Flat or Falt. -3ページ目

Flat or Falt.

Baby my heart beats for U




 その人との出会いは、部屋の玄関前でピアスを拾ったことがきっかけだった。どこかで見覚えのあるピアスだと思っていると、隣の住人が玄関奥から現れ、拾い上げたピアスを指さしこう言った。それ、俺の。拍子抜けして立ち竦んでいると、その人は玄関から出てこちらに向かい、手にしていたピアスを受け取って颯爽と部屋へ戻っていった。不思議なひと。それが、第一印象だった。

 その出会いから何度か顔を合わせるようになり、意識的に挨拶を交わすようになった。朝の時間帯が比較的に被っているらしく、平日の朝は特に顔を合わせることが多かった。出会いから数週間が経った時、帰りのエレベータで初めて会話という会話を交わした。毎朝のように挨拶を交わすようになってから大分慣れが出始め、話しかけられても身構えることが無くなった。エレベータの中で初めて互いの名前を知った。名前は、キム・ミンソク。歳は四つ上で、近くの喫茶店でアルバイトをして生計を立てているのだという。

 朝の挨拶が段々と会話に変わり始めたころ、週三回のペースでミンソクさんの夕飯に御呼ばれされるようになった。はじめは気まずさと迷惑をかけるのではないかという気持ちから断りを入れていたが、夕飯時になると隣の部屋の換気扇から香る良い香りがずっと鼻腔をくすぐり続けていた。自炊といっても買ってきたコンビニのお弁当であったり、休日は出前のチキンといった乱れた食生活。栄養が偏っていることもわかっていたし、隣から香る良い香りのする手料理を食べてみたいという好奇心がそうさせたのかもしれない。初めて呼ばれた夕飯はそれこそ豪華で、一汁三菜の栄養バランスが考えられた食事。今日は特別だから。そう言って、ミンソクさんは笑った。

 そんなお隣さんとのエピソードが積み重なっていくなか、大学で専攻しているダンスの課題が行き詰まり始める。好きなことだのにいっそ嫌いになれたらと思ったことはあったが、それなりの覚悟を持って始めたことを今さら投げ出すことも出来ずに悶々とした日々が積み重なっていく。無意識のうちにため息が増えていたようで、何度も朝から心配をされた。落ち込みを見せないように、ミンソクさんの前では努めて明るく振舞った。それでも重ねてきた人生の重みの違いなのだろうか、そんな虚しい努力もすぐに見透かされてしまう。その日は御呼ばれの日ではなかったが、一緒に夕飯を食べようと誘いが入った。毎度のように手ぶらで赴くのも気が引けたので、大学帰りにコンビニで小さなカットケーキを買って帰った。

 約束の時間に部屋を出て鍵を閉め、お隣の玄関の前で一度深く息を吐く。インターホンに指を置いて力を入れようととした刹那、ゆっくりと玄関扉が開く。中から現れたミンソクさんが部屋のなかに入るように手招きをする。お邪魔します。控えめに発した言葉に一笑。玄関先から漂う食事の香りに自然と腹が鳴る。キッチンにいるミンソクさんに、カットケーキの入った袋を手渡す。別にいいのに。そう言いながらも堂々と受け取り、それをそのまま冷蔵庫の空いているところに入れてしまう。

 いつ何時に来ても綺麗に整頓された2DKの部屋。絶妙な場所に備え付けられたシンプルな家具たち。そのどれもが主張をせず、うまく共存しあっている。木目調の家具を気に入っているという話通り、至るところに木目調のものが置かれている。部屋の隅には観葉植物が置かれ、ベランダには小さな鉢植えが三つほど並んでいる。室内の配置は相違ないものの、置かれているものの違いで別空間に来ているようだ。玄関を入ってすぐ左手にキッチン。そのすぐ近くには四人掛けテーブルと座り心地抜群の椅子が四脚。そんなに客が来るのかと問うと、大人には色々あるのだと一蹴される。部屋の奥にはこれまた四人掛けのソファベッドがあり、壁際には古いテレビ台の上に薄型の最新式テレビが置かれている。カーテンは濃い茶色。落ち着いた大人の雰囲気溢れる部屋だ。

 ミンソクさんは鼻歌交じりに、ミートソーススパゲティが綺麗に盛り付けられた皿を持ってキッチンからやってきた。意気揚々とキッチンへ自分の分を取りに戻っていく。自分の分を向かいの席に置き、今度は冷蔵庫のもとへ。中から麦茶の入ったボトルを取り出し、テーブルの上にどかりと乗せる。ガスレンジ近くの壁際に置かれた食器棚から透明のグラスを取り出し、それもテーブルの上に置いた。テーブルの真ん中にサラダの入った大皿を置き、取り皿を二枚用意。やっとのことで席に着き、食事の時間が訪れる。




「いただきます」
「お~。味に保証はしないからな」
「そういって不味かったことありましたっけ」
「…ないな」




 両の手を合わせて挨拶を済ませ、同時に食べ始める。お互い食事中に無駄口を叩かないので、咀嚼音と金属同士が触れあう音だけが響く。決して、気まずいというわけではない。テレビを点けないのは家主が騒がしいのを嫌うから。程よい味付けの手作りスパゲティを食べながら、市販の水出しパックの麦茶を口にする。ふと視線が合うと、不思議そうに小首を傾げる。年上とは思えない所作に、思わず笑みが毀れる。

 食べ終えた後、自ら後片付けを買って出た。ミンソクさんはシンクの遣い方を説明した後ソファに沈むこむように座り、消え入りそうなほど落とした音量でテレビを見ている。見ているというよりもただ垂れ流しているようにも見えた。早々に皿洗いを終え、冷蔵庫から持ってきたカットケーキの入った袋を取り出す。分け皿の所在を尋ねようとしたところでミンソクさんはソファから立ち上がり、キッチンに来て食器棚から丁度良い大きさの皿を二枚取り出した。




「珈琲入れるからソファで待ってろ」
「…はぁい。あ、お手洗い借ります」
「ん」




 小奇麗にされたトイレで用を足すのも初めは気が引けていたが、今ではもうお手の物になっている。用を足し終え、そのままソファに沈み込む。聞こえているかも定かではない音量で垂れ流されているドラマは間もなく佳境を迎えようとしている。制服姿の傷だらけの青年が病院のベッドに座り、患者着を着た男がその子の足を洗っている。ほとんど声が聞こえず、台詞回しが少ないシーンのようで、何がどうなっているのかはこれまでを見ていないので分かりかねる。青年が切なげな瞳で喉から声を絞り出す。もう来ない方が良いかと、患者着を着た男に尋ねる。男は何も言えずにただ涙を流す。エンドロールを迎えたところでミンソクさんからお呼びがかかる。

 すん、と鼻を鳴らすと、鼻腔いっぱいに淹れたての珈琲の香りが駆け抜ける。牛乳と砂糖多めのカフェオレが、いつの間にか専用になったマグカップに並々と入っている。ミンソクさんはブラック派。箱から取り出したカットケーキをお皿に分けると、大きめの方を渡してくれた。いただきます。挨拶が同時になり、へへへと笑う。大きな一口を含んだところを見送ったあと、自分もフォークで一口大ほど取り、口に含む。疲れている時ほど甘いものを食べたくなる衝動に、名前は無いのだろうか。口内全体に広がる甘味が脳内までも侵していき、自然と表情が緩む。お手製のカフェオレを口に含むと、これまた程よい口触り。思わず率直な感想が口から出る。




「…美味しい」
「ケーキが?」
「カフェオレが」
「ケーキも美味いよ。ありがとな」
「安物ですけど」
「それは言わんでいい」




 ケーキを綺麗に平らげ、食後のカフェオレを口に含む。はあ。ため息を吐くと、ミンソクさんが心配そうにどうかしたのかと問う。何でもないです、言いかけて辞める。言ったところで全てを見透かされているので、意味がない。そこで洗いざらい大学でのことや、悩みのダンスのことを打ち明けた。すると、ミンソクさんもダンスをやっていたことが判明。同じように悩んだ時期のことを話して聞かせてくれた。

 悩んだ時には好きな物を好きなだけ食べたり、友人と何気ない会話を交わしたり、ダンスから少しだけ離れてみて、自分の好きなことをやっていられるうちが一番楽しい時間だと思うようになったのだという。それからあまり悩まなくなり、好きなことと十分向き合えるようになったのだと慈しむような瞳で言っていた。今でも続けてはいるらしく甲斐甲斐しく踊りだそうとするので、歳なのに大丈夫かと揶揄するとあからさまに不機嫌そうになる。取り繕うように笑って見せて、慌てて機嫌を取る。お前なあ。ミンソクさんが笑い混じりに零した言葉に、心臓が高鳴った。平然を装って、言葉を続けた。




「いつか、見せてくださいよ」
「おう。いつかな」




 マグカップに入ったカフェオレの最後の一口を勢いよく飲み干し、その場から逃げるようにして部屋を出た。もたつきながら自室の鍵を開け、急いで扉を閉めた後、ずるずると扉を背にしてその場にへたり込む。頬が熱い。火照る頬を両手で仰ぎながら思い出していたのは、お隣さんの笑顔だった。


 どうやら、恋を、してしまったようだ。




→End...?