(ある人に触発されて急遽、ブログに書くことにしました)
「何のために生きるんだろう」
誰もが一度は考えたことがあると思います。
「生きる」ことは、おしなべて苦しいことが多いです。個人差がありますが、喜びや楽しみのほうが少ないです。
人は生まれたら、いずれ必ず死ぬとわかっているのに、普段の生活ではそのことをまったく忘れて生きています。
傷ついたら手当をし、病気になったら早く治そうと必死に頑張ります。それは人に与えられた使命なのです。
ではなぜ、人は、いずれ必ず死ぬとわかっているのにそんなに一生懸命生きようとするのでしょう。
それは、数少ない「感動」を得るためです。
「「感動」を経験するために生きる」
「感動」こそ「魂」をレベルアップするのに最も必要な要素だと思っています。
「感動」を経験するために生きていく必要性があるのです。
だから「自殺」は絶対にいけません。「自殺」は「感動」を経験することを放棄してしまうことなのです。
どういうことかというと、魂のレベルアップを断ち切ることに繋がります。
どんなに苦しくても、どんなにつらくても、その先に必ず、
「感動」があるということを知らなくてはいけません。
「魂」は、その人の一生で、ひとまず経験を終え、また新たな「魂」として生まれ、また経験を積んでいきます。それを延々と繰り返しながら「魂」はレベルアップしていきます。
では「魂」のレベルアップってなんだろう。
私たちが生きている、この世界を見渡してみましょう。
喜びや感動をたくさん経験している人の魂はレベルが高いと思います。
また、人を助けたり、喜びを与えたり、人に「感動」を与えたりする人の「魂」はさらにレベルが高いです。
逆に、人を憎んだり、傷つけたりする人の「魂」は低いです。
「魂」は人の生をとおして、さまざまな経験をしています。
ある時は「裕福」に、またある時は「貧しく」生まれ、その両方を経験します。
たとえ「裕福」に生まれても、人を蔑(さげす)んだり、苦しめて私腹を肥やしている人の「魂」のレベルはかなり低いです。
逆に、「貧しく」生まれても、人を思いやったり、苦しい生活のなかに喜びをみいだそうとしている人の「魂」のレベルは相当高いです。
同じ「魂」で両方の経験をしていくのですね。そうやって「魂」の質を高めていくのでしょう。
それから、また「魂」には経験が「浅い」「深い」もあるように思います。
これは「魂」のレベルとは別に考えなくてはいけません。
それは、罪もない子どもが事件や事故で亡くなったり、殺人犯の被害者になったり、とても悲しいことですが、事件の被害者にもその要因(前世を含む)があるのではないかと思っています。(このことは、ある人たちにはわかっているのですが、被害者の家族のことを思い、決して口に出しません。私はあえて批判を受けます)
事件の加害者、被害者、双方とも、まだ「魂」の経験が浅いので、次の「生」で「魂」の経験を積みましょう。と神様がおっしゃっているように思います。
私たちは、この与えられた生をいかに生きていくかが問われています。
人との出会いで感動したり、寺社を訪ねて感動したり、本を読んで、音楽を聴いて、絵画を見て、雄大な自然を見て、苦しみの後の一筋の光を感じて、……
「感動」することはたくさんあります。
「感動」を経験しながら「魂」の質を高めていきたい。
私は、このようなことを以前から考えていました。