みなさんは、ふとした瞬間に
どうせ私なんて。私ばっかり損してる。
なんて自分を可哀想な存在だと思ってしまうことはありませんか?
今日は私がノートでの自己対話を通して気づいた思い込みの正体についてお話ししようと思います。
◉傘に入れてもらえなかった、あの日
私が小学校低学年の頃の話です。
3人で下校しているとき突然雨が降ってきました。
私だけ傘を持っていなくて「入れて!」とお願いしたんです。
すると一人の子がスッと傘を閉じて、
「これ、一人用やから無理」
と言いました。すると、もう一人の子もそれを真似して、私を傘に入れてくれなかったんです。
悲しくて寂しい記憶です。大人になってもこの出来事は心のどこかにトゲのように刺さっていました。
◉可哀想な私でいるメリット?
最近ノートを書いて自分と対話する中で、この記憶を深く掘り下げてみました。
すると、驚くべき自分の本音が見えてきたんです。
私は、無意識に自分は可哀想な存在だというフィルターを通して世界を見ていました。
そしてその可哀想な私でいることには、実はメリットがあったんです。
それは可哀想な自分でいれば構ってもらえるということ。
当時の私にとって、
【構ってもらえる = 愛されている】
という設定になっていたんですね。
◉お兄ちゃんへの嫉妬と愛の勘違い
なぜそんな設定ができたのか。さらに深掘りすると2歳上の兄の存在にたどり着きました。
兄は喘息持ちで体が弱く、母はいつも兄を看病していました。
対する私は風邪ひとつ引かない健康優良児。
熱を出して母に看病されている兄を見て、幼い私は「いいな、お兄ちゃんは構ってもらえて愛されてる。私は元気だから放っておかれるんだ」と感じていたようです。
今の私からすれば、熱を出して苦しい思いなんてしたくないし愛の定義がズレてるよ!笑とツッコミを入れたくなりますが、当時の私にとってはそれが切実な愛の形だったんです。
◉お母さんの涙と書き換わった記憶
20代の頃、私は母にずっと溜め込んでいた思いをぶつけたことがありました。
「お母さんはお兄ちゃんばっかり可愛がってた!」と。
すると母は泣きながら、こう言ってくれました。
「子どもを可愛くない親なんていない。あんたもお兄ちゃんも同じくらい愛情をかけて育てたよ」
この言葉を聞いてから、「そんなことないもん!」と反発していた心が少しずつ溶けていきました。そして不思議なことに、「あ、お母さんに愛されてたな」というエピソードが次々と思い出されるようになったんです。
あなたはどんなフィルターで世界を見ていますか?
大人になった今でも、ふとした時に私って可哀想という思い込みが顔を出すことがあります。
でも、ノートを書いて俯瞰する力が身につくと
すぐに気づけるようになります。
「あ、またこの設定が出てきたな」
「もうこの設定は好みじゃないから、変えちゃおう」
そうやって過去の自分を癒し好みの設定に書き換えていくことができるんです。
思い込みは気づくだけで少しずつ小さくなっていきます。
そして勇気を出して誰かに本音を聞いてみたり、行動を変えてみたりすることで世界の見え方はガラリと変わります。
あなたは今、どんなフィルターで世界を見ていますか?
もし、そのフィルターがあなたを苦しくさせているなら一緒にノートを広げて新しい自分を設定してみませんか?^^


