それでは一昨日の記事の続き、

 

小説作家、平野啓一郎が書きました、

新書、「私とは何か」(本当の自分はひとつじゃない)

 

 

の話に戻ります。

 

 

 

平野啓一郎は、

「個人」という、現在では日本でも当たり前の、自己認識の方法が、

本来の自己の姿と、大いに異なっていることを指摘しております。

 

 

 

 

「個人」というのはそもそも、

全てのものを分断し、解析するその西洋式のものの見方からくる概念で、

 

これ以上分断することができない人格の単位という意味で、

individual (インディヴィジュアル)。

 

 

すなわち、dividual、「分断できる」という言葉に、in という否定形をつけた言葉なのだと言っております。

 

 

 

これ以上分断できない、最小の単位としての人格がindividual「個人」という言葉の意味合いなのです。

 

 

 

 

 

それに対して、平野啓一郎は、作家として物語を作る、

登場人物を練り上げる、その観察力から、

 

我々は、たった一つの人格を持つことはまずあり得ず、

状況によって、全く違う人格を常に発生させ続けている存在であるということを言い切ったわけです。

 

 

 

 

それを平野啓一郎は、

「個人」(Individual)に対する、「分人」(Dividual)という言葉で表現しております。

 

(この辺のセンスがさすがは作家ですよね)

 

 

 

 

 

 

例えば、平野啓一郎がパリに語学留学した際、

日本人らしく、テストの点数がよかった平野が、

実力に削ぐわない、最高のクラスに入られてしまい四苦八苦した時のエピソードを挙げています。

 

自分以外は、全員スイスのドイツ語圏から来た語学留学生で、

彼らはドイツ語圏とはいえ、すぐ隣にフランス語圏があるところから来ている人たちで、

会話という意味では全く平野の届かないレベルにいるのです。

 

さらには、休憩時間には彼らは母国語のスイス・ドイツ語を話し皆で楽しんでいるわけですから、

最初は平野もちょっとぐらいは話しかけるような努力をしたものの、

すぐに完全に塞ぎ込んでしまい、語学学校にいる間中、ほとんど一言も話さず、

必死に授業についていくことだけをしていたそうなんです。

 

 

 

平野自身は、本来は明るく、クラスでも人気のあるような人物らしく、

語学学校が終わると、パリ、オペラ座近くのラーメン屋さんに日本人の友達と食事に行くようなことが日課になっていたようですが、そこでは、むしろおちゃらけて、「もう、散々だよ、スイス人ばっかりでさ」なんていうことを明るく友達と喋っているのだそうです。

 

 

 

 

どこにでもあるような話ですよね。

 

 

 

さて、この平野自身が示した2つの人格というのは、

皆もよく知っているように、平野自身が意図して作った人格ではない、

というところがポイントで、

他人との関係性において、

その場に応じた人格をその都度発生させている結果として起こっているだけなのだと

平野は指摘しています。

 

 

 

 

こういうものを観察すると、

その場に応じて出て来た人格は、嘘の人格で、

本性は他のところに隠れている、

 

と見るのが普通なのですが、

 

 

平野自身、ある小説のテーマとして、

徹底的にこの「本性」というものと、その都度現れる「仮面」と言われるものについて

考え抜いた末に、

 

結局は、人間には、「本性」と呼べるようなものは存在せず、

どこまでいっても、その場に合わせた人格を発生させるようにしか

人は機能していないということを、見て取ったようなのですね。

 

 

 

 

例えば、家族との関係性の中では、

それに合わせた人格、「分人」が現れ、

 

もっといえば、父親との個人的な関係での「分人」、

兄弟との関係での「分人」もまた別の人格として現れ、

 

道を歩くときの「分人」や、

店の店員や、仕事上で知り合った人間に対する「分人」もまた別に存在し、

 

友人たちのあるグループでの「分人」、

また別の友人関係での「分人」も存在する。

 

そしてもちろん、より親密な関係では、

友人一人一人との関係における「分人」も形成されて行く、

 

 

 

そして実は、親密な関係を作るというのは、

社会一般に通用する態度を持つ「分人」から、

個人的な、その人との関係のみに現れる「分人」を形成することなのだ、

ということを言っております。

 

 

逆に言うと、ある個人に対して、常に一般的に良き態度の「分人」のまま接するということは、

個人的な、「分人」を形成することを拒否しているということを意味していて、

それが親密な関係になっていかないことを意味するわけです。

 

 

 

 

 

この「分人」というアイディアは、

心理学などでも説明されない、

いや、逆に言うと、心理学などで言う「仮面」「ペルソナ」なんかの概念よりも

ずっと深い観察力に根ざすもので、

あまり聞いたこともない考え方な筈なので、

一通りの解説だけでは、

あまりなんのことを言っているのかわからない可能性もあると思います。

 

 

何しろ、ここまで話をするのに、

多くの例をあげながら平野啓一郎も100ページを費やしているんですから。笑

 

 

 

ただ、私の理解からすれば、

まさにこの平野啓一郎の観察した、「人間」、「個人」、「人との関係性の在り方」こそが、

真実をついております。

 

 

そして、この視点からものを見ますと、

普通では説明できない多くのものが、説明可能になるような予感が。。笑

 

 

 

続きはまた明日にいたします。