2024.12.18

飛び交う「情報」や、目にする耳にする現実の一端についての「解説」を聞いて、「そんなものかな」と思いつつも、「でもなんかちょっとひっかかる」と思うことがある。
 そんなときに発せられた、まだかたちをとらない感触や予感を含んだ「つたない」言葉は、後になって大きな力を発揮する。

----という文章を目にした。まだかたちをとらない感触や予感。言葉ではうまく掴めない、頭の中のわだかまり(?)。つたなくても、書いて残さねばなと改めて感じた。だいぶサボっていたけど、ameblo日記をまずは続けようと思った夜。




備忘録、引用。

■新原道信編、2022、『人間と社会のうごきをとらえるフィールドワーク入門』ミネルヴァ書房. 

「情報はいつでも簡単に検索できるのに、なぜ自分の考えを遺すのか」「自分の主観的で狭い考えに意味などあるのか」と思うかもしれない。しかし、その検索可能な「情報」は、特定のものの見方を正当化するために組み立てられていたりする。「いま起こっていること/起こったこと」の大半は、一定の解釈(先入観)による「コーティング」(塗布)が施されている。飛び交う「情報」や、目にする耳にする現実の一端についての「解説」を聞いて、「そんなものかな」と思いつつも、「でもなんかちょっとひっかかる」と思うことがある。
 そんなときに発せられた、まだかたちをとらない感触や予感を含んだ「つたない」言葉は、後になって大きな力を発揮する。社会が急速に転換し「前からこうでした」と歴史が単純化されていくとき、これまで「あたりまえ」だったことが失われていくとき、自分の力ではどうにもならない不条理に直面したとき、考えたりする余裕のないとき、あるいは、困難な状況にもかかわらず人のあたたかさにふれたとき、人間の可能性にこころをゆりうごかされたとき-生身の言葉は、こうした“根本的瞬間”の道標(みちしるべ) となる。
 誰かが語る「わかりやすい正解」ではなく、そのとき日誌を付けていた自分が、現実をどう感じ考え、どう行動したのか、どのように「うち/そと」を分けていたのかを書き遺しておく。そうすれば、自分や他の人たちが、「見ない、聴かない、考えない、言葉にしない」としてきたことのなかに、実はすでに存在していた真実や、潜在する「事件」、あるいは別の可能性があったことに気づくチャンスが生まれる。よくみて、よくきき、つつみかくさず、すべてひっくるめて、自分の理解・状態を描き遺しておいた断片は、未来の自分や社会への贈り物(dono)となるはずだ。(新原 2022: 5-6)