おはようございます。

 

今日は、天候が良くない朝になりました。

このところの天候で、家族全員喉が痛いとのことで、私も少しガラガラしています。

のど飴は、必須になり、土曜・日曜は自宅での静養になる予定です。

熱さえなければいいですけど。

 

 

今日のスカイツリーは、雲に霞んだ様子で1枚、足立市場前はつくばエクスプレスの通過が撮れました。

このところつくばエクスプレスが多く撮れます。

週末、お出かけ予定の方、私の分まで楽しんでください。

 

 

おまけ、

先週、上野公園を歩いている時に、ある事を感じました。

上野公園には、いろいろな石碑がありますが、実にバラエティーに富み、いい意味でのなんでもあり状態かな?と思います。

西郷さんの銅像は有名ですが、その後ろに西郷率いる新政府軍に対抗した彰義隊の慰霊碑(墓)があります。

彰義隊は、 江戸幕府15代将軍徳川慶喜の大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った後、官軍や公家の間で徳川家の処分が議論されましたが、慶喜の一橋時代の側近家来であった小川興郷達は、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命を求め、慶応4年(1868年)2月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山にたてこもりました。

彰義隊には徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々で構成されていたが、烏合の衆状態でした。
 慶応4年(1868年)5月15日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走したいわゆる上野戦争が勃発しました。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺(以前お伝えしました)の住職仏磨らによって当地で荼毘に付されました。
 正面の小墓石は、明治2年(1869年)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に掘り出されました。

生き残った小川興郷ら元彰義隊士は、明治7年(1874年)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり彰義隊隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立して供養しました。

大墓石は、明治14年(1881年)12月に小川興郷らによって造立しました。

彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻んでいます。

これは、一例ですのでまたわかり次第お伝えします。