こんばんは。

 

歌は世につれ、世は歌につれ、家のじいさん孫を連れというフレーズがありますが、楽しい時も、つらく・切ない時にも染みる歌があります。

 

 

最近は、外国の動画配信者が、昭和・平成の日本の音楽を聴き、言葉も知らないのに感動して解説している内容のものを多く見かけます。

 

年末・年始には、懐かしの名曲の特番をよく見ていました。

すると、曲の紹介の時、作曲の名前に、ベンチャーズというのをかなり見かけました。

ロケットミュージック

 

始めてベンチャーズを知ったのは、小学3年生の頃、父が当時のEP版のレコードを買ってきて聞かせてくれたのが、ベンチャーズの「パイプライン」で軽快な曲が、北海道の山奥で生活していたものには、新鮮だったのは言うまでもありません。

後に聞いたのは「パイプライン」は、日本のみのシングルカットでアメリカでは未発売だったそうです。

さらに、日本でのベンチャーズ最大の人気曲、「ダイアモンド・ヘッド」もアメリカでは70位くらいのもので、根本的に、日本に適した曲だったのかと思います。

個人的には、「ダイアモンド・ヘッド」のカップリング曲の、「朝日のあたる家」が好きで、落ち着いたゆったりした曲が好きでした。

ベンチャーズは、1959年に、ドン・ウイルソンとボブ・ボーゲルにより結成され、その後メンバーチェンジを重ねつつ現在も活動中という息の長いグループで、日本でほぼ毎年公演しています。

当時の話では、専用ギターである、モズライトのギターを真空管アンプにプラグ・インする事によって生み出されるラウドかつ強烈なサウンドで、たちまち日本の若者たちをとりこにし、日本に於いて一大エレキ・ブームを巻き起こしました。

その影響を一番受けたのが、来日時に共演した加山雄三さんで永年に渡って交友関係にあります。

ベンチャーズは来日時に日本の歌謡曲を聞いて研究した上で、「こういうメロディを作ったから聞いてくれ」と売り込んできました。

聞いた関係者の方が、そのメロディが「外国人が作ったとは思えないほど日本人の好みに合致する曲」だったため、日本語の歌詞をつけるのを企図するようになったとのことです。

すっぽん小町

 

その第1作目は、1966年に出された、「二人の銀座」で、青春映画のスターの和泉雅子&山内賢で大ヒットしました。

もともとは、「GINZA LIGHTS」(銀座の灯り)という作品で、越路吹雪さんのために、ベンチャーズが銀座の夜景をイメージして書いたものであったが、曲を聴いた越路は「これは自分が歌うより、もっと若い人が歌った方がいい」という事でした。ちなみに、詞は永六輔さんのものです。

その後、1967年「北国の青い空」(唄奥村チヨ)、1970年「京都の恋」・「京都慕情」(唄渚ゆう子)、1971年「雨の御堂筋」(唄欧陽菲菲)などのヒット曲が出て、ベンチャーズ歌謡と呼ばれ、「アメリカ人にこんな日本的な曲が書けるのか」と当時の関係者は驚くくらい、日本情緒豊かなものでした。

このところ、コロナの関係で、主催する会社の活動停止などで来日できず、生で聞けないのが残念ですね。