20代の前半に、
内戦が長く続き、ぼろぼろになった、
ボスニアヘルツゴヴィナを、内戦が停戦したすぐに訪れました。

町には国連を意味するUNのロゴが大きく入った車が何台もありました。
ビルや家の壁にはたくさんの銃弾の後が残っていました。
そして、町外れの墓地にはたくさんの人が眠っていました。
どれも、内戦の期間であった数年感になくなっものばかりで、墓碑に刻まれた
生まれ年と、なくなられた年を見ていると、心がざらつきました。
幼くしてなくなった人、自分と同じ年の人、お年寄り…。
多くの人が無差別に殺されていったのだと、歴史とは違う角度で理解しました。

僕が泊まった宿は、ただの人の家。そういうところを紹介されました。
ホテルは街に一つしかなく、一泊8000円ぐらいとその当時の僕には、超高級なホテルでしたから。

背が高い静かな静かな男の人が迎えにきてくれて、その家に行くと、大きくて、
一人で住んでいるのにはおかしい感じ。
でもその家には、その男の人しかいませんでした。

その時気がつきました。
みんな死んだのだと。

その男の人は兵士だったようです。静かに気配を消すことがとても上手だった人。

僕はそこで、大風邪を引きました。またロストラゲッジされて、ただでさえ不安定な
情勢の中で、空港に再度荷物を取りに来いと言われていました。
滞在が伸び、さらに風邪…。
そして広くて、寒くて、静かな家…。

でも、男は僕が風邪と知ると、とても優しく、優しくしてくれました。
おそらく普段は付けないストーブも付けてくれました。

男の部屋には、多くの写真が枠に入って、並んでいました。


そして風邪を2日ほどでなおして、街に出ました。
街の中心部の一本の道路のみ、とてもきれいでした。
表参道風です。そこには、イスラムと、キリストと、韓国のそれぞれの教会みたいなものが
ありました。カフェ風のところでの食事もおいしくて、満足し、また街を歩いていたら、
いきなり、目の前でおばあちゃんが倒れて、すぐに泡を吹き出しました、
僕は、びっくりして、おばあちゃんに声をかけて、必死で必死で周りの人たちに
助けてくれ! 手伝ってくれ! って大きな声で言いました。
近くの男の人が、おばあちゃんから鞄をおろしたり、楽にしてあげるよう
していましたが、特別な処置はしません。
すぐに救急車を呼んでとお願いして、そして僕は、どんどん血色が悪くなっていく
おばあちゃんを抱えながら、動けませんでした。

手の中で衰退していくそのおばあちゃんを見て、人工呼吸や心臓マッサージもできなくて、
曖昧な知識を持っていた自分を恥じました。
15分ほどして、救急車に乗せられ運ばれていきましたが、おばあちゃんはすぐになくなったと
あとから、聞きました。
人の死を、人の手で止めようとすることは、こちらの人たちはしません。そして老人の死ならなおさら。死に対しての受け入れが違うし、死に対しての感覚も違った。
目の前における死を受け入れられなかったのは、僕だけで、みんなその場を見守っていた。

そして目の前で突然起きた、人の死からも気持ちを切り替え旅は続きました。
ボスニアから、クロアチア行きの長距離バスに
乗りました。このバスはとても長い距離を走るもので、夜乗り込み、20時間ほど乗っていた気がします。ボスニアの国境を越えるところでバスは停止し、休憩に入りました。
その時、まだタバコを吹かしていた僕は同じバスに乗っていた、30歳ぐらいの女性に
「タバコくれる?」と言われました。
快くタバコを渡し、一緒に煙を口から吐き出していた時の会話です。

「あの山はなんて言うの? きれいだね!」
「そうなの、とてもきれいなの。昔はよくパパと登ったわ。内戦前はね…」
「今は登れない?」
「無理よ。地雷がたくさんあるから…」

その会話は僕にとって、とても大きな会話でした。
こうして文字にして、数行です。

このボスニアの滞在は一週間もしていません。ただ、5日ぐらいの滞在で
死におけるさまざまな場面に出くわしました。
人が安心して、生活できる、そして人が人と侵略するということが
どういうことか、そして宗教というものや、信仰というものについて。
また大きな戦争が終わった後に起こること(ボスニア内戦は旧ソビエトの崩壊によっておきた)など。
そして、人間について。

今、日本人は死生観について、大きく考えさせられています。
そして人生というものにも。

さまざまな悲しみを乗り越えて、
人が大きくなるのであれば、
小さいままでいいよと思ったことがある。

強くならなくてはならないのか?
どうしてだろう。。。

ただ、一つだけ、希望がある。

またボスニアの話。

街には表参道のような道路が一つだけ通っている。
みんなその道路を、男は男同士で、女は女同士で。
何度も何度も往復する。
とても幸せそうだった。

そしてダンスミュージックが流れるクラブでは
みんなが異国の人である僕にも優しかった。
そして今、生きていることと、
ただ、何もなく、生きられる喜びを感じていた。

あんなに、今ここにある幸せを感じて生きている人たちを
街ごと感じられたのは、ボスニア以外にはない。

あまり必要ないけど、大きすぎる悲しみを乗り越えた時、人間はとても豊かになることがある。
とても優しい人。それは深い悲しみを知っている人。

終わりの見つからない文章だから、きれいに終わらせようとしないでおこう。
ブログだから…。

ハシムラノブヤ