旅行中に読んでいたのは

『ポーツマスの旗』(吉村昭著)。

言わずと知れた日露講和条約

(ポーツマス条約)締結のはなし

である。

 

 

わたしの読書前の知識(学校の

授業で習った範囲)は、

『小柄な外務大臣・小村壽太郎

(寿太郎)が苦心惨憺の末、賠償

として、なんとか南樺太の割譲を

認めさせたが、賠償金は1円

(1ルーブル)も取れず、戦勝に

沸いていた日本国民が大怒りと

なり、路面電車をひっくり返す

など大混乱となった(日比谷焼討

事件)』    これですね。

 

 

最初から陰気な結末となることは

わかっていたが、読んでみて本筋が

変わることはなく、やっぱり暗い。

しかし、丹念な取材と調査により

当時の交渉の緊迫した雰囲気や

人間模様がわかり、面白かった。

 

 

まずはアメリカ大統領セオドア・

ルーズベルトは親日的で、

 

 

日本の意を酌んでロシアへの仲介の

労をとってくれた。

またそのルーズベルトのハーバード

時代の友人、金子堅太郎(下写真)が、

 

 

陰に陽に小村とルーズベルトの間を

取り持ち、交渉の下支えをしていた

こと。

維新後数十年で、このような人的

ロビー活動ができていたことは、

当時の政府の施策(教育・外交)が

優秀であった証左である。

 

 

アメリカへの本国からの訓令の

通信手段は無線だが、外交暗号は

全てロシアに解読されていたため、

本交渉のためには新たな暗号表を

用意せざるを得なかった。

 

戦争以前からロシアの諜報活動は

活発で、オランダ・ハーグにある

日本公使館の公使が独身で英語

しか話せないところに目をつけ、

美人のロシア人をオランダ人と

称して女中として住み込ませた。

女はやがて公使が本来金庫に保管

しなければならない暗号表を

机の施錠した引き出しに入れている

ことをつきとめ、ボスに連絡する。

それを入手し、こっそりと戻し、

(日本側に気づかれぬよう)外交

電報の解読に活用した。

いやーレベルの高い話です。

 

日本海海戦でロシアの海軍は壊滅

したものの、陸軍には継戦能力が

あり、シベリア鉄道を利用して

ヨーロッパ方面の精鋭の大軍団を

極東へ送った。

満州のリネウィッチ司令官の

もとに歩兵538大隊、騎兵

219中隊、砲兵207隊が集結し、

その兵力は日本軍の3倍に

達する大兵力であった。

軍上層部の報告を受けた皇帝

ニコライ二世は、講和交渉に

あっても終始「まだまだ戦える」

と強気であった。

 

他方、日本はロシア内の政情が

不安定化(厭戦気分の蔓延と

共産主義の台頭)しているとの

情報を得ながらも、すでに

国家予算が破綻寸前、継戦する

ためにはさらに20億円/年の

資金の調達と20万人以上の

兵力を新たに用意しなければ

ならなかった。

つまり万事休す、なのである。

 

日本海海戦で大勝し、沸きにわいて

いる国民  (新聞報道から、賠償金

最低30億円、樺太・カムチャツカ・

沿海州の割譲は当然、と煽られていた)

に「もう戦えないんだよ」と言えない

苦しさを抱えながら、政府(桂内閣)は

小村壽太郎に講和締結を託し、

アメリカへ向かわせた。

 

この交渉の舵取りの難しさは

想像に難くないが、日本全権の

小村は会議で終始冷静で、

ポーカーフェース。

 

小村壽太郎は明治8年の第1回

文部省海外留学生に選ばれ、

ハーバード大に留学した。

抜群の記憶力と折り目正しさで

アメリカ学生からも一目置かれる

存在であったようだ。

1年遅れでハーバードにやって

きたのが金子堅太郎で、二人は

同宿する。

 

そして講和会議という困難な場での

この胆力は、小村は父親の事業の

失敗から大きな借財を抱え、また

家庭(奥様)にも恵まれず、公務員

なのに極貧生活を送り、絶えず

借金取りからの取り立てなどに

さらされていたところから培われた。

 

また生活費を捻出するために「翻訳」

の副職をしていたことが、のちに

彼の大きな財産となる。その時の

一知識を陸奥宗光に披露したことで

彼の信用を得、登用されてゆくよう

になる。また大の読書家でもある。

 

ヨーロッパの公使時代には、外国の

公使とも積極的に交際して情報収集

に奔走した。あらゆる方面に顔を

出し、絶えず動き回る小柄(150cm

未満)な小村を、欧米の外交官たちは

 "rat minister"(ねずみ公使)と

呼んだ。

 

 

小村はロシア側に日本側の弱点を

気取られないように努力した。

ポーツマス会議における日本全権

の態度はロシア全権ウィッテと

比較してはるかに冷静であったと

ロシア側の傍聴者が感嘆して

記している。

 

どちらも譲らない、譲れない交渉の

結果、交渉決裂必至、再び開戦と

いう瀬戸際で、意外な報が駐日

イギリス大使から東京の外務省へ

もたらされる。

 

それは駐ロアメリカ大使メイヤー

がニコライに謁見した際、

「まあ樺太は手に入れて日(30年)

が経たない場所だから、南半分を

あげてもいいや」という言葉を

聞き出したことだ。

 

その情報が →駐ロイギリス大使

→イギリス外務省→駐日イギリス

大使→日本外務省 という流れで

伝わったのである。

交渉決裂タイムリミットその日の

ことであった。

小村は日英同盟成立に尽力した

立役者であった。

 

不思議なのは、駐ロアメリカ大使

は当然、ルーズベルト大統領に

至急電で報告しているはずなのに、

アメリカ側からはこの情報が

ポーツマスにいた日本使節団に

もたらされなかったことだ。

このことにはある推論が立てられ、

それも大変興味深い思惑である。

レベル高し!

 

 

いろいろあったが、日本があきらめ

かけた樺太の領有が南半分とはいえ、

できたことは、外交の勝利といって

よく、そのほか南満州支線(南満州

鉄道)の権益や朝鮮半島からロシア

を追い出したことは、当時の日本

の国力から言えば上出来であった。

 

帰国途上、アメリカの鉄道王

ハリマンの甘言に乗せられた

日本政府首脳が南支線の権益を

危うく手放しそうになる報に

接したが、帰国した小村がそれ

を阻止した。

その権益がやがて満州経営の

大きな足掛かりとなってゆく。

 

 

覇権主義と帝国主義に支配された

世界の列強に立ち向かい、紙一重

で勝利してゆくさまは、幕末から

始まった大転換のピークである。

「坂の上」を目指した日本に

そろそろ分水嶺の頂上が見えて

きた感じだ。

分水嶺の頂上とは韓国併合と満州

進出で、そこから日本は急坂を

下ることになる。

 

 

ポーツマスの講和に不服があった

日本人が、八つ当たり的に

講和会場を提供したアメリカ(人)

に恨みを抱き、東京市にある、

いくつもの教会を焼き討ちしたり、

アメリカ人を迫害したことは、

日本に好意的であったアメリカ

世論を大いに刺激し、黄禍論とも

相まって、やがて日米対立の

萌芽へとつながってゆく。

 

またルーズベルト大統領は

日本海海戦直後に面会した日本

公使に日本の大勝利と目覚ましい

発展に祝意を述べながらも、

「日本は維新後わずか40年足らずで

軍事、産業の上で大飛躍を遂げ、

しかもゆるぎない文明に恵まれた

畏るべき国になった。これは

世界の脅威だ。このまま発展を

続ければ、10年後には太平洋上

の大産業国となり、武士道を

基礎とした軍人気質で、やがては

アメリカをも脅かす世界屈指の

軍事強国になるだろう」と呟いた。

 

米西戦争の結果、領有したフィリピン

への日本の影響力の拡大と海軍力

への警戒を小村らに伝えていた。

 

やがて歴史がその通りになって

ゆくことを考えると、アメリカの

状況分析能力は相当なものである。