仕事が休みの日に、母に会いに行ってきました。

この日は、母に関する用事が2つ。

 

1つは、現在通院中の精神科へ、(施設へ訪問診療してくれる診療所への)紹介状を書いてもらうようにお願いしに行くこと。

(本人もしくは家族がお願いしないと書いてもらえません真顔

精神科には9月より通院し始め、ここで最初に処方された薬を飲んでからというもの、すっかり衰弱した母は、衰弱したその状態のまま、その後は落ち着いて?います。

 

夜中に何度も起きないように、「眠れる薬」を2種類、

他の利用者さんや職員さんに、口撃しないように、「落ち着く薬」を2種類

こちらは、症状に合わせて増やせるらしいです。

 

症状が落ち着いているので、今後は近所の診療所の訪問診療で薬を処方してもらえばよいのではないかと施設から提案を受け、そうしてもらうことにしました。

 

精神科の通院は施設から車で30分かかりますが、施設の職員さんが母を車に乗せて連れて行ってくれていました。私は自宅からそのまま病院へ。母を迎えに行ってから病院連れて行って~ということがなく、自宅から病院までは車で1時間ちょっとで行けるので私は助かっていたのですが、

精神科の通院は、施設の方に負担をかけている上、母にとっても長い待ち時間がネックとなっていたので、訪問診療に切り替えることにしたのです。

 

2つ目は

父が亡くなった後、保険金や入院費用の請求をして、それらは母の口座に振り込みもされて全て終わったと思っていたら

「特別還付金」というものが未請求のままになっているというハガキが届いたのです。郵便局へ持って行って聞いてみると

 

・・正直言ってよくわからなかったのですが、要するに、父の保険料をたくさん払い込んでいたので返って来るお金?らしいです。

何やら詐欺とかでよく耳にするのと激似の文言なので一瞬疑いましたが滝汗


母に書いてもらった委任状と

母の通帳と、

私の身分証明を持って郵便局へ申請に行きました。

 

母が書くべきこの委任状が、母の名前や住所、証券番号の他に私の名前や住所も記入しないといけなくて、とにかく大変でした泣笑い泣き

 

 書いてもらったのは先月の始めあたりだったのですが、母がまともに書けるのは自分の名前だけと言ってもいいくらいの状態になってしまっていました。


ほんの一年前の今頃は父が入院して、母は一人で暮らすことになったところで、それこそ症状は酷くなってはいたけど、自転車に乗り、買物にも行き、銀行でお金を下ろすことも出来ていたのです。

 

たった1年。たった1年の間に


横に大きな字で見本を書いて見せても、その通りに書く事すらできなくなった母。

数字の3を書いてと言っても、漢数字で三と書き、もう一度「3」と書いてみせても、二重線で消した「三」の横にまた「三」と書くのです。

 

修正ペンなんて当然使えない書類で、委任状は20か所以上の修正印ガーン

 

郵便局の職員さん、母が認知症だということ、きっと勘付いただろうなぁ・・・タラー


認知症だと申告すると、色々ややこしくて、後見人とかいう第三者をつけたりとかいうルールもあるようですが、そのルールに則りたくないので、あくまでも母は「入院」をしているという体で手続きは続けています。

 

お父さん大丈夫だとは思いますが、もしかすると代理申請人の方(私)に確認のお電話が入るかもしれませんので、よろしくお願いします。


と、郵便局の職員さんに言われました。

そりゃそうでしょうね。委任するという意思を疑われそうなほどの修正印の数だものアセアセ

 

 

認知症かもしれないと初めて気づいた時は、辻褄の合わないことを言う母に

驚き悲しみ、そしてイラついていました。

 

いよいよ認知症だと確信しなければならなくなり、この先の不安とともに、常に焦りがあり、両親の病状の進行に絶望すら感じたこともありました。

 

父が亡くなった後は

委任状とかそういう類の書類と手続きが次々と発生して、その度に「またお母さんに書いてもらわなあかんねん。ゴメンな~」と一つずつ説明しながら書いてもらってきましたが、銀行員の目の前で書かないといけないこともあり、書く欄を間違えたり、字を間違える母のことを「認知症と気づかれる」と慌てていたのは今年の春です。

今から考えると、立派に記入できていたのに、元気な頃の母と比べて「書けてない」「間違えてる」といつも焦っていた私。

そんな苛立ちや焦りは、きっと母に伝わっていたはず。

お母さん、ごめん。

いつも一生懸命やってくれてたのにな。

今だって一生懸命やってくれてるのにな。


いつか母が言ってた。


好きで病気になったんじゃないから、許したってな。


この言葉を思い出すと

いたたまれなくなります。


振り返ってみたら


どんな時も

母がやることを見て

「まだこんなことかが出来る」と喜ぶということはなかったと

今になって気づきました。


母に会うたびに「もうこんなにできなくなってる」と心の底で落胆し続ける私。

もちろん母には笑顔で接するけど、私の目の奥はいつも笑ってなかったかもしれません。

 

母はどんどんできなくなるんだから

今の母にできることがあることを

感謝して喜ばないと。


もっとできることが増えるなんて、これから先、絶対に無いことなんだと、十分理解しているはずなのに


母と会った後は、どうしても元気な時の母の笑顔を思い出して、悲しく、どうしようもなくなる私がいます。


元気な母を思い出して

あの頃の母にはもう一生会えない。そう思うと涙が止まらなくなります。


母は生きているけど、

どこかで元気だった母が今の私を見て

謝りながら悲しんでいるような気がして、こんな風に思う自分が情けない。



母が一人で生活していた頃、よく届けていた母の好物のパン。久しぶりに買ってみました。



私は弱い、弱すぎる。

母はもっと辛くて悲しい思いをして、今を生きているのかもしれないのに。

まだまだ、あかんなぁ。

いつまでもこんなことじゃ、あかんわ。


冷たいと思っていた妹の方が

本当は強かったのかもしれないな。