闔閭(こうりょ)が王位に就いて10年後の紀元前506年、国力を整え終わった呉は楚との戦争に打って出ます。
楚は春秋戦国時代の最強国のはずですが、呉は事前に十分な準備を整えていたこと、伍子胥(ごししょ)が楚の地理や将軍の性格に詳しいこと、孫武(そんぶ)の天才的な戦術があったことにより、呉軍は快進撃を続け、楚の首都を制圧することに成功します。
その頃には、伍子胥の父と兄を殺した楚の平王(へいおう)は既に病死しており、その子である昭王(しょうおう)が後を継いでいました。
ちなみに、昭王の母親は、かつて費無忌(ひむき)が平王に側室として差し出した秦の女性です。
昭王は呉軍が首都を制圧する直前に少数の家臣を連れて脱出し、隣国へ逃れていました。
呉の軍隊は彼の行方を追いますが、伍子胥は首都に残り、平王に対する恨みを晴らします。
とは言え、平王は既に故人です。
普通に考えれば彼に復讐することはできません。
そこで伍子胥が採った方法は、平王の墓を暴き、彼の遺骨を鞭打ちの刑に処すことでした。
これが「死者を鞭打つ」という慣用句の語源なのだそうです。
伍子胥がまだ楚にいた頃の友人に申包胥(しんほうしょ)という人がいます。
彼は楚の役人になっており、呉が楚の首都を制圧した時には山中に隠れていました。
伍子胥が平王の遺骨を鞭打った話を聞いた申包胥は、使者を通じて伍子胥に手紙を書き、「いくら恨みがあるとは言っても、死体を鞭で打つのはひどいのではないか」となじります。
それに対して伍子胥は返書を送り、「日暮れて道遠し、故に倒行してこれを逆施するのみ」と書きました。
「時間は無いのにやるべきことは沢山ある。だからやり方などは気にしておれないのだ」という意味だそうです。
この言葉が「日暮れて道遠し」という言葉の語源になりました。
呉軍の包囲網を掻い潜って楚を脱出した申包胥は、昭王とは親戚の血筋にあたる秦に援軍を求めに行きます。
秦の王である哀公(あいこう)は当初はこの申し出を断りました。
楚があまりにも圧政を続けて来たので、自業自得だと思ったのです。
しかし、申包胥は7日間、哀公の宮殿の前で泣き続けたのだそうです。
母国思いの家臣に心を動かされた哀公は、援軍を差し向けることにしました。
秦の援軍が楚に到着したことによって、戦況は呉に不利なものに一転します。
しかも、更に呉を悩ませることが2つも起こりました。
闔閭が不在の間に呉を手中に収めてしまおうとする軍勢が2つ現れたのです。
ひとつは、呉から見て楚とは反対方向にある越の軍勢です。
越王である允常(いんじょう)は、田舎の小国である越を一流国の仲間入りさせる機会を窺っており、闔閭が不在のうちに呉に進軍したのです。
呉と越の因縁の対決はこの時から始まりました。
もうひとつは、呉の中の反乱軍です。
闔閭の弟である夫概(ふがい)は、闔閭と共に楚に進軍しており、楚の攻略戦で大いに活躍もしたのですが、闔閭が昭王の捜索に躍起になっている間に密かに自軍を呉に戻し、呉王を名乗ったのです。
闔閭はやむなく楚から撤退して呉に戻り、允常の軍と夫概の軍を討ちました。
その後は楚との戦争によって国の経済力がだいぶ落ちていたのを立て直すことに専念します。
そうして国力を蓄えながら、闔閭と伍子胥は新たなライバルとして浮上した越を倒す機会を窺っていました。