いよいよ明日に

シューベルトの冬の旅、

東京での公演が迫ってきました。


時間が思うように取れず24曲あるうち、

5曲の解説に留まってしまいました。

(今日が5曲目になります。)


ここまでの解説で私が特に強調したかったことは、

「冬の旅」はちょっとイメージされるような

失恋の物語ではむしろなく、

この話の主人公は、

「良き市民社会」とどうしても相い入れることのできない魂を持った人物で、

その孤独と苦悩、そしてそれが故の覚醒を描いた作品であるということ、


そして、そのテーマがドイツの文学を通して語られる非常に中心的なテーマであるということです。


すなわち、このテーマは、

「良き市民社会」と言われるものが

果たして、本当に「良きもの」なのか?

という問いの投げかけています。



コロナ以降の混乱から、

実は、現代社会において

この問いを問うた者、

問わざるを得なかった者は

数多くいたのではないでしょうか。


そういう意味でこの曲は

200年も前の作品に関わらず、

我々の現実からそう遠くにあるものではないと、

私は考えています。


さて、今日は最終曲、DerLeiermann 辻音楽師

の解説です。


私の作成しました、日本語意訳はこちらになります。


24 Der Leiermann

辻音楽師


村のはずれに

手回しオルガンの老人がいる。

凍った道を

靴も履かずにうろうろと、

かじかんだ手で音楽を奏で続ける


誰一人、立ち止まる者はなく

置いた皿はいつも空っぽ。

のら犬だけが、その脇で唸る。


全てお構いなく

全てをなすがまま、

ただ老人はオンガンを回し続ける。


不思議な男よ

俺もあなたのようで居たい。

俺の歌った歌をあなたにも奏でて欲しい。




珍しく女性の演奏を貼りましたが、

この演奏のテンポが自分の解釈するテンポに一番近かったからです。


とても寂しい感じの終曲ですよね。


手回しオルガンというのはこんな楽器で、

今でもヨーロッパの観光地などでは、

大道芸人がこういうオルガンを回しているところを見ることができますので、知っている方も多いのではないでしょうか。




中身は木製のパイプオルガンですが、

取手を回すことによってオルゴールのように音楽を自動で奏でることが出来ます。




この物語の最後に出てくる、この老人は、

ある村の片隅でオルガンを回しているわけですが、

誰一人見向きもせず、

誰も喜んでいないのに、

冬の過酷な条件の中で、

かじかみながら、

ひたすら音楽を奏でているのです。


暖かい環境で、

気分がいいからやるわけでもない。

人が喜んでくれるからやるわけでもない。


一体何のために?

そのような過酷な努力を続けるのか。


実はそこに全ての答えが詰まっています。



永遠の孤独という重い刑を受け入れて

ある種の夢から覚めた人物がやる事は、

これしかない。


これは大いなる知恵です。

この作者、ヴィルヘルム ミュラーは

この知恵を得ていたのですね。

そうしてこの人物、

辻音楽師という老人が創造されました。


まさに、シューベルトも同じ想いだったでしょう。


この老人自身は

もしかしたらただ長年の習慣で

オルガンを回し続けていただけかもしれません。

しかし、この主人公はこの老人の姿を見て、はっとしたのです。


真実を見ようとするほどに、

「良き社会」から隔絶していく人物が、

悩み、苦しみ、

死をも考え続けるほどに

気力も失っていたところに、

本当の悩みの本質は、

その社会、他人から認められるか、

認められないかという、

非常に「社会的な」問題に過ぎなかったのだという事に気付くのです。


それを見て、

一体自分がなぜ何のために

「真実」なるものを追い求めていたのか、

その全てが意味のないことになってしまう。


まさに、禅問答のような話になってしまうのですが、ここには全ての悩みの崩壊があるのです。


誰に認められるか、

認められないか、

の世界観から独立して、

生き続けること、

存在し続ける事が、

徳の全てである。と。


こんな寂しい曲ですが、

単純な手回しオルガンのメロディに、

この悟りの境地を示したのが、

この曲、辻音楽師で、

まさにシューベルトという天才の

ライフワークの集大成、終曲にふさわしい曲

といえます。


明日のコンサートで皆さんにお会い出来るのを楽しみにしております。


またよろしくお願いいたします。