本ブログの「アメブロ」さんと「ツイッター」さんには、この度は大変お世話になっております。



何がありがたいかというと、一番はお金がかからないということ。

単純に資金のない中で政治活動をする者にとってはありがたいです。


そして、広く自分のことを知らせることができること。

こちらのプロフィールや考えなどを、時間や場所の制約がない分だけいつでも手軽に不特定多数の方々に見てもらえます。


政治活動の新人の場合、最も苦戦するのはネットワークづくりです。

その土地において古くから根をはって住み続けている方々が多い地域であれば、地縁集団からの支援を求めることが可能です。


契約更新のたびに、家賃が安く・職場に近く・少しでも広い部屋を探して転居

しかし転入出の多い都市部においては、なかなかこのような地縁関係を維持していくのは難しいと思われます。

遅くまで仕事をしていると自宅は寝に帰るだけの部屋と化してしまう。そんな生活であれば隣近所の住民の方々と顔見知りになれるわけがありません。

そして休日は疲れていればずっと部屋で寝て過ごしたり、又は外出して遠出をしたりとなれば、近隣の方と知り合えるチャンスすらありません。



これは子どもがいても同様で、ママが昼間働いていれば“ママ友ランチ”をしている暇もないわけです。非正規雇用(パートタイマー)であれば尚のこと、昼間に皆で時間を合わせるのは難しいと思われます。

それができるワーキングマザーは、有給が取れる仕事だったり、起業されている方だったり、時間の都合がつきやすいお仕事だったりと思われます。


そんな現代社会に生きる者達のために、ソーシャルメディアが生まれたのかもしれません。

人々が新たなつながりを持つ方法として、またはつながりを続けていけるように、ツールが発達していっているのではないかと思います。



これに絡んだエピソードを思い出しました。



専門学校でカウンセラーをしていた時、長期欠席する学生が携帯にも下宿先へ連絡してもつかまらなくて、心配で実家の親ごさんへ連絡を入れたことがあります。


そうしたら親ごさんも連絡が取れないし居場所もわからないと言うのです。

こりゃ大変だー!行方不明だ!と思ったのですが、親ごさんは「ブログ更新しているから大丈夫ですよ、生きてます」とおっしゃるではありませんか。

メールの返信もたまにあるということで、安心していいですよ、と。

「学校に行くようにメールを入れておきます」と言われて複雑な気分になりました。



それ以来、こちらも長期欠席の学生についてはブログやMixiなどで安否確認をするようになりました。
これではバーチャル学生です。いっそのことEラーニングにしてしまえば出席する必要もなくなるわけですから、欠席が多いから落第ということもなくなり、中退率を下げることができるかもしれません。


良いか悪いかではなく、こうやって発達したツールをどのように活用するのか又は活用しないのかを我々は様々な知見や議論の上で判断していかなくてはならないと思います。


ある国会議員はマスメディア批判のため記者会見は開かず、動画サイトでしか自分の思いを語らないということをやり始めております。

外国では犯罪予告や声明などを動画サイトに投稿することがみられます。

これらはいつでも手軽に視聴することのできる優位性があってこそのことだと思われますが、それは一方的な主張のみを伝えることを目的としたものであり、双方向での交流や議論を拒否した行為であるという風に私には映ります。


上述した専門学校の学生は結局のところ、アルバイトに精を出してしまって学校の時間もバイトを入れていたため行方がわからなくなっておりました。労働の楽しさとお金を稼ぐ楽しみを知ってしまったことは悪いことではありませんが、頻繁に更新していたブログやMixiでは常に学校の話題が出ておりました。それらは自分の存在を示したいという自己表現の一種であり、学校の出席がヤバい・・・という現実と向き合うのが怖い逃避の一種でもあったととらえることもできます。



それらを全て納得した上で、教育者がそのようなツールを使いこなせれば、新たな効果的な教育方法のひとつとして、ソーシャルメディアの活用が確立するかもしれません。


我々が求めているのは、古く囚われた「しがらみ」ではなく、新しく開放的な「つながり」なのかもしれません。


そのような「つながり」をどのように構築していくのか、今後の日本の将来を考える上で重要な課題であると私は考えます。


これはソーシャル・キャピタル論(社会関係資本)として、またいつか書いてみたいと思います(現在、政策研究大学院のポリシーペーパーにまとめております)。


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