こんにちは。

 

定年になり、家にいる事が多くなり、母の昔話に付き合うことが多くなりました。

その中で、「ばあさんが、浅草と秋田県の繋がりが強いことをよく話していた。」といい続けて、「戦争の時、浅草の観音様を秋田県で大事に保護していた。」という事をよく話すようになりました。

 

 

浅草大好き人間としては黙ってはいれないと思い、調べて今日見てきました。

場所は、浅草寺の裏で、プロレスラーのアニマル浜口さんの道場があったり、馬主でもあり、芸能プロ社長でもある西川さんの事務所があったり、少し前までは東八郎さんの家があったり、意外と閑静な感じがします。浅草寺の裏に出るとまず目につくのは5656会館です。

 

 

5656会館は、創業江戸時代末期から現在まで、浅草の歴史と共に歩み伝統の中で育まれた老舗、株式会社常盤堂雷おこし本舗の直営店です。

6階建ての店舗ビルの建物内には、おみやげ売り場や、雷おこし作りの実演見学、お食事処のテーブル席から大広間、座敷席まで、大人数が収容可能な広々としたフロアを設け、浅草観光をゆっくりと堪能できる設備を用意しています。

また、325座席を備えた5-6階のホールでは、毎週土曜・日曜「よしもと浅草花月」の公演をはじめ、その他、芸者踊りなどの様々な催し物が開催され、亡くなった浅香光代さんの女剣劇は有名でした。

 

5656会館に向かって左側には、道引長太郎地蔵尊というものがあります。

道引きとは引導に通じ、地蔵尊を信仰すれば機縁に恵まれ、長太郎地蔵尊は元禄時代から存在し、浅草旧日並記の記述に「馬場尻地蔵」と記されていることから、馬場の世話役男衆の死を弔うために立てられたのではという説。

もしくは、「犬公方」で知られる五大将軍網吉が、「生類憐令」を出した矢先に、忠運僧正は部下の長太郎に命じて、狂犬を集めて隅田川に流してしまい、忠運僧正は即座に身を隠したが、長太郎は自殺したものと思い、自らも自殺してしまい、それを弔うためという2つの説がある。

さて本題の浅草と秋田の関係はどうかというと、5656会館に向かって右側の通りのみちびき花の辻商店街にありました。

この辺りは、江戸時代に本荘藩主であった六郷氏が浅草に下屋敷を設けたとき、領内の景勝地である「象潟九十九島」にちなんで、屋敷付近の町名に「浅草象潟町」と名付け、昭和41年までありました。

象潟という町名は、この地に屋敷をもっていた華族六郷政鑑の旧領地の一地名からとってつけたといわれます。

六郷政鑑は幕末から明治初年にかけて、羽後本荘で二万余石を領した藩主でした。

町名の由来となった象潟は、現在の秋田県南部海岸沿の地で、「出羽富士」と称される鳥海山の西側山麓に位置し、江戸時代、象潟は景勝の地で、九十九島、八十八潟と呼ばれる島や入り江があり、仙台の松島と並び称されました。

また、この地には、江戸文化の偉大なる俳聖「松尾芭蕉」が旅した「おくのほそ道」で秋田県象潟を訪れ、雨に煙る九十九島、八十八潟の絶景を中国の美女「西施」の憂いに満ちた姿と重ね合わせた素晴らしい句を残しております。

 

象潟や 雨に西施が ねぶの花の句碑が残されています。

これらの経緯があり、平成五年七月二十ニ日に秋田県象潟町と台東区馬道地区町会連合会との間で「姉妹地」の盟約が締結されました。

秋田県と浅草の繋がりの強さは間違いではなかったみたいですね。

 

≪おまけ≫

・宮戸座跡之碑

松尾芭蕉象潟の句碑の隣に、ひっそりとあります。

宮戸座は、明治29年(1896)9月開場、座名は隅田川の呼稱”宮戸川”にちなみました。
関東大震災で焼失後、昭和3年(1928年)11月この地に再建して、。昭和12年(1937年)2月廃座になりました。
ここの舞台で修業しのち名優になった人々は多く、東京の代表的小芝居でした。
大歌舞伎に対し規模小さな芝居を小芝居と呼んだそうです。

 

 

・浜口京子オリンピック銅メダル獲得記念樹

アテネ、北京と2大会連続で、銅メダルを獲得したご存じ現在はタレントとして有名な、アニマル浜口さんの長女浜口京子さんの記念樹として平和の象徴のオリーブの木が植樹されています。