SDA嵯峨野教会臨時暫定掲示板

SDA嵯峨野教会臨時暫定掲示板

教会の緊急情報、または旧SDA教会掲示板の過去ログから精選した歴史記事を丹念に掲載してゆきます

Amebaでブログを始めよう!

この事件は今から35年程前、北海道の旭川のSDA教会で起こりました。当時旭川教会は建設業者の事務所で
あったところを買い取って、それを教会にしていまして、外見はまさに土建屋のオフィスそのものでありました。そこに若い
所帯持ちの牧師が赴任してきましたが、経験がなく、自分でもスランプ状態に陥っていました。彼は、牧師の働きに
自信がなくなり、もうやめようと思い詰めていました。机の引き出しには北部会に提出する辞表も準備していたそうです。

それはある寒い冬のことでした。旭川の夜は、氷点下10度以下はざら、氷点下20度以下はしばしばという気候です。


その夜牧師はいつものように教会玄関のシャッターを閉めて、二階で寝ました。夜が更けて、突然玄関シャッターを
「ガンガン」と叩く音が聞こえました。こんな夜更けに誰だと思って、彼は降りてきてシャッターを開けたところ、なんと
そこに寒い冬の夜だというのにずぶ濡れになった女性が表情もなく立っていました。牧師は、これは幽霊か気違いかと
思ってどっきりしましたが、間もなく気を取り直して、「まあまあ、どんな理由があるのかわかりませんが、そんなところに
いたのでは風邪をひきます。お入りください」と言って、女を教会の中に引き入れました。彼は集会室のストーブに
新しい石炭をくべて部屋を暖めました。間もなくストーブから「ゴー」という音がして、部屋が暖まってきましたが、
女はその前に座ったまま茫然として何もしゃべりませんでした。しばらくして、物音に目が覚めた牧師の妻が上から
降りて来ました。30分位して、女の髪の毛が乾いたころになって、女は口を開き始めました。女は自分のアル中の亭主の悪口を
言い始めました。どうやら、この女は、酔っ払った旦那に殴られ水をかけられ、夜の街に追い出されたものとわかりました。
女はそれからぶっ通しで一人で旦那の悪口を言い続けました。牧師は、自分に自信が無くなっていた所だったので、いまさら牧師然として尤もらしいアドバイスをした所で何になろうと思い、ただ女の愚痴を黙って聞いていました。

 

 

しばらく話し続けて、とうとう悪口のネタが尽きてきて、女はまた静かになりました。牧師は、女に、もういい加減にして
帰ってもらおうと思いましたが、だからといって何もいうことがないので、一言、ヤケクソで、「あなたは神様にお祈りをして
みなさい」といいました。女は、悪口を言い終わった所に全く予期しないことを言われて、「はあ?」といいました。同じく、
疲れていたこの牧師の妻がその上に畳み掛けるようにこう言いました。「あなたねえ、祈るだけではダメなんですからね。
祈ったあと、神様からのみ声を聞かなければいけないんですからね」。彼女がそう言ったのは、それ程深い考えが
あってのことでは全然なく、やはりヤケクソで言ったものと言われています。女は、「はあ? はあ。 ふーん」と言って
帰ってゆきました。牧師は、やれやれ、ようやく厄介払いが出来たと思って、また二階の牧師館に戻って眠りに就きました。

 

それから2,3時間ばかり経ったかした真夜中に、またシャッターを「ガーン、ガーン」と叩くものがあるではありませんか。
今度は何だ?と思ってまた叩き起こされた牧師がシャッターを開けてみると、さっきの女でした。今度はなぜか薄気味
悪くもニコニコしていました。「今度はどうされましたか?」と牧師が聞くと、女は、「祈ったら、耳の後ろで声がありましたぁ」と嬉しそうな答えをしました。なんと、この女は亭主に殴られ、水をかけられ、とうとう頭がおかしくなってしまったかと思いました。やれやれ、またとんでもないことになったものだと思いつつも、牧師は、「その声はなんと言いましたか?」と優しく
尋ねましたら、女は「夫のことをそんなに悪く言ってはいけない、と言われました」と答えました。牧師は、とりあえず、
「そうそう、その通りですよ。あんまりご主人を悪く言ってはいけませんよね」と、一応その場しのぎの答えをしましたら、
女はすぐに去っていきました。

 

それからというもの、この女はしばしば教会にやってきては、「今日はこんな声がありましたぁ」とか、「耳の後ろからこのように言われました」と、牧師に報告に来る様になりました。初めは「困ったものだ」と思っていた牧師でしたが、だんだん黙って
みていると、この女は、この耳の後ろからささやく声のアドバイスに忠実に従っているうちに、次第に非常識な素行がなくなり、言動が少しずつ洗練されてきているように見えました。それを見ていた牧師は、次第に、これは普通ではないという事に気がつき始めました。女はそのうち、教会の安息日に頻繁に出席するようになりました。ある日、この牧師は女に、「あなたはまだ聖書を読んでいませんよね。そろそろバプテスマクラスで聖書研究を一緒にしませんか」と言いました。すると、女は、「わかりました。家に帰ってお祈りして、耳の後ろの声に従います」と言って帰ってゆきました。

 

女はそれから何日かして教会にやって来て、牧師に、「声がありました」と言いました。牧師が、「声はなんと言いましたか?」と尋ねると、女は、「『ヨハネの福音書の15章の3節を読め』と言われました」と答えました。ヨハネの15章と聞いた牧師は、ああ、それはぶどうの木のたとえの近くだと思いましたが、普段は15章の1,2節までで、3節は読んでいないので何が書いてあったか覚えていませんでした。彼が聖書を開いて15章3節を見た時、牧師はその場で驚いて倒れそうになりました。

「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。」 ヨハネ15:3

 

この女が最後に「耳の後ろの声」を聞いたのは、バプテスマを受ける前の日でした。それによると、声は、「私は今まで
耳の後ろから貴方にささやいてきたが、これからは必要なことはすべて聖書に書いてあるので、そちらを読みなさい」と
語ったのだそうです。事実、彼女がバプテスマを受けてから、耳の後ろの声はもうありませんでした。自分はもうダメだ、無能だ、何も出来ない、と思っていた牧師は、この経験で、人の魂を導くのは神の聖霊であって、自分は単にそれに用いられている土の器に過ぎない、自分がダメでも、神が聖霊を通して働いてくださるのだということを悟り、辞表をゴミ箱に捨てて、再献身を決意しました。それから、この旭川教会にリバイバルがあり、私が導かれたのはそれからしばらくしてからのことでした。

 

しかし、この話には恐るべき後日談があります。ある日、この牧師が札幌の教区の牧師会に行ったときに、そこに集まっていた他の牧師や部会幹部に話したところ、その反応は全く冷ややかなものでした。牧師や指導者でありながら、「このロケットが月の裏側を覗きに行ける時代にそんなバカな」とか、「おふざけな話なら願い下げだよ」とか、「そんなことを言うから信徒から馬鹿にされるんだ」などといった心無いことを言う者がいたのだそうです。ところが、この耳の後ろの声の証をあざ笑った、牧師、部会幹部、などは、それからすべて一二年以内に病死、背信、左遷(東京衛生病院へ)などで北海道から去り、みんないなくなってしまいました。聖霊の声を取り次ぐべき働きをするはずの牧師が聖霊の声をあざ笑うことは本当に恐ろしいことであると、当時その場に居合わせて、この話を昔私に教えた牧師は言っておられました。

 

この話はSDA教会で厳かに語り継がれるべきエピソードですが、SDA以外の他の教会でも、もし有益であると思われましたら、ご自由に引用なさって下さい。SDA嵯峨野教会の出典を明らかにする限り転載、引用は無制限に許可します。因みに、この若かった35年前の旭川教会の牧師とは、よい働きをされて既に引退なさった弥永邦明氏です。またこの女性はしばらく生きておられて天寿を全うし、わたくしの家内を結婚して旭川きょう鵜飼いに連れて行ったところ、いろいろな預言のアドバイスをくださいました。

集会所

  投稿者:Styczyska  投稿日:2022年 1月26日(水)11時23分0秒
 
  セブンスデーアドベンチストin八戸&久慈(仮)
 小さな集会所のopen予定です。
 牧師は一回も訪ねてこなかった土地です。
 相談しても無視されまくりでした。
 意味のない発言ばかりでアドバイスにもならなかった。
 無責任でいい加減なだけと悟りました。
 この国には、本物の牧師がいないことがハッキリしました。
 米軍基地が近くにあるので、そちらのSDA牧師・宣教師を頼ることにしました。

 まったく期待できず、期待してはいけないと悟りました。
 無能牧師を待っていても、何も解決しなかった。
 何年経過しても、待てど暮らせど進展がなかった。
 しょせん、よそ者。よその土地からやってきた者は頼りにならなかった。
 誤謬を混ぜ込む者はいらない。むしろ活動してくれなくてよかったくらいです。
 神のために信徒のために働こうという意欲のない者に相談して嫌な思いをしました。
 やる気のない自称・信徒も必要ありません。
 いらぬものはデトックスしないといけません。
 自分たちでやっていこうという感覚になりました。
 探せば見つかると書かれてあるとおりです。

 神に問い合わせをし、神に祈ってもこれまで何もありませんでした。
 糞土とつきあうなということかもしれません。
 行動をしないといけないという感覚になりました。
 農地と農業技術の確保をもしつつ、聖書研究していく予定です。
 今後は、群馬と埼玉の中間の山奥に集会所も建てられるでしょう。
 こういった者たちと連携していく予定です。
 古民家の改造は春か夏以降です。
 神よ 知恵とお金を与えてください。

 教会建物となると費用がかかりすぎて、いつになっても設立できないままです。
 集会所で十分と思っています。
 教会がほしかったのですが、思い直しました。

 終末時代は老害になるとも預言されており、
 まさに日本はそのようになったと思います。
 なぜ、牧師の数・信徒の数が激減したのかは、証の書に預言されていました。

 終末時代は迫害され、教会建物の打ち壊しがあると証の書にあります。
 そう思うと、今のうちに移動できてよかったかもしれません。
 隠れ場という言葉は「生き残る人々」「大争闘」に登場します。
 今のうちに準備はされるべきでしょう。
 証の書に書かれてあるとおりです。

同時進行で神の印について

  投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2021年11月 3日(水)06時55分8秒
 
  橋川さんの聖書研究の記事では、神の印は
2種類あるという理解になっています。
第一の印は、誰でもバプテスマを受ければ受けられる印
もう一つは、第七日安息日を守った人が最後に生きて再臨を迎えられるための印
ということです。

それとは別に獣の印というのがありますが、これは獣の支配に屈する選択をした
人が受ける印ですが、もちろんこれは神が与える印ではなく、サタンが与えるも
のです。ここに混乱があります。「印」というと一つの日本語で訳されて区別が
付きませんが、獣の印とはMark of beastであって、神の印とはMark of Godでは
なくて、Signiture of God もしくは  Notarization of Godです。ブタや牛の尻
に焼き鏝で家畜の所有者を表すのがMarkであり、我々が受けるのは神の認証印で
す。日曜休業令が出て第七日安息日問題が世界の公然とした問題となった時に第
二の神の印が出てくる必要があるのかという疑問が答えられる必要があります。
橋川さんの記事ではその根拠として出エジプトの際にしるしをつけられた家族は
守られ、そうでない異邦人の家族のういごは全滅させられた故事を引いてこれと
の相同比較をしておりますが、その時に与えられたしるしの象徴は、出エジプト
の時から現在まで有効なのであって、再臨を目前にして突然再浮上してくるもの
ではないと思います。つまり、バプテスマは一つであり、神の印も一つという事
です。そもそも我々はセブンスデーアドベンチストとしてバプテスマを受けたの
であって第七日安息日を守るという宣誓のもとに契約関係に入りました。ですか
ら既に我々の受けている神の印とは144000人に入るために有効なものです(自分
からキャンセルしない限り)。一方日曜教会の人のバプテスマは、キリストと父
と御霊によってバプテスマを受けていますが、わたくしの家内のように第七日安
息日の事は知らされずに受けています。ですから、神は彼らが当初からは第七日
安息日順守の責任を必ずしも負っておらず、それゆえに救われるに値しないとみ
なされることはない、と考えられます。SDAに居ながら第七日安息日も教えられな
い手抜きバプテスマで受洗したSDA教会員は基本的に日曜教会員とみなされましょ
う。そういう日曜教会員が救われないことは無いと思いますが、最終時代の段階
で生きて再臨を迎える群れには入れられず、一度死んでその後に救いに入れられ
て共に神を賛美する聖徒に数えられるのではないかと思います。もちろん日曜教
会員であってもSDA内部の手抜きバプテスマクラスで牧師の都合で数だけ増やされ
た教会員であっても、我々が彼らに第七日安息日が正しい安息日であることを激
しく伝えることによって悔い改めて第七日安息日を守るようになれば144000人に
加えられる道はいくらでも開かれているのです。何度も確認しますが144000人と
はあくまでも生きて再臨を迎えられる人の数であり、その前に寿命が尽きたり、
罵倒と迫害の前に屈したり殉教やコロナで命を落としたりする人もある(SDAの中
からは背教者もでる)ので全体的に生きて再臨を迎える義人の数を減らすであろ
うと思います。それらのことを考えると、やはり第七日安息日問題が世界に浮上
するのは日曜休業令が世界規模でバチカンの主導で宣布される時であり、SDA教会
の構成メンバーの入れ替わりもホワイト夫人の預言している通りに起こるものと
考えます。神の印は日曜休業令が宣布されて第七日安息日の選択が焦眉の急にな
った時にその重みが問われると思われます。

追記: EGWのマラナタでは、清め(成果)は安息日を順守するときに起こると言っています。

許されない罪は何故ゆるされないのか

  投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2021年11月 4日(木)02時33分28秒
編集済
  これまでのところ、許される罪と許されない罪があり、許されない罪とは聖霊を汚す罪であると聖書からわかりましたが、ではどうしてキリストを汚すのは許されても聖霊を汚すことが許されない罪になるのかということを説明いたします。これは被造物の存在に関わる非常にディープな話になりますが、それを出来るだけ簡単に説明します。

まずキリストを汚すのは、わたくしをも含めてすべての人類がしてきたことですから、それが許されなければ当然すべての人間が滅んでしまいます。神はあえてそれをも許すとしてキリストの命を十字架にかけて罪の呪いをすべて引き受けさせても、一人でも多くの人を救いたいと福音の計画を啓示されました。わたくしたちのそれに対してすることはただその預言啓示的な福音をそのまま信じて服従するのみなのです。

一方、聖霊って誰ですか?とある求道者がわたくしに質問していましたが、歴史の舞台の前面にも現れず全く得体の知れない存在のように思っている人もいて、三育では一時「聖霊については恐ろしいから語るな」みたいなことを上の先生から言われて訳の分からないことになっていたことがあります。しかし、聖霊は、キリストが天に上られる時、私の後に来る、と言われたものであり、わたくしたちは聖霊に導かれ支えられているのです。ある人がまたキリスト教の伝道がされていない野蛮な奥地、離島はどうするのか、宣教師が誰も来ていない鎌倉時代の人たちはどうなるのか、そういう人たちは十字架無しでもすくわれるんだ!というような勝手なセオリーを吹聴していました。しかし、聖書では十字架による救い以外に人の救いはない(救いとはもちろんわざわざ定義するまでもなく、人が堕落前の状態に回復され神と共に住むことが出来ることですが)と教えています。たとえ宣教師がいなくても、人の存在を支え、衣食を与え、日光や雨を降らせたうえに、天地創造の神が御子を送って罪のあがないをするというテーマをどんな異教の野蛮国にも送ってこられたのが聖霊です。また今のような文明の高度に進化した我々の異教文明の中で、我々が罪を犯さないように耳の後ろかそのさらに後ろで語り掛けたり襟を引っ張っているのが聖霊です。もし我々がキリストを汚したとしても、自分の理解と成長を支えてきた聖霊そのものを否定するならば、我々は、自分の臍の緒を切って勝手に母体から外に飛び出してくる馬鹿な胎児のようになってしまいます(そんな胎児はいませんが林の石松という某教会長老を見ていると全くそれと同じようにしか見えないのです、なあ磯部)。つまり、聖霊を拒むことは、我々の存在を否定することになり、キリストの十字架のいさおすらも提供する道が絶たれてしまうのです。聖書のみことばが聖霊によって書き記されたものですから、これをあざわらったり、真に受けずに適当にあしらう事は本当に聖霊に逆らう恐ろしい事です。

具体的に、聖霊を拒むとは、「耳の後ろの声」を愚弄することばかりではなく、神の霊感によって書かれた聖書のみ言葉をその通り信じないとか、どうせ人の書いたものであるから文化背景に照らし合わせて読んでその運用は我々の現代の社会通念や常識に合うように理解すればいいのだといって神の言われたことをその通り従おうとしない自称宗教者・牧師を見れば、具体例としては十分でありましょう。「耳の後ろの声」とは一般にあなたの「良心の声」といわれているものです。それでパウロが、ローマ人への手紙1章19,20に語った意味がお分かりになりますね。良心の声とは、地球上の地域にも時間時代文化背景に全く関係なく一様に与えられているものだからです。文化背景の違いなどキリストの十字架の犠牲による罪の贖いの必要性を免じる言い逃れにすらならないのです。

 

1844年はSDAと日曜教会を分かつ分水嶺

  投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2021年11月20日(土)11時44分19秒
編集済
  よく、SDAと他の日曜礼拝のプロテスタント諸教派の違いは何ですかと聞かれて
それは第七日安息日です、というような答えがまかり通っている。いや、その
答え自体は大筋で間違ってはいない。しかしもっと大きな歴史上の分岐点があ
った。それが1844年の出来事であったことを再認識して戴きたい、そもそも
1844年とは何か、それはダニエル書で預言された2300の夕と朝の終わりではな
いか。だからというので、キリストが天の聖所から至聖所に入られたという理
解がSDAと日曜教会を分けるのか。それも当たらずと雖も遠からずの説明であっ
て、そもそもどうしてSDAがそこからできたのかという説明にはなっていない。
よく考えて頂きたい。再臨待望信仰というのはSDAが作った信条ではなく、それ
ぞれの諸日曜教会の中からキリストの再臨の預言とダニエル書の2300の預言に
目を開かされて集まった人たちだった。彼らが1844年にキリストが来られると
いう解釈をした結果、それが起こらずに大失望になった。その結果キリスト再
臨待望信仰をせっかく持った多くの日曜教会員が脱落していった。わずかに残
された日曜教会員は、それでもキリストを求め、聖書からこの大失望の理由と
説明を祈り求め、その結果として、それまでの日曜教会諸派の再臨信仰グルー
プのフェーズから、一回り成長したアドベンチスト信仰のフェーズに移行した
のである。言い換えるなら、ダニエルに預言された1844年の出来事が無かった
ら、セブンスデーアドベンチスト教会は発生しなかったし、聖書信仰も世の終
わりに向けてステップアップができなかったのである。その意味で1844年が第
六番目のヒラデルヒアの教会から、第七番目のラオでキアの教会に移行する
歴史的転換点ともなったのだ。1844年がキリストが聖所から至聖所に移られた
のはそのあとになって聖書と預言の霊によって啓示された事であるから、その
事実がSDAの成立を直接促したという訳ではない。教会の隆盛は黙示録に預言さ
れたとおりになっている。それもまた、SDAが聖書に預言された最後の第七番目
の教会であるという動かしがたい根拠になっている。

大覚醒で目覚めたヒラデルヒア教会の人たちも、ダニエルに与えられた1844年
の経験を泣きながら突破しなければ、神の教会の次の段階には進めなかったのだ。

世界的な20世紀のメシアニック・ジューのリバイバル




 

デイビッド・セダカ



   メシアニック・ジュダイズムは、もはや検証すべき実験でも、成りゆきを見守るべき一時的流行でもない。メシアニック・ジュダイズムは2000年前に始まった一つの過程の必然的結果なのである。今日、メシアニック・コングリゲーションは北米・南米・欧州・オーストラリア・南アフリカ・イスラエルの様々な地域において盛んな活動を展開している。しかし、このような発展が偶然の産物によるものであると言うことはできないのである。「メシアニック・ジュダイズム」とは、「イェシュア(イエス)を約束のメシアと認めながら、同時にユダヤの習慣や伝統と完全に一致する生活様式や礼拝」を示す言葉である。メシアニック・ジュダイズムは、自らがメシアの普遍的体の一部であるということを大いに強調するが、その一方で、日常生活と礼拝様式においてユダヤ的遺産にしたがって自己表現する権利を有するとも主張するのである。

 メシアニック・ジュダイズムがいかにして誕生したのか、またこの運動が今どこまで進んでいるのか。これらについて、まだ十分な理解が得られているとは言えない。メシアニック・ジューのコングリゲーションに属する多くの人々は「メシアニック・ジュダイズムは、ほんの20年前に偶然に始まった現象でしかなく、ヘブライ的キリスト教とはいかなるつながりもない。」と考えている。今日、このような理解不足は、かつてなく頻繁に耳にするのである。そのため、筆者はこの2つの問題について自らの意見を少々述べてみたいと思う。これらの問題について正しい理解が得られれば、我々は自らの歴史的位置を正しい文脈の中に置くことができるようになるだろう。

 第一、メシアニック・ジュダイズム誕生の経緯について。今日のメシアニック・ジュダイズムは真空の中で発達したのではない。それは、百年以上前に始まったある運動の最新の結果なのである。ユダヤ人の記録や教会の歴史家の記録によれば、メシアニック・ジューが教会の指導者ではなくなった時期--つまり第1世紀--を過ぎた後でも、個人的にイエスを信じるユダヤ人が現れた。(この問題に関する包括的な研究としてヒュー・J・ショーンフィールドの『ユダヤ的キリスト教の歴史』を推薦する。1936年イギリス、オックスフォードにて初版が出されたが、長い間絶版になっていた。)メシアニック・ジュダイズムとして今日知られるものの中で、それ以前に登場した活動は、1866年に第1回イギリスのヘブライ人クリスチャン同盟の設立にまでさかのぼることができる。当時、幾千ものユダヤ人がキリスト教に回心したが、これらの回心者のほとんどは、結局自分がユダヤ人であるとの自覚を失ってしまった。19世紀の中葉までに、イエスを信じる多くのすぐれたユダヤ人クリスチャンは、「イエスを受け入れると自らのユダヤ性も失ってしまう」という当時の支配的な傾向に疑いを持ち始めていた。これらのユダヤ人信者たちはイギリスで交わりを保ちながら、1813年に、自らのユダヤ的ルーツもイスラエルのメシアであるイエスへの信仰もどちらも認めるクリスチャンからなる最初の体を形成したのである。この団体の名前は『ベニ・アブラハム(つまりアブラハムの子どもたち)』であった。ユダヤ人信者を祈りの支援と霊的絆で結び合わせるために、イギリスにおいて創設されたもう一つの団体は、ヘブライ・クリスチャン祈祷同盟であった。その理念は非常に好意的に受け入れられたので、創設から7年も経たない内に、会員数は147人から600人にふえ、ドイツ・ノルウェー・ルーマニア・ロシア・イスラエル(当時はパレスチナ)、国連に支部が置かれるようになった。

 しかし、ユダヤ人信者が、遺産や証言や救済の絆のもとに初めて一体感を感じることができるようになったのは、統括組織「ヘブライ人クリスチャン同盟」が形成された時だった。この考えはまず、当時トリニティー・チャペルの牧師であったC・シュワルツ博士によって唱道され、最終的にすべてのユダヤ人信者をヘブライ人クリスチャン同盟とイギリス祈祷連盟の傘下に統一するという決議が可決された(1867年5月14日)。この最初の民族同盟の組織化を契機に、世界の様々な地域に同様な同盟が誕生することとなった。最初のヘブライ人クリスチャン同盟の誕生とともに、教会に出席するユダヤ人信者の多くは、自分の先祖はユダヤ人であることを公に宣言するようになった。この現象は燎原の火のごとく広がり、20世紀に入る前に、多くのヨーロッパ諸国においてユダヤ人信者の民族同盟が設立された。これらの民族同盟は、相互に緊密な関係を保っていたが、自らの目的のために国際組織を作り、その下で統一されるというようなことはなかった。しかし、1925年にすべてのヘブライ人クリスチャンの同盟組織が合同して、国際ヘブライ人クリスチャン同盟(I.H.C.A.)を結成した時に、この必要が満たされたのだ。何年か前に、I.H.C.A.の実行委員会がシュトラスブルクの近くで会合を開いた時に、我々は、ハルコート・サムエル名誉会長(当時会計係)にI.H.C.A.の初期の事情について尋ねる機会に恵まれた。実際にその場に居合わせた人からこれらの初期の開拓者たちの思想や夢を聞くことができたことは大変魅力的な体験であった。これらの出来事について価値ある情報を提供してくれるもう一つの源は、フレデリック・レヴィンソンが彼の父親でありI.H.C.A.の初代会長であるサー・レオン・レヴィンソンについて書いた伝記(『クリスチャンとユダヤ人、レオン・レヴィンソン(1881-1936年)』、The Pentland Press, Edinburgh, 1989)である。第2次世界大戦の勃発前に、国際ヘブライ人クリスチャン同盟に加盟していた同盟の数は20であった。ヒュー・ショーンフィールドの言葉によれば、「1925年以来、ユダヤ的キリスト教の歴史は、事実I.H.C.A.の歴史なのである。」

 ひとたびユダヤ人信者が自らの力を試した時に、彼らは、このことが極めて重要な運動に至るほんの出発点にしか過ぎないということに気づいたのである。I.H.C.A.の初代会長であるサー・レオン・レヴィンソンは、1927年にI.H.C.A.の公式機関誌である『ヘブライ人クリスチャン季刊』の中で、「大雑把に見積もっても、ユダヤ人信者の数は97,000人であり、彼らは次のように分類される。ウィーンにおいて17,000人がイエスを受け入れた。ポーランドにおいて35,000人、ロシアでは60,000人、アメリカとカナダには30,000人を越え、イギリスでは5,000人であった。」と述べている。

 当然の結末であり、また将来へのステップともなったのは、ユダヤ人信者によって構成され、ユダヤ性を強調する教会を設立したことであった。この点については、すでに少なくとも2つの成功例が存在していた。1つは、ジョセフ・ラビノウィッツによって率いられたキシニョフのヘブライ人クリスチャン運動であった。ラビノウィッツは法律家であり、1882年に最初のヘブライ人クリスチャン共同体を設立した人物である。彼はヘブライ人クリスチャンの共同体を、既成の教会の枠から取り出し、シナゴーグの領域に入れた。同様の成功例は、ハンガリーのタピオ-スゼーレのラビ・イザーク・リヒテンシュタインによるものであった。しかし、これらがすべてではなく、他にも二三の成功例があり、パレスチナで成功した教会もあったのである。これらのヘブライ人クリスチャンコングリゲーションでは、とりわけ自らのユダヤ性が強調された。これらの例や同様な例を観察した結果、「ついに、独立したユダヤ人コングリゲーションを設立し、『倒れたダビデの幕屋を再建すべき』時が来たのだろうか」との疑問がわき起こった。そして、その実現のために分析が進められたのである。この問題のために、委員会が設置され、続いて、ヘブライ人クリスチャン教会の設立憲章が批准された。この画期的な出来事は、ホロコースト前の最後の国際ヘブライ人クリスチャン同盟会議となったブダペスト会議において起こった。それまでにも、ヨーロッパや南北アメリカには、若干のヘブライ人クリスチャンの教会が存在していたのだが、ホロコーストの悲劇によって、ユダヤ人信者たちは、活動目標を「その土地土地にコングリゲーションを設立すること」から、「ヒトラーの陣営より逃れ、避難民を援助すること」に変更せざるをえなくなったのである。

 しかし、ユダヤ教が再び自立を獲得するようになった後で、ユダヤ人クリスチャンも自らの霊的探索を拡大し続けた。こうして、ヘブライ人クリスチャン運動は徐々に、今日知られるようなメシアニック・ジュダイズムに変化していったのである。ある場合には、それは異邦人教会からの截然とした離脱であり、またある場合には、その過程はもっとスムーズに進んだのである。ホロコーストの灰の中から立ち直り、現代イスラエル国家を建国したことによって、ユダヤ人は、新しいアイデンティティーを育みつつあった。そして、ヘブライ人クリスチャン運動もこれらの変化の影響を免れることはなかったのである。ヘブライ人クリスチャンという名称はもはや、ユダヤ人信者を正しく定義することができなかった。そのため、我々のユダヤ人としてのアイデンティティーと信仰を表明するもっと適切な表現が、メシアニック・ジューという名称に見いだされたのである。それぞれの民族同盟は次々にその名称を変えていった。そして、ついに、国際同盟も自らの名をメシアニック・ジュー(ヘブライ人クリスチャン)同盟に変更することとなったのである。旧名を括弧の中に残したのは、我々が過去とのつながりを失わないためである。また、自らをどのような言葉で定義しようとも、あらゆるユダヤ人信者がこれに加わることを願っているためなのである。

 第二、我々の現状について。我々は、次の事実を認めなければならない。(1)現在の状態は、けっして我々が祈り求めている「終わりの時のリバイバル」ではない、ということ。(2)また、影響力を持ちたいという我々の期待は、いまだに満たされていないということ。多くの者が自らの利益のために語っている。アメリカユダヤ人会議や同様の組織は、「アメリカだけで、30万から50万人のユダヤ人が様々な形でイエスを信じている。」と断言している。彼らはどこにいるのだろうか。もし我々が、メシアニック・コングリゲーションの会員であるユダヤ人信者の数を約5,000人と見積もるならば、イエスを信じるユダヤ人信者の90パーセント以上はキリスト教会の教会員であるということになる。これは、我々を謙虚にさせる数字である。我々はこれによって「メシアニック・ジューの前にはまだまだ長い道が続いている」ということに気づかせられ、身を引き締めるのである。またさらに、「イェシュアを信じている兄弟姉妹の多くは、自主的に協会に加わり、その欠くべからざるメンバーとなったのである」という事実に対して敏感にもなるのである。筆者は、メシアニック・ジュダイズムは彼らの必要に答えるべきであると信じている。今日のメシアニック・ジュダイズムはヘブライ人クリスチャン運動の後継者であり、輝かしい歴史とその会員の多様性に彩られた運動である。背後の歴史を重視する時に、我々は、自らの運動の価値を正当に理解できるようになるのである。しかし、メシアニック・コングリゲーションのメンバーであれ、福音派の教会の会員であれ、あらゆるユダヤ人信者をありのままの姿で受け入れる時に、我々はメシアニック・ジュダイズムの価値をさらに高めることになるのである。



デイビッド・セダカ
国際メシアニック・ジュー(ヘブライ人クリスチャン)同盟アメリカ議長
 

まさかそんなものが今頃現れるとは!と驚いたあなたは甘い!
 

 

 

次のメッセージはセブンスデー・アドベンチスト(週の第七日をサバスとして守っているプロテスタント教会)山形教会の柴田義牧師の安息日メッセージです。柴田氏の快諾を得てここに転載掲示します。神の律法の意義を非常にわかりやすく説明していると思います。なお、HTML文書の着色、フォントサイズの変更は私の任意で行いました。

 ハッピーサバス。みなさん、安息日おめでとうございます。今週も一週間それぞれのお仕事お疲れ様でした。今日もこうしてみなさんといっしょに神様がわたしたちを創造してくださった記念の日に礼拝を捧げられますことを心から感謝いたします。さあ、みなさんと御一緒に神様にありがとうございますと言いましょう。

イエス様にも感謝いたしましょう、

聖霊様にも感謝いたしましょう。

三位一体の神様はわたしたちの霊肉すべてを創造してくださった、無から有をつくり出すことのできるお方です。クリスチャンはそのような神様と共に生活することができるという特権が与えられているのです。木や石で出来た何もしてくれない神様を担いで歩く人生とは違います。神様がわたしたちを創造し、この世に生を受けたときから死ぬときに至るまで、神様がわたしたちを担いで歩いてくださる、そういう人生が約束されているのです。感謝したいと思います。  

今日、みなさんに覚えていただきたいことは、そのようなわたしたちを創造してくださった神様と上手に生活する秘訣です。それがこの箴言3章5節の聖句、「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。」という言葉です。この言葉はわたしたちが何かとても重要な選択に迫られたときにわたしたちに勇気と希望を与えてくれます。この聖句をぜひ暗唱して下さい。繰り返し、何度も言ってみることによって、わたしたちの心に刻まれます。それでは皆さんと御一緒に言ってみましょう。

先日、ジョン・バニヤンの書いた「天路歴程」というお話を見ておりました。この物語の主人公である、クリスチャンという人物が、聖書に出会い、キリストの十字架によって重荷を取り去ってもらい、天国への人生の道を歩んでいくというお話です。クリスチャンは伝道者から天国にいくには、広い道ではなく、狭い道をまっすぐ進んでいくのだと教えられました。ところが、途中にはいくつもの分かれ道や、広い道との交差点が現れて、何度も迷ってしまいます。狭い道は険しいので人間的に疲れてしまうからです。それに比べて広い道はとても歩きやすそうで楽しく見えました。それでつい、そちらのほうへと足を進めてしまい、何度も危険な目にあってしまうのです。この広い道とは人間のわがままや、あさはかな考えを表わしています。人間は自分のしたいことだけをしたり、自分の考えだけに従って生きても自分自身を救うことは出来ません。そのままではただ滅んでしまうだけです。そこで神様は救いに至る道を用意されました。それが狭い道と例えられているもので、それは神様の考えに従って生きることを表わしています。神様の考えは当然わたしたちとは違うので、人間的に考えれば楽なことばかりではないでしょうし、不服に思うことも当然です。しかしながらそれがもっともよい方法であることは明白です。  

今からちょうど1年前のことでしたが、仙台市内の広い道路を気持ち良く走っていました所お巡りさんから「スピードの出し過ぎです」と言われて止められてしまったことがありました。それで違反点数が5点を越えてしまったので、教習所に行って一日こってりと講習を受けなければならなくなってしまいました。まあ、わたしがスピードを出し過ぎでいたのだから仕方が有りませんが、そのときは、ちょっとぐらいスピード出したっていいじゃないか、という気持ちでした。ところが、講習を受ける中で、教官がどうして道路交通法が定められているのかということについてお話をされたのです。その中で道路交通法とは、道路を使用する人すべて、つまり歩行者も車に乗る人も全ての安全を守るためにある、だから決まりに従って乗ってほしい、決まりに従うこととは、自分自身を縛り付けることではなく、他人への思いやりから来るものだということを話され、交通事故のほとんどがちょっとした他人への思いやり不足からきているという例を紹介し、他者への配慮さえあれば交通事故のほとんどがなくなるということを話しておられました。現在、1年間に交通事故で亡くなる方は全国で1万4千人を越えています。アメリカのような大きな国では年間3万人以上が交通事故で亡くなっているそうですが、その数は拳銃で亡くなる人よりも多いと言われています。拳銃は明らかに殺意があって用いられるものですが、それよりも多くの人が自動車事故でなくなっているわけですから、自動車というのはちょっと他者への思いやりを欠いただけで、すぐさま殺意無き凶器へと変わるものであるということを覚えておきたい。そう考えると法というものは、人を縛るものではなく、生かすためにあるのだということがよくわかります。  

神様はわたしたちを縛り付けるために、ご自分の考えを押し付けるわけでもなく、法を設けたわけでもありません。神様がわたしたちに与えてくださる法とは、愛の律法であり、自由の律法です。それは本当の意味でわたしたちを生かすものであり、本当の意味でわたしたちの命を守り、人生の安全を守り、平和を実現するものなのです。それがわかったとき、狭い道とはわたしたちの人生の中でもっとも確実で、もっとも安全な道であることがわかると思います。人生の選択肢の中において、どれだけ神様を信頼し、ゆだねているでしょうか。「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。」と聖書はわたしたちに薦めます。別の訳で読むと、「心をつくして主により頼め、自分の悟りにたよるな。(新改訳)」また、「心をつくして主に信頼し、自分の分別にた頼らず、(新共同)」と訳されています。自分の知識に頼らないということは、自分でこれだと思った道へ行くな、これだと思ったことをするなということです。そして全て神様を信頼して任せるということです。そのためには常に、神様と共にいることを意識した生活をしなければなりません。キリストは天にお帰りになられましたが、代わりに聖霊様をわたしたちにお遣わし下さいました。聖霊様はキリストと全く同一でありながらキリストにはない遍在という能力を持っておられます。ゆえにわたしたちはひとりもれなく、この聖霊様を通してキリストと共にいることが出来ます。それは心の中だけでなく、まるでキリストと共にいるように面と向かってその存在を感じることも可能です。聖霊様はその遍在という能力の故に内にも外にも、どこにでも共にいることがおできになるのですから、喜んでお迎えいたしましょう。ただし、聖霊様がいなくなるときは、火が消えるように、さっといなくなります。もしわたしたちが聖霊の臨在に対して少しでも否定的なことを考えるなら、聖霊様は火が消えるようにわたしたちの内からも周りからも消えて、離れていってしまいます。そうならないためにも常に神様のことを考え、キリストに注目し、聖霊の臨在を身近に感じるよう心掛けていきたいと思います。そして何をするにも必ず祈りの内に、聖霊様と相談して決めるようにいたしましょう。自分の勝手な判断や知識に従った決定は、わたしたちも、わたしたちの周りにいる人たちをも、霊的危機に直面させる可能性をいつでも持っているということを覚えなければなりません。どんな小さな選択でも残らず神様と相談しましょう。そうすることによってわたしたちは霊的識別力を持つことができるようになります。こうして、この終末時代、わたしたちは常に正しい狭い道を選び歩み続けていくことができるのです。  もう一度みなさんと御一緒にこの聖句を暗唱しましょう。 「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。」箴言3:5

  • 「神様、私を創造してくださってありがとうございます」。

    「イエス様、私を新たに創造してくださってありがとうございます」。

    「聖霊様、日々、私の霊を新たにしてくださってありがとうございます」。

    「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。」

(以下は柴田先生のコメントです)

  • 上の説教の中では述べませんでしたが、「自分の知識に頼ってはならない」箴言3:5の「知識」という言葉はたぶんヘプル語の「ビン・Byw (= understanding)」という言葉だったと思います。 判断力とか洞察力、理解を意味している言葉ですね。自分の判断や思い込みの勝手な理解に従って生きることが広い道を歩むことなのです。それに対して神様の判断、考え、計画に従って歩むことが、神様の自由の律法である、狭い道を歩むことだと思います。  

    それから、もう一つ大切なテーマは、「自由と無法」ということです。無法とは法のない状態ですから、どんな罪を犯したとしても罪として問われません。そのためわたしたちの周りで無法な行い、例えば暴力や殺人、盗難などがあったとしてもそれらから守ってくれるものはなにも無いわけですから、自分でなんとかしなければなりません。よって弱いものは物も命も取られ、強いものだけが生きていく事ができる世の中になります。それで神様はすべての人を生かそうとする愛によって、命の律法をたてられました。その代表が十戒です。十戒の各文章は、かならずその全文である「わたしはあなたのヤーウェ、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」という言葉につながるように書かれています。そして各律法は「~だろう・はずだ」という意味で読むことが出来ます。つまりその用法に従って十戒を読むと、例えば第1条は、「あなたが、わたしをあなたのヤーウェ、主であり、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者であることを知るならば、わたしのほかになにものをも神としないはずだ」となり、同様に以下の律法も「私があなたを救った神であることを知るならば、~~安息日を守るはずだ、姦淫しないはずだ、殺人しないはずだ、父母を敬うはずだ、...ETC」というように読めるようになるではありませんか。わたしたちが信じている三位一体の神様が愛をもって人を救い、生かしてくださる神様であることをよく知っているなら、わたしたちは神様の律法に従う筈だという訳です。これはとても目から鱗が落ちることでした(既に御存じのかたもおられると思いますが)。そういう意味が実感として受け入れられるほど、私達は自分の信じている神様が本当に愛の神様であるということを知っているのだろうか?、体験しているのだろうか?と改めて考えされられました。神様の与えてくださった律法というのは、強い人も弱い人もすべての人が、神様の愛の律法の守りの内に、自由に楽しく生きることが保証されているということでもあるのです。それだったらやっぱり狭い道を歩いた行きたいと思いますよね。 そういうわけで、この神様が本当に愛の方であるということを体験し、神様の備えてくださった道を歩むことを実現させてくれるのが、聖霊様と共に交わり、生活し、歩むことだと思ったのです。そのときに、わたしたちは自分の限られた知識や判断力ではなく、神様の知識、知恵、判断力のもとに人生の道を歩んでいくことができるのではないでしょうか。神様に感謝したいと思います。

(転載許可申請者のコメント)

こういう風にして神の戒めを守ろうとしている人々を「律法主義者」であると批判する事はできません。それどころか、むしろこのような捉え方こそが福音と律法を調和させると十分信じられる事を指摘されなければなりません。キリストが律法を廃する為ではなく完成させるために来たという言葉が実感させると思います。このページに関するご意見ご質問はE-メールでお寄せ下さい。

 

セブンスデーアドベンチスト嵯峨野教会
SELECTED MESSAGES/ Ellen G. White



 

エレンホワイトの著作の中でも特に重要度が高いと見られるセレクテッドメッセージズの第三巻は1980年になるまで出版されませんでした。この第三巻から徐々に翻訳をはじめて、当嵯峨野教会HPに掲示してゆきたいとおもいます。セブンスデーアドベンチストの教会員にとっても有用であるばかりか、緊急性もあり、かつ、同教会以外の方でセブンスデーアドベンチストに関心を持っておられるキリスト教関係者、ユダヤ教関係者の方々にとっても、示唆が与えられるであろうと十分信じられます。
 
 

第一章 教会とはなにか
第二章 教会の一致とは何か
第三章  
第四章  
   
第二十一章 ミネアポリス世界総会の試練
   


 
 

キリスト以後の安息日の歴史

1世紀

ほとんどの教会は毎週の安息日の終わる夕餐に、キリストの秘蹟を記念する習慣があった。
Socrates Scholasticus, Eccl. History

アブラハムの精神を受け継ぐ者達(=クリスチャンのこと)は、ヨルダン川の対岸のPellaという町に逃れ、第七日安息日を遵守していた。
Eusebius' Ecclesiastical History

ローマの歴史家のPhiloは、彼らの安息日が週の第七日安息日である事を確認している
 
 


2世紀

初期のキリスト教徒は第七日安息日に多大な崇敬を払っていた。彼らはその日を祈りとメッセージの日として費やしていた。こうした習慣はキリストの弟子達から伝承されたものであり、いくつかの聖書(旧約聖書)の書簡にその根拠を置いていた。
DHT Morer (Church of England) Dialogues on the Lord's Day, London, 1701

パレスチナからインドにかけての広い地域にあるクリスチャンは第七日を安息日として遵守していた。
Mingana, Early Spread of Christianity
 
 


3世紀

ラオデキア公会議(364 AD)までは、ユダヤ人が第七日を守っていたのと同じようにクリスチャンの間でも第七日が聖なる安息日として守られていた。この公会議はそうした第七日の遵守に対して公式に反対する声明を出した。
John Ley, Sunday A Sabbath, London, 1640
 
 

4世紀

北イタリア、山岳地帯の町ミラノでは、第七日安息日を堅実に守るクリスチャンの教会があった。彼らは東方のクリスチャンのグループの様にはユダヤの文化文明には接することなく、影響される事もなかったにもかかわらず、彼らは週の第七日に共に集まって、イエスキリストを安息日の主として礼拝していた。
Dr. Peter Heylin, History of the Sabbath, London, 1636

アビシニア教会は17世紀ものあいだ、第七日安息日に対して特別の敬意を払い続けていた。
Ambrose de Morbius

ミラノの司教になったアンブローズは、「私はミラノにいる時は第七日安息日を礼拝するが、ローマに出かけた時は日曜日に礼拝する事にしている」と言った。実は、「WHEN YOU ARE IN ROME, DO AS ROME DOES (郷にいれば郷に従え)」という諺はここから生まれたのである。
Heylin, History of the Sabbath

Persia (335 -375 AD) は言った、「クリスチャンは未だ我々の太陽の神をさげすんでいる。我々の偉大なる信仰の神、ゾロアスタは、一千年前に、旧約聖書の安息日の代替として日曜日を提供されなかったであろうか。それなのに、このクリスチャンの者どもは未だに土曜日に神を拝んでいる。なんたることだ。」
O'Leary, Syriac Church and Fathers.
 
 

5世紀

アウグスチヌス(初代教会のアウグスチヌスではなく、この時代の日曜日礼拝の推進者)は、この時代にいまだクリスチャンの大部分は第七日安息日を聖なる主の日としていることを認めた。
Nicene and Post-Nicene Fathers, 1st series, vol 1, pp. 353, 354

「ユダヤ人の第七日安息日遵守がわれわれクリスチャンの間で続いているというのはどうしたものか」
Lyman Coleman, Ancient Christianity Exemplified, p. 526

中国に渡来したキリスト教は第七日を安息日としていた。
J.F.Coltheart, The Sabbath Through The Centuries, p.11.

6世紀

スコットランドの教会はアイルランドのキリスト教教会にならってやはり土曜日を安息日として遵守していた。
W.T.Skene, Adamnan's Life of St. Columba, 1874, p.96.
 
 

7世紀

スコットランド、アイルランドのケルト人教会では、第七日安息日を守る習慣が続いていた。
Jas. C Moffatt, The Church In Scotland.

ローマ教皇グレゴリー1世(590~604)は言った、「ローマの市民である諸君。私は一部の者が誤った霊の教えを広めて、聖なる信仰に逆らっていると聞いている。彼らは安息日にいかなる仕事も禁じているという。こうした者達を反キリストと呼ぶより他にあろうか」

8世紀

インド、中国西域、ペルシャでは、第七日安息日の遵守が広く一般的であった。こうした第七日安息日遵守者の中には、カトリックから分離してきた者達もあったし、アビシニア教会、ジャコバイト、マリオナイト、アルメニア教会が含まれていた。
New Schaff-Herzog Encyclopeadia of Religious Knowledge, article "Nestorians."

「第七日安息日には、我々は犠牲をささげ、心を清め、罪を清める。この宗教は、非常に完全で非常にすばらしいものであり、どこから来てなんと呼ばれるものであるのかわからないが、とにかく精神の暗黒を明るくする知恵が満載であった」
China, 781 AD, The China Monument(=大秦景教流行中国碑、陜西省出土

9世紀

教皇ニコラス1世は、ブルガリアの王に手紙を送り、日曜日の労働を禁止し、土曜日に働くように命じた。ギリシャ教会の主教はそれを聞いて、奢れるローマ教皇の越権行為、余計なお世話だと憤慨して、ローマ教皇に絶縁状を叩きつけた。
B.G.Wilkinson,Truth Triumphant, p.232

10世紀

ネストリウス派キリスト教は、ブタも食べず、カトリックのミサの権威を認めず、マリア崇拝を拒否し、第七日安息日を守っていた。
New Schaff-Herzog Encyclopaedia, article, "Nestorians."

11世紀

スコットランドのカトリックに帰依したマーガレット女王は、1060年に、スコットランドで第七日安息日を守る人々を滅ぼそうと立ち上がった。
Reported by T.R.Barnett in Margaret of Scotland, Queen and Saint, p.97

東方教会がローマ教会から分離した時、最も激しく争った問題は、主の日が第七日安息日であるか、週の第一日であるかだった。
J.M. Neale, A History of the Holy Eastern Church, vol 1, p.731.

12世紀

イタリア半島では、第七日安息日を遵守していた者は、ロンバルジア平野地方にわずかを残すのみとなった。
Strong's Encyclopedia.

ワルデンセスは、第七日安息日を守り続けた。
Blair, History of the Waldenses, vol 1, p.220.

南フランスでは、ピーター・ドブルーが立ち上がって20年間の間、正しい安息日は、週の第七日の土曜日である事を教え続けた。
Coltheart, p.18.

13世紀

南フランスのトウールーズで、1229年に安息日遵守を禁止する勅令が出された。勅令3:地主、領主、地方官吏は第七日を安息日として守っている者の隠れ礼拝施設を見つけたなら、破壊する事を命じる。勅令4:平民は新約旧約のいかんを問わず聖書を所持してはならない。
Hefele.

1250年の時点で、ヨーロッパに存在していた第七日安息日遵守者のグループは、パオリキアン、ペトロビューシアン、パサギニアン、ワルデンセス、インサバテイーニ、だけだった。
Coltheart, p.19.

14世紀

1310年に、ボヘミア兄弟団はワルデンセスと連絡をとりあって、第七日安息日を守っていた。
Robert Cox, The Literature of the Sabbath Question, vol 2, pp.201,202.

ノルウェーでは、カトリックの司教達が、住民に日曜日の他に土曜日も守るようにと教えていた。
Theological Periodicals For the Evangelical Church in Norway, vol 1, p.184.
 
 

15世紀

エラスムスはボヘミアのクリスチャンを「安息日遵守者」と形容していた。
Robert Cox, op. cit

1453年に、ノルウェーのベルゲンにあるカトリック教区は、「我々の中に、異なる教えを奉じるものがある。第七日を安息日とするのは我々の聖なる教会規範により厳しく禁止されている。第七日安息日の遵守はいかなる状況の下でも禁止されている。神の友であり、教会の模範に従う者である諸君は、土曜日を安息日として遵守するという悪行から離れよ。禁を破って第七日安息日を遵守する者は厳しく罰せられる」
Dip. Norveg., 7, 397


16世紀

1544年にノルウェーで発布された勅書。「先の警告にかかわらず、いまだに第七日安息日を守っている者があるが、みつかった者は厳罰を下す。土曜日に礼拝している者が発見されればその場で10マークの罰金を課す」
Krag and Stephanius, History of King Christian III

リヒテンシュタインでは、「この地にはいまだ土曜日の安息日遵守者がいて、不届きにも日曜日礼拝をローマ教皇の発明であると断じている」
Wolfgang Capito, Refutation of the Sabbath, c. 1590.

インドでは、「イエズス会のフランシスコ・ザビエルは1560年にゴアで異端審問会を開いて、『ユダヤかぶれの安息日遵守者を悪行』を取り締まった」
Adeney, The Greek and Eastern Churches, pp. 527,528

アビシニア教会 「安息日遵守はユダヤ教の物真似ではない。それはイエスキリストへの従順の試金石なのです。それゆえ私たちは安息日を守ります」
From an Abyssinian legate at the court of Lisbon, 1534, quoted in Geddes' Church History of Ethiopia, pp. 87,88.
 
 


17世紀

17世紀から18世紀にかけて、イングランドでは第七日安息日を守る独立した小教会が多数発生した。
Ball BB, The Seventh-Day Men, Shabbatarians, and Shabbatarianism in ENgland and Wales, 1600-1800, Clarendon Press, Oxford University, 1994
 
 


18世紀

ドイツでは、「ニューレンベルグのテンハルトは、安息日の教理に堅く立っていた。なぜならそれは十戒の一つだからである」
Bangel, JA  Leben und Wirken, p. 579.

アメリカにはドイツから、第七日安息日を遵守するクリスチャンの集団が入植していた。
Rupp, History of the Religious Denominations in the United States.

東ヨーロッパには、ルーマニア、ボヘミア、モラヴィア、ドイツ、などに安息日遵守者が残っていた。彼らはローマ教会が多数派の地域で投獄、財産没収、罰金、死刑などの迫害に耐えていた。
Coltheart, p.26.
 
 


19世紀

中国では、「太平天国が建国され、内乱が起こった。このクリスチャンの中には第七日安息日を守っていた者が多かった」
A Critical History of Sabbath and Sunday.

ダニエル7:25は、こうして小さな角が増長して、時と律法を変更し、主の正しい安息日を守る者を迫害するという預言として世界歴史に成就した。
Preble TM, American Seventh Day Baptist, 1845.
 
 

 

バチカンの発表した宣言の部分翻訳文

原題:DECLARATION "DOMINUS IESUS" on the Unicity and Salvinic Universality of Jesus Christ and the Church.

翻訳:嵯峨野教会牧師

全文を翻訳する前に、最も問題となっている宣言文の中心個所を訳出しておきます。全文を原文で読みたい人は、最後の解説の下にあるバチカンのリンクをクリックしてください。

 



 

第4項:教会の一様性と一致

主イエズスはただ一人の救世主であり、信徒達の単純なコミュニティを確立するのみならずして、救済の奥義として教会をつくられた。イエズスは、ご自身が教会であり、彼のなかに教会がある(参照、ヨハネ15:1; ガラテア3:28; エフェソス書4:15-16; 使徒行伝9:5)。従って、キリストの救済の奥義の完全性は、教会の属性であり、教会の主(イエズス)から切り離すことができない。事実、イエズス・キリストは、教会に存在し、ご自身の体である教会を用いて教会での救済の働きを続けておはしませる。(コロサイ24-27、コリント第一12:12-13; コロサイ書1:18)。このように、同一でないが、生けるヒトの体の頭部と胴体の関係のように、分離できない関係であるのがキリストと教会なのであって、キリストと教会は混同されてもいけないし、分離されてもならず、従ってキリストの一つの体なのである。こうした分離不可性は新約聖書ではキリストが婚姻の花婿に例えられている通りである。(コリント第二11:2;Eph 5:25-29;黙示録 1:2,9)

すなわち、イエズス・キリストの救済のとりなしの普遍性と一様性は、教会の一様性としてキリストによって定められたものであり、真正のカトリックの信仰として、断固信仰されなければならない。一人の花婿なるキリストがいるのとちょうど同じように、キリストの花嫁もまた一人だけであり、それこそが唯一の教会”カトリックと使徒達の教会”に他ならないのだ。しかも、主の御約束によれば、主は教会を捨てられないと明言しておられるし(参照、マタイ16:18; 28:20)、カトリックの信仰によれば、彼は教会を彼の霊によって導くとも言われている(参照、ヨハネ 16:13)。だから、教会の一致と一様性は、キリストの教会の欠くべからざる性質で、決して失われ欠け損じたりしないものなのだ。
 

カトリックの忠実な信者は、教皇の綿々たる使徒職の継承と、キリストとカトリック教会によって建てられた教会の基礎と間にある歴史的連続性を信じる告白をすることを要求されている(訳注:原文のこの部分はイタリック体で強調されている)。「これは唯一無二のキリストの教会である。そして、彼の復活の後、我々の救世主は権限を与えペテロに牧師の働きに叙任し、他の使徒たちをもって教会を拡大し、あらゆる時代において『真実の基幹と本流』となさしめ給うた。この教会というのは、現状では一社会組織に過ぎないようであるが、カトリック教会に存在しているものであり、正当なペテロの後継者とその交わりに与る司祭によって運営されている。このラテン語の”SUBSISTIT IN(訳注:英語でSUBSIST INというのは時空を超えて存在するというニュアンスを持っている)という表現をもって、第二バチカンの会議は次のような調和深い教理を(二つ)宣言呈上する。

すなわち、一つは、キリスト教徒の中に如何に分派が存在しようとも、キリストの教会はカトリック教会だけで十分存在を保っているという事実である。そして、もう一つは、カトリック教会以外の教会で、カトリックとの全き交わりを行っていない教会や信者のグループの中にも、真理や聖なる事がバラバラと散乱して見出されているということである。彼らの持つこうした功徳は、時代をさかのぼれば、恵みと真理を託されて実に完全に具現したカトリック教会から付与されたものであることを認めなければならない。

したがって、キリストの教会は唯一であり、それはカトリックにあってこそ存在し、ペテロの唯一の後継者とその陪餐に与る司祭または司教達によって動かされているのである。カトリックと未だ連合していない教会であっても、カトリックが(教皇によって)真正な使徒職を継承し唯一有効な聖餐式司式権を持って存在している事を認めるなら、教会と言ってよい。つまり、たとえカトリックの教理をすべて受け入れないという理由でカトリック教会とは全き交わりがなくても、キリストの体である教会は存在し、働き続ける。カトリックの教理はキリスト教の第一位にあることは、神のみこころにより、それは祭司・司教達によってやがてすべての教会に対して執行敷衍されるであろう。

その一方で、有効な正統聖職者叙任権も、真の聖餐式の秘蹟の経験をも持たない信者の集団は眞の意味のキリストの教会と呼ぶことはできないのである。しかし、これらの非正統的で不完全なキリスト教のコミュニテイで洗礼を施される人々であっても、洗礼式によって、体なるキリストに取り入れられるのである。洗礼式(バプテスマ)とは実際それ自体がキリストにある命の全き具現であり、信仰と、叙任と完全な教会の交わりの欠くべからざる告白なのだ。

よって、忠実なキリスト教徒は、キリストの教会が雑多に分割された信者のグループの寄せ集まりであると決して考えてはならない。まして、キリストの教会はどこにも存在していないなどとも考えてもならない。キリストの教会とは、すべての教会と信徒と聖職者が全力を挙げて達成すべきゴールであると見なされなければならない。

このように、神に付与された眞の教会の特徴が、カトリック教会の充ち満ちた豊かさに結合されて存在できるのであるが、他の教会につながるならば、何も満たされるものはない。従って、カトリックとは分離している教会や社会は、我々の信じる所によると欠陥を持っている社会なのであるが、救済の奥義の重要性から切り捨てられてしまっているわけでは決してない。というのは、キリストの霊は、カトリックではない教会が、豊かな恩寵と真理を委ねられたカトリック教会から由来している功徳を用いて救いの道を教えることを妨げたりなさらないからである。

キリスト教徒の中の統一の欠如は、教会が統一性を持っていないという意味においてではなく、歴史におけるカトリック教会の不偏性の成就が妨げられているという意味において、教会の痛みなのである。

 


>>解説<<

上の文で、「教会」という言葉が、しばしば「キリストの教会」というように抽象的に用いられていることに注意されたい。原文においても、そういう用法での「教会」という言葉と、特定の教派を指す「教会」という言葉が予告も解説もなく錯綜しているので、不注意な読者は、前者の「教会」を後者のカトリックの「教会」と取りかねない。この文章は実に読者にそういう誤解が起こることを期待して書かれたものである。上の文で、ペテロの正統な後継者とはバチカンの教皇に他ならない。つまり、教皇の権威を認めないキリスト教はキリスト教でないと言っているのである。これは21世紀を前に全世界のカトリック教会、国家に送られたバチカン本庁からのメッセージである。

これでも白石尚(日本のSDAの総理)は「カトリックはよく変わった」とか「ホワイト夫人の預言はもはや正しくない」などと言って信徒を欺いてシラを切るつもりなのであろうか。それとも、愚かにも、カトリックに媚を売ることによってSDAをキリスト教会であると認めてもらおうと思っているのか。これがライフ発言の撤回が教会員から要求されて当然のゆえんである。

英語でバチカンのホームページにある宣言の原文を読みたい人は次のリンクをクリックするとよい。

http://www.vatican.va/roman_curia/congregations/cfaith/documents/rc_con_cfaith_doc_20000806_dominus-iesus_en.html

 


セブンスデーアドベンチスト嵯峨野教会ホームページに戻る