Flat or Falt.

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Baby my heart beats for U

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DとBとL




 最年長と最年少、それぞれ二人ずつ出払った宿舎は嫌に静閑としていて、残った者たちはそれぞれ部屋に引っこんでいる。べたべたとメモが貼られた冷蔵庫を前にして、思わず「おなかすいた」と漏らすと、丁度部屋から姿を現したベッキョンが「俺も」と同調した。互いに顔を見合って、笑った。

 冷蔵庫の中身も部屋のなかと同じように静閑としていて、夜食を作ろうにも食材が足りなさすぎる。仕方がないと冷蔵庫を閉じ、ベッキョンを見やる。言いたいことが伝わったようで、部屋から上着を取ってくるといって廊下の方へ引き返していった。自分も上着を取りに行こうと部屋へ向かう道すがら、レイヒョンの部屋から作曲作業の音が聞こえてきた。指一本分開いた扉の隙間から流れてくる、兄特有の滑らかなメロディラインに耳を欹てる。いつ聞いても良い曲を作るなあ。感心しながら部屋へ行き、適当な上着を羽織る。

 部屋を出ると、丁度のタイミングで向かいの部屋からベッキョンが姿を現す。互いにルームメイトが居らず、多少の物足りなさを感じていた。にこりと見合って玄関へ向かう。運動靴に片方足を突っ込んだところで、ベッキョンが「レイヒョンも誘おう」と持ち掛ける。その誘いを二つ返事で受け入れ、勧誘を彼に任せる。

 兄の部屋の前までスキップをして行ったベッキョンは、扉の中央部分をごつごつと無遠慮に叩く。中で作曲作業をしていることを知っての行動なのかはさて置き、もう少しやり方は無かったのかと小首を傾げる。初めから薄らと開いていた扉は、無遠慮に叩かれたことで半分ほど開いていた。それでも作曲作業に集中している兄の耳に、先のノックの音は届いていないようで反応が返ってこない。それを言い訳にするつもりなのかは知らないが、久しぶりのゆったりとした夜の時間に期待を抱きまくっているベッキョンは、大きめの声で部屋の中に向けて誘い文句を吐いた。

 某人気アニメ映画張りの誘い文句を、ベッキョンは流石の音程で歌いのける。流石に反応を見せたようで、部屋の奥から一際大きい物音が聞こえてくる。その直後にベッキョンが腹を抱えて笑い始めたところを見る限り、差し詰めレイヒョンが座っていた椅子からずり落ちたのだろう。ぶちぶちと小言を言う兄を笑い混じりに宥めながら買い出しに誘い、やっとのことで部屋を出てきた時には兄もベッキョンと共に笑っていた。着たばかりのコートが既に肩からずり落ちかけている兄の肩は、自分よりも幾分か広かったはずだ。




「…あ、ギョンスも行くの?」
「冷蔵庫に何もないので」




 確かそうだったね。語尾が腑抜けのように間延びしているのが、レイヒョン特有の喋り方である。初めは慣れるまでに多少なり時間が掛かったが、彼の人となりを見ると喋り方の緩さも納得がいく。もう片方の運動靴に足を通していると、背後からベッキョンが急かす。小さく舌打ちをすると、茶化すような笑い声が聞こえる。それが気まずい時の彼なりの流し方なのだと、付き合いの中で感づいていた。

 すっかり冬化粧の済んだ夜の街を歩くのはかなりの覚悟がいる。近くのスーパーまでは、歩いて十分ほど。普段であれば散歩を楽しむ十分という時間も、こうして誰かと共だって歩くだけで実際楽しいと思えるようになったのは最近だ。半歩前を歩きながら談笑を交わす二人の背中に視線を送りながら、不意に感じた既視感を抑え込むようにニットの胸辺りを掴む。そうしたところで既視感の葬り場所は見つからず、そっと心の奥底に仕舞い込む。

 スーパーへ向かう道すがら、互いに何を食べたいか案を出していく。レイヒョンのスマートフォンで時間を確認すると、既に夜が過ぎて深夜になっていた。今から買い物を済ませてキッチンに立つ気力は無く、出来合いのものを購入することで意見が固まった。煌々と地面を照らす店内の光に導かれるように自動ドアを通り過ぎ、店のなかへと入っていく。一番初めに向かったのはカップ麺売り場。出来合いのものとは言ったが、三人の中で行き着いた考えはそれしか無かった。数あるカップ麺の種類を吟味していると、レイヒョンが唐突に声を出して笑い始めた。




「なに、突然」
「ん~?楽しいなあって。確か、前もこんなことなかったっけ」
「ありましたっけ」
「あ!思い出した」




 カップ麺の陳列棚を舐めまわすように見ていたベッキョンが勢いよくとこちらを振り向き、思い出したと大きな声で放った時には反射的に手が出てしまった。見事、鳩尾にクリーンヒット。苦しそうに咳こむベッキョンの背中をレイヒョンが優しく摩る。息を整え終えたベッキョンが、放った言葉の続きを口にし始めた。

 あれは確か、年末だか年明けのオフの日。その日も今の三人と中華組が宿舎に残っていた時の事。タオが唐突に、月餅が食べたいだの火鍋が食べたいだの、自身が生まれ育った国の料理が食べたいと騒ぎ立てた。その様子を見ていた誰かが、「そりゃ無理だろ」と言い放った瞬間、タオがはらはらと涙を流し始めたのだ。言われて思い出したが、その時も自分のある一言が発端だった。とうとう声を上げて泣き始めたタオのフォローに入った長身の兄にとばっちりが行き、喧嘩に発展。長身の兄が珍しく表立った怒りを露わにしている姿を見たのは、それが最初で最後だった。

 あれはマジ笑えた。ベッキョンが最後に放った言葉に、レイヒョンがそうだねと言って笑う。兄もその時のことを思い出したのか、優しい表情をしている。誰が誰のフォローに入ったかまでの話になり、自分が長身の兄のフォロー役だったことを思い出す。珍しく怒りを露わにしている兄の対処にもたついていると、数秒前まで泣いていたはずのタオが途端に笑顔になって長身の兄に笑いかけた。すると兄は、見る見るうちに眉間に寄せた皺を消したのだ。その二人の空気感を目の当たりにして、自分の無力さと無知さに反吐が出たのまで思い出して少し腹が立った。そんな自分のフォロー役に回されたのが他でもない、いま目の前で馬鹿笑いをしているベッキョンだったのだ。

 レイヒョンは誰のフォローしたんでしたっけ。馬鹿笑いを終えたベッキョンがそう持ち掛けると、レイヒョンはにこりと微笑んで「ルハン」と口にした。兄の母国の言葉に近い発音だった為か、一瞬の間が空く。理解を得たところで出てきた言葉は、「それは大変ですね」という兄を労う言葉だったことに、何より自分が一番驚いた。先の言葉を口にしてしまってから、不味いと口を覆う。するとレイヒョンは眉尻を下げ、「そうでもなかったよ」と微笑んだ。美形の兄とレイヒョンの仲が良かったことなど知り得ていたことだったのに、そのことに対して思慮が行き届かなかったことに申し訳なさが先立った。




「ねえ、辛ラーメンでいい?」
「この際なんでもいいや」
「僕も」




 思い出話がここまで花咲くとは思わず、スマートフォンで時間を確認すると既に深夜二時を回っていた。ベッキョンが、辛ラーメンを三つ器用に重ねてバランスを保ったままレジへと向かう。会計資金はスホヒョンから事前に食事代として受け取っていた封筒から拝借。手に握りしめている感触からすると、かなりの額が入っている。気にしなくても良いと進言はしたが聞き入れては貰えなかった。そんな強情な兄は、大嫌いと豪語している寒い国に仕事に行っている。空港について早々に泣き言のようなメッセージが届いた時には、思わず声をだして笑ってしまった。

 会計を済ませたベッキョンが、店員の女性(わりと歳がいってそう)に「ありがと、お姉さん」と、辛ラーメンが入っている袋を受け取っていた。天然タラシ。吐き捨てるように言うと、隣に立っていたレイヒョンが手を叩いて楽しそうに笑い始めた。

 帰り道も想い出話に花を咲かせ、笑いあう。レイヒョンの手には、見知らぬ黒いビニール袋が握られていた。それはなんですか。声を掛けようとして辞める。言わずもがな、袋の中から漂う香りが中身の正体を教えてくれていた。優しい人。心の中で唱えた言葉は、長身の兄に向けて口にしたかった言葉だった。

 宿舎について早々に、行く前は眠っていたはずのタオが部屋から飛び出して来た。さてはとレイヒョンの方を振り向くと、「連絡しておいた」と言うようにスマートフォン片手にニコリと兄は微笑んだ。先に手を洗い終えてキッチンに立っていたベッキョンは、鍋に適量の水道水を入れて火にかけていた。仕事の早い男。支度を終えてリビングへ行くと、レイヒョンが持っていた黒いビニールを今度はタオが嬉しそうに抱えていた。中身は予想していた通りのもので、タオはほくほく顔でレイヒョンに感謝を述べている。八月でもあるまいし、どこで買ったんですか。レイヒョンにそう問いかけると、兄は唇に人差指を突き立て「内緒」と呟いた。その姿は、美形の兄がよくやる癖のような仕草に似ていた。

 食卓に並んだ、三人前の辛ラーメンが入った鍋と透明のパックに二つずつ詰められた四つの月餅。あの時と同じだね。呟いたのは、タオだった。




→End

CとDとT



 番組収録で自国より寒い国へ赴くことになり、服装選びに追われる。適当に選べばいいじゃん。ベクヒョンの適当な助言は無視し、クローゼットの中身を吟味。中にシャツを着て上にニットでも良いのだが、程よいニットが見つからない。どうしたものかと腕を組んで唸っていると、ベッドヘッドに腰かけているギョンスが大きく咳払い。気が付かぬうちに唸り声が大きくなっていたようで、彼の耳障りになったのだろう。顔だけ振り向いて謝罪を述べ、またクローゼットの中身を吟味。

 暫く洋服を出したり入れたりを繰り返していると、ギョンスがベッドからいつの間にか姿を消していた。読書の邪魔をしたのかとも思ったが、彼も同じ飛行機に乗るはずなので準備に行ったのだろうと仮定した。

 衣装ケースの奥底に仕舞い込まれていたグレーのケーブルニットを取り出し、身体に合わせてみると肩幅が若干自分よりも狭い。気が付かず小さいサイズを買っていたのだろうかと、さして気にも留めずにそのまま丸め、ハンガーに掛かっている青いシャツと共にスーツケースの方へ投げる。靴下も同じ要領でスーツケースの方を見ずに投げると、背後から「ちょっと」という呆れが混じったような声が聞こえてきた。それは確かに、先ほどまでベッドの上で読書をしていた人物の声だった。




「あ、ごめん。当たった?」
「別にあたってない。…ちゃんと入れなよ」
「後で整理して入れるよ。とりあえず全部出してみてるだけ」




 これ。そう小さく呟いたギョンスが、スーツケースの上でぐしゃりと丸まっているグレーのケーブルニットを指さして、ぎゅうっと眉間にしわを寄せる。その顔は普段から別段何が無くてもする表情で、気にも留めずに荷造りの続きを再開。

 ギョンスが小さく、「これあの人のだ」と呟く声が耳に届いてきた。彼が”あの人”と言い表す人物は、一人しか思い浮かばない。そう言えば、肩の部分が少しだけ広かったのはそういうことだったのかと、密かに納得がいった。

 スーツケースの横ちょこんと座りこんだギョンスを見やり、声を掛けようかどうしようか迷う。適当な言葉も見つからぬまま、しゃがみ込んだ姿を見つめる。一度も着られた形跡のないグレーのケーブルニットを、ギョンスは二本の指で摘み上げ、「これ本当に着るの?」とぶっきらぼうに言い放つ。そうだけど。努めて冷静に言葉を返し、クローゼットの中からアーガイル柄の靴下を取り出す。彼のいる方へ放ると、落下地点を計算した彼が見事に靴下を掴みとる。そのまま開きっぱなしのスーツケースの中に、無遠慮に投げ入れた。衣装ケースの二段目から深緑色のセーターを取り出す。




「着たら悪いの」
「似合わない」
「おい」




 はは。乾いた笑いを浮かべ、ギョンスは摘まんでいたケーブルニットから指を離す。彼の言いたいことが今一分からず、思わず唸り声が喉から出てきた。ギョンスの言う”あの人”のかつての私物を身に纏うことで、彼にどういった影響が及ぶのか。そういうことに関しては比較的思慮に欠ける為、良い返しが欠片も浮かんでこない。

 悶々とした空気が流れる部屋の外で突然、タオの慌てた声が聞こえてきた。半分開いた部屋の扉の隙間から、飴玉らしき橙色の球が一つ転がっているのが見えた。大方、タオがキャンディの袋を開けるのに失敗してぶちまけたのだろう。やれやれ。膝に手を置いて立ち上がり、事態の収拾へ向かう。

 部屋の扉を開け放つと、色とりどりの飴玉が詰まったガラス瓶を抱えたタオが廊下で、先に転がっていった橙色の飴玉を追っていた。一つ追おうとすると、また一つ。ガラス瓶の中から、飴玉が転がり落ちた。まず先にガラス瓶をどうにかせねばと、タオに瓶の蓋を閉めるよう促す。あ、そっか。あっけらかんとした様子で、手にしていた瓶の蓋を閉める。その間に、瓶から毀れ落ちて転がっていた、黄色と青色と橙色をした飴玉三つを拾い集める。掌の中で香りが混ざり合って甘ったるい香りを主張するそれらを、タオが抱えているガラス瓶の中に戻す。溢れ返りそうなほどに飴玉が詰め込まれたガラス瓶を大切そうに抱えるタオは、嬉しそうにその頬を緩めている。

 それどうしたの。先に口を開いたのは部屋にいたはずのギョンスで、その問いに対してタオは、置いてあったのと答える。ファンからの贈り物だろうか。そう思っていると、タオが言葉を続けた。




「クローゼットの奥にね。隠してあるようにして、置いてあったの」
「賞味期限は」
「今月中」
「早く食べないと」
「みんなで食べようと思って出したら、転がってっちゃった」




 うふふ。ほくそ笑む弟の幸せそうな笑みの背景に、飴玉が好きだったかつての兄の姿を見つけた。飴玉が詰まったガラス瓶を置いていく人物など、一人しか思い浮かばない。芋づる式に脳裏に浮かぶ、グレーのケーブルニット。着ている姿を想像し、流石似合っているなと感心。




「それ置いてった人って、」
「あの人だよね」
「うん」




 せーの。声を合わせて出てきた名前は一致していて、三人で顔を見合って笑う。笑った衝撃で、タオが抱えたガラス瓶の中で飴玉がぶつかり合って音が鳴る。タオがガラス瓶の蓋をそっと開け、ギョンスの手に、黄色の飴玉。俺の手の上に、青色を乗せた。自身の手の上に、橙色の飴玉を乗せた。「こうして並べると綺麗だね」。彼の嫌に飾り気のない言葉が、すぅと体内に浸透していく。それはギョンスも同じだったようで、彼の顔には自然と笑みが毀れていた。せーの。タオの掛け声に合わせ、一斉に飴玉を口に放る。

 ケーブルニットの持ち主とは、あまり意識して言葉を交わしたことは無かった。飴玉の詰まったガラス瓶を隠し置いていった人物とは、隣り合っていることが多かった。二人とも、ガラス瓶に詰まった飴玉のようにきらきらと光る瞳を持っていた。飴玉を置いていった兄と二人でした、こそばゆい飴玉のように甘い話。他の兄や弟たちの知らない、自分だけが知っている話。自分が知らない、ギョンスとタオしか知らない話もあるだろう。口の中で飴玉を転がしながら、秘密を共有するのも楽しそうだ。

 話しきれなかった、終わってない話。いつか、あの兄と交わせると、信じている。



 黄色と青と橙色の飴玉だけが知る、話。




→Fin




「夕飯、何たべたいか考えといて」
「うぃ」



 同居人とそんな会話を交わしてから早数時間は経っているが、一向に良い夕飯のメニューが浮かばない。大学の午前中の講義は全く耳に入ってこず、うわの空で夕飯のメニューを考えていた。昼食を食べながら夕飯のメニューを考えているのも疑問ばかりが浮かぶが、そうでもして答えを導きださなければ、苦手なものばかりを食卓に並べられてしまう危険性がある。胡瓜のサラダ、胡瓜だらけのジャージャー麺。それだけは勘弁。昼食のカレーの最後の一匙を口に放り込み、午後の講義へ向かった。

 午後の講義もそれこそ集中力に欠け、腹が満たされたことで程よい眠気が襲う。一眠りでもすれば良い案が浮かぶだろうという安易な考えを導き出し、机に突っ伏しそのまま瞳を閉じた。



「……おい、ベッキョナ」
「…んー…あと、2ふん…」
「起きろ」
「いてっ」



 叩かれた後頭部を摩りながら頭を上げると、ふて腐れたような表情をしている友人のジョンデが横立っていた。さわり部分だけの覚えがある講義はとっくに終わっていたようで、教室からは生徒全員が出払っていた。道理で静かなわけだ。大きく欠伸をしてから、机の上に散在している自分のものを鞄に順に入れていく。最後に筆箱を入れたところでジョンデに「今日の夕飯何がいい」と突拍子もなく話しかけると、ジョンデはわざと大きくため息を吐いた。



「お前もしかして今日ずっとそれ考えてたの」
「うん。チャニョルが考えとけって」
「なんでもいいじゃん」
「なんでも良いって言ったらそれこそ胡瓜丸ごと一本しか出してもらえねえわ」


 大口開けて笑い始めたジョンデの脇腹に一発お見舞いして椅子から立ち上がり、講義室を後にした。

 行きつけのカフェで冷たいカフェラテを煽りながら夕飯のメニューの考えを浮かべる。大学で昼食中に食堂のメニュー表を参考にしたが、選択肢が肉か魚しかなかった。この際サーロインステーキでもいいのだが、チャニョルが買ってくる肉が安物で味がそこそこにしかならない。率直な感想を彼に伝えると、二度と肉料理が食卓に上がらなくなってしまう。それだけはまず避けたい。

 隣で冷たいカフェオレをストローでずこずこ啜っているジョンデはタブレットと真剣に対峙中。そのカフェオレの味が気に食わないのかぶちぶち文句は言っているが、律儀に最後まで飲み干している。今日は彼も同じ食卓を囲むはずなのだが、その食卓に並ぶ料理のメニューについては全く協力の色をみせようとしない。じっとりとした視線を送っていると、ジョンデがゆっくりと顔を上げた。



「ねえ、ジョンデは何食べたいの」
「なんでもいいって言ったじゃん」
「…お前もうほんと食卓に呼ばねえぞ」
「いいよ、別に」



 またもや不貞腐れたように唇を突き出してタブレットに視線を落とす。ストローを銜えはじめたところを見ると、もう発言する気はないようだ。カフェラテを啜りながら、タブレットを尻ポケットから取り出して料理サイトを巡る。魚料理、肉料理、パスタ。どれも心に響くメニューではなく仕方なくサイトを閉じた。ずこ、っと一際大きな音が隣から聞こえてくると、どうやらジョンデがカフェオレを飲み干したらしい。底ついたことに気が付いたジョンデは舌打ちをすると椅子から立ち上がり、空になったドリンクカップをゴミ箱に放り込んだ。そのまま席に戻ってくるのかと思いきやレジへと向かい、又もやアイスカフェオレを注文。ジョンデは立派な、カフェイン中毒だ。

 結局のところ夕飯のメニューは決まっていない。仕方なしに帰路に立ち始めたが、足取りは酷く重い。このままでは確実的に胡瓜だらけの料理が食卓に並ぶことになる。どうにかこうにか思考を巡らせてみても、頭の片隅からサーロインステーキと先ほどまで煽っていたカフェラテが消えない。チャニョルからは催促のようにメッセージが送られてきていたが、徹底的に無視を決め込んでいる。それこそ今頭に浮かんでいるサーロインステーキなぞ発言しようものならば、締め出しを食らうに決まっている。夕飯をくいっぱぐれることだけはどうしても避けたい。助言を頼もうにも、こちらの気などお構いなしにジョンデはすっかりタブレット中毒になっている。きっとそうだ、ゲームでもしているのだろう。



「ジョンデ」
「…なにー」
「ほんとまじで助けて」
「なにをー」
「だからさー…」
「じゃあ俺が作ろうか?」



 突然の申し出に自然と足が止まる。そんな俺に気が付いていないジョンデは先を行く。待って、と声をかけるとゆっくりと振り返る。そんな優しさはあるくせに、一緒に考えるという優しさは無いんだなと率直に思う。



「ゲームばっかしてるくせに作れんのかよ」
「チャニョルに夕飯作んなくていいって言っといて」
「…はいはい」
「あと、買い物するからスーパー寄るよ」
「…はいはい」



 自宅近くのスーパーへ赴くと、丁度夕飯前の買い物時ということもあってか人がごった返している。仕事帰りの疲れ切っている人、お菓子売り場に張り付く子ども、メモを見ながら頼まれた買い物をする人。この中に夕飯のメニューを朝から悩んでいる人はどれだけいるだろう。考えようとしてやめた。買い物かごを持って一人すたすたと前を歩くジョンデの後ろをついて歩きながら、これは家の冷蔵庫にあった、これは残り少なかったから買っておこうと手にする。手にしたものを買い物かごに入れると、そのたびにジョンデが返却を促すものが幾つかあった。家主よりも我が家の冷蔵庫事情を知っている。最後にボトルの珈琲を一本と大きい牛乳パック二本をかごに入れると、ジョンデはレジへと向かっていった。この、カフェイン中毒め。先行く背中に、その言葉を無声音で投げつけた。何かを感じたのかジョンデが背中を掻いた。面白い。



「ねえ、なに作んの」
「秘密」
「って、パスタのパッケージ見えてるけど」
「うるさいなあ。ま、お楽しみってことで」



 チャニョルに、夕飯づくりをしなくても良いこととジョンデが夕飯を作ることをメッセージで伝えると、「なにそれ面白い」という返信が来た。そのメッセージ画面を見せると、ジョンデは「なにそれ」と少し怒ったような声色を発した。スーパーの袋ぱんぱんに詰め込まれた食材を見ながら、夕飯のメニューを想像するのが一番の楽しみだった。片手ずつ分担して袋を持つ。俺は右手、ジョンデは左手。空いた右手でタブレットを握っているゲーマーは、黙したまま画面にくぎ付けになっている。その横顔はとても浮かれていて、鼻歌まで口ずさんでいる。心地よい、音色だ。その音色に合わせ、でたらめに歌詞を合わせる。この坂を下れば家はもうすぐそこだ。

 坂の向こうに沈む太陽が、真っ赤に輝いていた。



→Fin.
SとCとK




「クリスヒョンに怒られた~」

あの兄が怒っているところを見たことがない僕は、兄たちのその言葉が信じられなかった。人前だろうがなんだろうが怒りの感情を滅多に表に出さない兄が、他の兄たちを注意しているらしい。今思うと僕は、それが羨ましかったのだ。

 最近始めたばかりのSNSのアカウント名を見つめて思う。このアカウント名を決めた時の僕はきっと、この関係性が永遠に続いていくものだと信じて疑わなかった。今にして思う。
綺麗に羅列された12人の頭文字。ハイフンを挟んでシンメトリーに並んでいた、英字。大好きだった、6個ずつの文字。



「…セフナ?どうした、ずっと画面見つめて」
「ねえ、ジョンデヒョン」
「ん?」
「変わらないものって、この世には無いんですか」
「…ん~、一概に無いとは言い切れないけど、あるとも言い切れないね。セフナはどう思うの」
「僕は、」



 何かを、切り捨てることが当たり前だと思っていた。
一々、あの兄のことを思い出しながら生きていたらたぶん、悲しいだけだとわかっている。何かを切り捨ててでも前に進まなきゃっていうのも、わかっている。
注意をしても貰えなかったこと、他愛ない会話すら出来なかったこと。今でも、思う。兄と僕は、近くて遠すぎる存在だったのだと。



「ねえ、セフナ」
「なんですか」
「俺のね、ばあちゃんの受け売りなんだけど、さよならだと思えばみんな愛しくなるんだって」


 さみしくて、愛しくて、さよならのまえには、みんなに優しくしてあげたいと思える。


「さよならだと、思えそう?」



 綺麗に羅列された、12個の文字をみて思う。
大人になれば、発生する仕方のない様々な矛盾を自然と受け入れられるのだと思っていた。手放すことも、切り捨てることも簡単にできるようになるのだと。ジョンデヒョンは笑顔で、矛盾だろうがなんだろうが自然に受け入れることが出来る。そういう大人に、自然となれるのだと信じていた。

 あの兄が求めていた世界がここではなかったのだと、認めてしまえば簡単だ。彼は大人だから、簡単に切り捨てることが出来たのだと。けれど、本当にそうなのだとして、今まで積み上げてきたものを大人は簡単に手放したり切り捨てたりすることが出来るのは、酷く物悲しいことだと思った。



「…セフナ」
「…さよなら、なんてすることは無いと、…思っていたんですけどね」
「それは誰だって同じじゃない?直前まで同じ舞台の上で唄って、踊って、笑っていたんだから。こうなることが分かっていたのはあの人だけだろうね」
「ヒョンは、あの人に注意されたことってありますか」
「あるよ。注意というか…指導?みたいなことはあったよ」



 タオが、言っていた。

『返して、あげたいんだ』と。



『返して、あげたいんだ。
自分がそうしてもらえたように。救われた、ように。教わった、ように。

教えたいし、伝えたいんだ。今度こそ。

世界に。
ちっぽけだけど、この優しい世界に、独りぼっちだと思わないように。』


 それこそ、タオヒョンはヒョンなりにさよならをしていた訳だ。
僕はタオヒョンのように感情が豊かな方では無いし、口下手で語彙も少ない。考え方も違うので、愛しい思い出にすることが上手くできない。ヒョンはきっと、手放すとか切り捨てるとかそういう次元の話ではなくて、ジョンデヒョンのお祖母様の言葉通り、さよならだと思って愛しいと感じたのだ。

 さよならをすれば自ずと悲しくて悔しくて嫌いになるはずだと、幼い頃は思っていた。大人と言われる歳になった今、あの兄のことを嫌いになったかと聞かれればそうではない。
羅列された文字の中に確かに存在していたあの人の面影を思い出しながら、過ぎ去ってしまった過去と見つめるべき今を慈しむ。

 でもさ、セフナ。
いつもの笑顔で口を割るジョンデヒョンは、どうやってあの兄とさよならをしたのだろうか。僕は考えが至らないことが多く、兄たちの感情を汲み取れないことが多かった。感情に折り合いをつけるのが、一番苦手だった。



「切り捨てたものを全部拾い上げることが嬉しいだとか、切り捨てることが冷たいだとか。
そんなことは実際、どうでもいいんだよ。

ただ、例えば…。
どん底に落ちてどうしたらいいかわからなくて、置いていかれて、苦しくて、そんな自分が一番許せなくて。

ただ、自分が仕方なく切り捨てたものを見つけてもらえたり、拾い上げてもらえたら、きっと嬉しい。
俺はね、すごく嬉しかった。スホヒョンやミンソギヒョンに拾い上げて貰えたこと。

セフナもいつか、その気持ちが分かる時が来るよ。」



 僕に足りなかったこと、兄に足りなかったこと。
兄との最後になってしまったあのやり取りを思い出すと、心から少しだけ優しさが芽生えた。

 あの時の兄は、輪になってはしゃいでいる兄たちやその兄たちを優しい眼差しで見つめる兄たちを慈しむように見つめていた。僕はその隣に立って、兄の目線で兄の思考を汲み取ろうとしていた。


「…なあ、セフン」
「なんですか」
「頼りない兄ですまなかった。あいつらを、これからもよろしくな」


 「あいつら」の中に、クリスヒョン自身が含まれていないことは、薄々気が付いていた。兄は頼りないと自分のことを表現したけれど、僕が兄を頼ったことなど無いに等しかった。


すまない。
よろしく。
笑顔でいて。

 その言葉は枷のように、僕を縛った。

ありがとう。
さよなら。
お元気で。

 僕に許された発言権は、それだけだった。

『セフナ、お前の笑顔…太陽みたいだな。それで、兄たちを照らしてやってくれ』

 兄がくれたその言葉が、なけなしの愛情だったのだと。気が付くには、時が流れ過ぎていた。



「わかりにくいよ、バカひょん…」


 大好きだった、文字の羅列。綺麗に並んだ、12個の文字。


「ジョンデヒョン」
「ん?」
「僕は、ヒョンみたいに優しくなれるかな」
「なにいきなり…お前は優しいよ?とっても。毎晩お祈りしてくれてるって言ってたじゃん」
「あれは、」
「優しいとこ、クリスヒョンもすきって言ってたよ」



 突然消えたこと、さみしかった。兄とのやり取りが、愛しくて。やっと、優しくなれたよ。
一つ、一つ。文字を消す。度に兄の優しかった笑顔がちらつく。兄は僕の笑顔を太陽のようだと言ったけれど、僕はその時言いたかったことを言えなかったんだ。消せない、3番目のkの文字。



「手伝う?」
「……いい、僕がやる」


 突然いなくなったことを責めたてるつもりもなければ、SNS上でのフォローを解除したことを弁明するつもりもない。僕たちはきっともう同じ立場で出会うことをは許されないだろうけれど、いつかは、いつかは


「…消せた?」
「っ、…、」


 いつかは、ヒョンのことを胸張って、『とても、良い兄でした』と、言える日が来ることを願っている。その日まで、僕たちは進み続けるしかない。少しだけ不格好でアシンメトリーな、11人、で。
やっと消すことができた、大好きだった12個の文字。涙で滲んだ視界の隅で、ジョンデヒョンが微笑んでいる。



「消せた?」
「…うん」
「一思いには、いけなかったね」
「うん」
「嫌いになった?」
「…ううん」
「そっか」
「嫌いになれるほど、あの人のことを知らないから」
「…そっか」
「ねえ、」
「ん?」
「あの人のアドレス、教えて」
「いいけど。届くかわかんないよ」
「いいです。僕の決意表明だから」
「そ。はい」



 あの人のアドレスを打ち込む速さは、あの文字を消している時よりも格段に素早い。未熟な僕の、決意表明。届くやも知れぬけれど、送ることに意義を見出したい。



「…よし」
「できた?」
「うん」
「送れた?」
「…たぶん」
「届くといいね、セフンの声」
「ヒョンの声も」
「俺はいいよ。……きらわれてるから」
「そんなことないですよ。あの人、ジョンデヒョンのこと褒めちぎってました」
「うっそだ~」
「ほんとですって」
「冗談やめろよ~」
「冗談なんかじゃ、…ひょん?」
「…な、っんでもない」



 ジョンデヒョンが強いと、簡単に決別できたのだと決めつけたのは誰?実際、あの人はヒョンのことを褒めちぎっていた。笑顔のこと、歌のこと、語学のことも。努力の天才だと。陰からいつも見守るだけだった兄の、いつもの褒め方。



「ヒョンも決意表明、送りますか?」
「俺はいいよ。いつか偶然会った時のためにとっておく」



誰もが、いつかは、と願い。
誰もが、会えたら、と言い。

引き返せない、道を歩く。



「なんて送ったの」
「秘密、です」



 そうかぁ、笑うジョンデヒョンの顔はあの人が褒めていた笑顔だった。新しい文字の羅列を眺めてあの人のことを思い出すと、ちょっぴり優しい気持ちでいられた。




『ヒョン。愛してくれて、ありがとう。

またいつか、お元気で』



→Fin.
KとX





 高校二年。彼が転校してきたのは、年が明けた二月の寒い時期だったと思う。教室の入口扉から痩躯を折り曲げて入って来たのを初めて見たとき、この世の中で教室の入口扉よりも背の高い人間が居たのかと感嘆したのを今でも覚えている。姿を現した男子生徒の髪は、根元から見事なまでに綺麗な金色に染まっていた。眠たそうな垂れ目は半分ほどしか開いておらず、その焦点はどこにも合っていなかった。それも、鮮明に記憶のなかに残されている。

 高校三年。彼とはクラスが分かれ、気が付けば数か月ほど口を聞いていない。校内でも出会う回数がぐっと減り、進級した頃ほど気にかけなくなっていった。初夏も過ぎ、本格的な夏の足音がもうそこまで聞こえている季節になり、クラスのなかでもグループがはっきりと分かれてきていた。その中でも特にこれといったグループには属せずに過ごしているが、それなりにクラスメイトとは会話が弾んでいる。初めのころはお互いを知ろうと躍起になっていたりもしたが、今では時期的にも進学のことが話題に上がる。大学に進む気はあるが、具体的に何がしたいかは未だに決まっていない。

 二限終わりの中休み。その日は珍しい来客が、教室を訪ねてやってきた。後ろを振り返ってクラスメイトと談笑を交わしていると、教室の入り口辺りから名前を呼ぶ声が聞こえてきた。何事かと振り向くと、教室の入り口に見覚えのある金色の毛並みをした男が立っていた。いつみても綺麗だよなあ、と感心していると、もう一度呼ばれる。談笑を交わしていた相手に会話が中断したことへの断りをいれ、入口へと向かう。心なしか、教室内が静かに騒めきだしていた。

 仲介役のクラスメイトに礼を述べると、そいつは如何にも訝しむ視線をこちらに寄越すとそそくさと廊下に出ていった。目の前に立つ痩躯の男はと言えば、入り口よりも高い背を屈ませて申し訳なさそうに口を開く。久しぶりに聴く彼の声は、数か月前と変わらぬ浮遊感を漂わせていた。何か用かと優しく問えば、途端に口の端を持ち上げてやんわり笑う。身体の大きさに似合わない小さな唇が開き、一言。生物の教科書、貸してくれ。と、口にした。何も言葉を返さぬまま席へ戻って机の中から生物の教科書を取り出し、入り口を塞ぐように突っ立っている彼に手にした教科書を差し出す。




「ありがとう、助かる」
「ん。もう予鈴が鳴るぞ」
「あぁ。昼に返しに来るから」
「分かった」




 猫背気味の背中を見送ってから席へと戻り、ふぅと息を吐く。すると、先ほどまで談笑を交わしていたクラスメイトが背中を突く。聞かれることはだいたい予想がついていたが、ゆっくりと振り返る。「あの子と仲良かったの?」。脳内で同時再生される、自分の声とクラスメイトの声。言い出しから終わりまでぴたりと一致していて、思わず笑いが漏れる。笑い混じりに、二年の時同じクラスだったんだと答えると、納得がいっていないような表情で小さく首を縦に振った。周りのクラスメイトたちが耳を傾けていることにも気が付いていたし、中には去年同じクラスだった者もいる。人間というのは、他人の個人情報を常に知りたがる。それを知ったところで、何が楽しいのかが自分には分からないのだけれど。

 昼休み。いつも通り学食に向かおうとするクラスメイトについて教室を出ようとした時、来訪者が自分の名を呼んだ。入り口には、先ほど教科書を借りに来た人物。律儀なやつ。心の内で苦笑し、差し出された教科書を受け取る。先に教室を出ていたクラスメイトから、急かすように大声で呼ばれている事に気が付いて後を追おうと、身体をそちらの方向に向ける。走り出そうとした刹那、腕を掴まれて引き戻される。腕を掴んでいる逆の手に握られていたパッケージがピンク色の飲み物を無言で差し出され、突然の行動に戸惑いを隠せなくなる。どうしたのそれ。若干震える声でそう尋ねると、彼は一言。「お礼」と告げ、パッケージがピンク色の飲み物を俺の手に握らせた。それで満足したようで、彼は教室を去っていった。遠くでは、大声で名前を何度も呼ばれていた。

 数日後。教室に忘れ物をして取りに戻る道すがら、大きい背中が中庭の水道の前で何かを洗い流している姿が目に留まる。そいつの髪色はこれまた綺麗な金色に染まっていて、一目で彼だということが分かった。そうしているうちに本鈴が鳴り、遅刻が確定された。その瞬間、教室まで取りに戻る労力が消えうせ、足は自然と彼のいる中庭に向かっていた。

 おい。大きい背中に声を掛けるが、耳に届いていないのか振り向かない。流れる水の音でかき消されたのだろうかと、先ほどよりも大きい声で言葉を掛ける。今度は耳に届いたようで、酷くもったりとした様子でこちらを振り向いた。きゅっと水道の蛇口を閉め、水の流れを止める。その手には、Tシャツと思われる白い布が握りしめられていた。




「どうした、それ」
「使おうと思ったら汚れてて」




 言われて気が付いたが、彼のクラスは今頃体育の授業をやっている。それなのに、彼はいま体育着と思われるものを水道で洗い流している。これは正に。そのあとに続く言葉を無理やり喉の奥へ仕舞い込み、この場に相応しい言葉を探した。こういう時に思慮が足りず、相手をやきもきさせてしまうことが多い。待たれている間はあからさまな表情を出されることが多く、そのまま言葉を口にするのを辞めてしまう。今回もそうなるのだろうと思って彼の顔を覗き込むと、その視線に気が付いた彼は、やんわりと微笑んだ。なんだそれ。思わず声に出て、そのままの衝動で腹を抱えて笑い声をあげる。突然のことに驚いた彼は、どうした?と言いながらわたわたと慌てていた。




「ケビン、体育着どうすんの」
「今日は使えないな」
「授業はどうすんの」
「体育着が無いと出れないな」
「…一緒にサボる?」



 ― それもいいな

 にやりと楽しそうに笑う彼の顔を、初めて見たようにも思える。転入したてのころは無表情で、恐ろしく整った顔立ちをしているせいか周りのクラスメイトたちからは怖い印象ばかりを持たれていた。その中でも普通に接することが出来ていたのは、俺とあと一人。あと一人というのは、二年生当時から生徒会長としてクラスのトップに君臨していた、ジュンミョンだ。今でも彼とジュンミョンが交流を持っているのかは謎だが、あの頃よく三人でいたのを思い出して懐かしくなった。本鈴に間に合わず諦めて授業を蹴ると、決まって生徒会室が開いていたのも序でに思い出した。今でも開いているだろうか。Yシャツの前がびしょ濡れのケビンを誘い、生徒会室へと向かった。

 生徒会室はC棟の端に設置されていて、普段から生徒会役員でなければ立ち寄らない場所になっている。ジュンミョンが生徒会長の権限を存分に活用して合鍵を作り、そのスペアキーをくれたこともあった。その鍵をどこにやったか思い出せない。彼に聴いてみてもいいのだが、一つも二つも抜けている彼が覚えているとも思えないので辞めておいた。生徒会室の扉の前にたどり着き、ドアノブに手を掛ける。ノブを下ろして扉を押すと、案の定鍵がかかっている。ここまでか。ケビンのくしゃみが聞こえ、このままでは保健室に向かうほうが早いだろう。仕方なしに来た道を引き返そうとすると、遠くから階段を上がる足音が聞こえ、咄嗟に隠れ場所を探す。

 生徒会室が行き止まりになっていて隠れ場所は無く、そのままの状態で足音が近づいてくるのを待つ他は無い。教師であった場合、担任に話がいって減点を食らう羽目になり、進学にも恐らく響くことになるだろう。それだけはどうにも避けたいが、この状況では手の施しようがない。言い訳をと思いついたのは、背後にいる彼の身なり。びしょ濡れの体育着を手にし、着ているYシャツまで濡れている。その状況を適当な理由をつけて説明でもすれば、この場は逃れられるだろう。少し落ち着きを取り戻し、背筋を正す。さぁ来い。すっかり気を良くしてふんぞり返っていると、ケビンが今度は大きくくしゃみ。




「おい、大丈夫か」
「ぬ、へーきだ」

「……ミンソクと、イーファン?」




 ケビンの方を向いていたこともあり、突然聞こえてきた声に反応が遅れたが、それは正にジュンミョンのものであった。途端に安堵し、深い息を吐く。事情を説明して生徒会室を開けてもらい、エアコンで除湿を行う。夏の足音が聞こえ始めたとはいえ、吹き抜ける風はやや冷たい。長い間、濡れたままの服を着ていたことで風邪を引かないだろうかと不安になる。大丈夫かと問いかけても、ケビンは大丈夫の一点張り。そのたびに、ジュンミョンがけらけらと笑う。彼が笑っている姿を見るのも珍しいことなので、たまの楽しみを奪うわけにはいかないと笑うのを止めずにおいた。

 飲み物を買ってくるといって、ジュンミョンは生徒会室をあとにした。ケビンのYシャツはほとんど乾いていて、あとは体育着が乾くのを待つだけとなった。除湿を切って窓を開け、ハンガーに掛けられた体育着を窓から入ってくる風が丁度あたる位置に置く。はたはたと泳ぐ体育着を見つめながら、先ほどジュンミョンが口にした名前を思い出していた。自分の知らない、名前。それに反応したのは紛れもなく、ケビンだった。帰国子女ということもあり、初めはミドルネームなのだろうと勘ぐっていた。”イーファン”という名前を何度もジュンミョンが繰り返すたびに気になり、直接ケビンに問うてみることにした。




「なぁ」
「…ん?」
「イーファン、って。お前の名前?」
「?、あぁ」
「ケビンも、お前の名前?」
「…そうだが」




 質問の意味が分からないという表情をしているケビンに対し、”イーファン”というのはミドルネームか等という安易なことは聞けなかった。触れてはならない部分なのだろうかと、それ以上の詮索を辞めた。そうしているうちに、買い出しに行っていたジュンミョンがパッケージがピンク色の飲み物を三つほど抱えて生徒会室に戻ってきた時には、呆れを通り越して笑ってしまった。なんでまた、それ。思わず声になって出てきた言葉に、ジュンミョンは一言。「好きだろ?」と、さも当然のように言ってのけた。ケビンも笑って、「そうだな」と言った。

 甘い甘い、いちご牛乳の味が、喉を潤した。





→Fin?