハードロックなどが好きで・・パンクのことは、よく知らなかった。。

だがキャリアが少ない割には天性のリズム感があったのだろう?

曲、そのものはシンプルなだけに・・最初から全員、呼吸がピタッと合った!若さも手伝ってスゴイのりの良さ!

 

バンド名は、何にする?イズミが「JAP荒頽子」(ジャップこうたいし)なんてどう?

オレ(・・???)もちろん皇太子にかけてあるのだが・・その辺はイズミ特有の変わったセンスで?他にいい名前ないの?

みんなで、いろいろ出し合ったが、いい名前が思いつかず。

バンド名を考えるのは、けっこう難しいんですよね。。子供の名前なら同じ名前がいくらあっても構わないんだけど・・バンド名は同じ名前のバンドがあってはならない。。現在のバンドが、へんてこりんな名前ばかりなのも、そういった理由があるのです。

 

とりあえず・・JAP荒頽子・・ということでいこうか~。。となったが、他人に聞かれるたびに「こうたいし・・って、どんな字書くの?」そして説明が面倒くさい。。結局、自分たちでも、いつの間にか「ジャップ」と呼んでいて・・「ぴあ」のような情報誌にも「ジャップ」と書かれていたなー。

 

ライヴをやろう!ということになったが・・いきなり、仙台ツアーに行くという。。「え~?仙台~!?」まあ。仙台と言えばイズミの故郷だし、あっちに行けば知り合いもけっこういて簡単に出来そう・・また故郷の仙台ではイズミは東京に行ってレコードも出し成功した!その凱旋ツアーみたいな雰囲気もあり・・実際には東京でやってブーイングを受けるより仙台でリハーサルも兼ねたライヴを1発やっておくという考えもあったのかも知れないが、実際には、みんな深くは考えてなく、

「仙台か~面白いな~行こう!行こう!」みたいになって決まり!

 

まだバンド結成して1ケ月ちょいの・・7月末、我々は仙台に行く。

仙台ではイズミの実家が。けっこう広く・・みんなそこで寝泊まりした。

 

まずは駅から近くの公園・・・東京で言えば代々木公園を小さくした感じで、ちゃんとしたステージもあり、日曜には朝から晩まで、いろんなバンドが演奏する、ちょいとした祭りの気分のようだ・・・

演奏しているのは、どれも学園祭のコピーバンドのようなノリであったが、オレたちがステージに上がると司会者が「東京から来たバンドで日頃はライヴハウスとかで演奏してます!」と紹介した。

それだけで客席はどよめいた感じだったな?

オレはギターをかき鳴らしながら、ステージを動きまくりジャンプしたり

椅子はなく全員スタンディングで200人ぐらいいたと思う。。

かなりいい反響があった。

演奏後には知らない人が声をかけてきて「パンク・好きなんだけど・・やっぱり東京のバンドはスゴイですね」みたいなことを言われたりして、ちょいといい気分。。

 

 

あと一回、あの界隈で一番大きなライヴハウスで演奏した。

地元で人気のバンドも出るので満員(といっても100人もいなかったが?)ここでも、なかなか評判は良かった!

 

仙台に行くちょっと前だが、イズミとスターリンのライヴを見に渋谷・屋根裏に行ったことがあった。レコードは聞いたことがあったが、生の演奏は初めて。。。

お客は30人ほどしかいなかったが・・機材がボロいのか?セッティングが悪いのか・・なにしろ音が酷い!暑いのにエアコンも、ほとんど効いておらず、汗だくで服を全部脱ぎ捨てたミチロウが客席の方にヨロヨロト来ると突き飛ばされ・・倒れたところを踏みつけられ、トイレからモップを持ってきた奴が倒れて意識がもうろうとしているミチロウのケツをゴシゴシ。。異様な光景だった。ライヴといえるものではなかった。

モップの野郎は天井をガンガン叩き出しボロい屋根裏の天井は一部が壊れて崩れ落ちそうになった。

その後、救急車がきたみたいだが、ミチロウが乗ったのかどうかは見ていない。

後にスターリン・屋根裏のギグでミチロウは救急車で運ばれ暴徒化したファンが天井を叩き崩れ落ちた!というのは多少、大げさかも知れないが本当である。

 

よくロンドンなんかではステージから客席に向かって唾を吐いたり、客席からステージに唾が飛んだり、ステージに向かってビール瓶や缶が投げつけられたり・・なんていうのが当時は当たり前の光景だったが、お金を払って見に来たファンがステージに唾を吐いたり、物を投げつけたり・・・おかしな感じもするが、それがパンクのコミュニケーションというか愛情表現のような普通に考えればおかしな方向にエスカレートしていた。

しかし、このスターリンの場合はやりすぎだ。。

イズミやオレはスターリンのファンだったのかというと・・そういうわけでもなく、スターリンも町田町蔵も追い越して日本でナンバーワンのパンク・バンドになってやる!

本気で、そう考えていた19歳の夏であった。。