こんばんは。

 

今日は、陽気に誘われ、お約束になりつつある上野エリアの不忍の池に行ってみました。

京成上野駅が今回の出発地になります。

駅は、外国語が飛び交う多国籍エリア、国際色豊かで、東京12チャンネル(テレビ東京)の名物番組の「YOUは何しに日本へ」の取材班がいて、インタビューしていました。

不忍の池周辺では、骨董市が開催され、フリーマーケット会場には多くの人がいました。

今日は、この不忍の池を一周しました。

 

 

まずは、おさらいです。

不忍の池は、縄文時代は東京湾の入江でしたが、海岸線の後退で取り残され、数世紀頃に池になったらしいとのことです。

名前の由来は、かつて上野台地と本郷台地の間の地名が忍ヶ丘と呼ばれていたことに由来すると言われていますが異説があり、

① 周囲に笹が多く茂っていたことから篠輪津が転じて不忍になったという説(『新編武蔵風土記稿』『神代余波』)

② 男女が忍んで逢っていたからという説(『望海毎談』)

③ 上野台地が忍が岡と呼ばれていたことにたいして不忍池と命名された説(『江戸妙子』『江戸名所図鑑』)

等がありますが、15世紀頃には既に呼ばれていたとのことです。

 

現在の不忍の池は、上野公園の南西に位置して、周囲1400m、面積は約10万3700平方メートルで、池は北は上野動物園分園の水上動物園(鵜の池)、南は蓮の池、西はボート池の3つに分けられているのが特徴で、これまで歩いていなかったことが不思議でした。

 

 

まず初めに、上野動物園西園の弁天口からスタートし、弁天島から歩き始めました。

1625年、江戸幕府は、西の比叡山延暦寺に対応させるために、上野の地に寛永寺を建立し、開祖の慈眼大師・天海は、不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえ、弁天島(中之島)を築かせ、そこに弁天堂を建設しました。

当初の弁天島は文字通り船で渡る島でだったが、1627年に弁天島から東に向かって石橋が架けられ徒歩で渡れるようになりました。

弁天島には、ユニークな石碑がかなり多いので有名です。

今回、出店がかなり出ていたため、全て見ることができませんでしたので、記してみます。

・ふぐ供養碑(岸信介筆) 1965年 東京ふぐ料理連盟

・八橋検役顕彰碑 1966年

・スッポン感謝之塔

・東京自動車三十年会記念碑 1975年

・真友の碑(英語) 1976年

・暦塚(中曽根康弘筆) 全国カレンダー出版協同組合連合会ほか

・包丁塚 上豊調理師会

・鳥塚(東龍太郎筆) 1962年 東京食鳥鶏卵商業協同組合と東京都食鳥肉販売業環境衛生同業組合

・幕末の剣豪櫛淵虚沖軒之碑 1978年 利根郡月夜野町

・魚塚1976年 東京魚商業協同組合

・利行碑(熊谷守一筆) 1969年

・めがねの碑 1968年 東京眼鏡懇話会(日本で始めてメガネをしたのが徳川家康を記念して)

不忍池周辺には 駅伝の碑 2002年財団法人日本陸上競技連盟

等があります。

 

弁天島の近くには、ボート乗り場があり家族、カップルがボートえ楽しんでいました。

1907年に、東京勧業博覧会のため、池の中央を横切るように道ができ、分けられました。

サクラも咲いていて、池にいる鳥たちも羽を休めていました。

最後に、不忍の池のメインの蓮の池に戻りフィニッシュしました。

蓮が咲いていないのが残念でした。

〈1口メモ〉

1884年、共同競馬会社による競馬場の建設が行われ、池が多少埋め立てられました。

池を周回する形で作られた競馬場で同年11月には天皇臨席のもと第1回の競走が行われ、以降1892年まで春と秋に競馬が行われました。