大河ドラマ 麒麟がくる 第32回「反撃の二百挺」の関連地図(前編)です。

 

さて。投稿が遅くなりました!

第32回は合戦としては浅井・朝倉との戦い(姉川合戦)、三好・本願寺勢力との戦い(野田福島の戦い)、浅井・朝倉勢の反撃(志賀の

陣)と盛りだくさんです。ちょっと1回にはまとめられないので今回は姉川の戦いについて地図に落としてみたいと思います。

 

ドラマでは将軍義昭と摂津晴門に光秀が報告するシーンから始まります。

会話の中で摂津が朝倉と通じていたこと。義昭が摂津らに操作されていることが露わになりました。

次の戦にはどうか出馬を!と願い出る光秀でしたが、このあたりから幕府への期待を急速に失ってく、という流れです。

 

さて。鉄砲調達の指示を受けた光秀は堺に向かいここで運命の人「筒井順慶」に出会います。

鉄砲調達と引き換えに信長の庇護の約束を取り付ける順慶でしたが、これが後の松永久秀の離反へとつながるのでしょう。

ただ、この時点では松永はその事は知りません。

 

そして浅井・朝倉戦との全面戦に突入します。

ドラマでは「姉川の戦い」は一瞬で終わり(^-^;。家康が「朝倉の力は分かりました」とさらっと済まされます。中断があったので端折られても仕方ないのかもしれませんがこの戦、地図で解説してみたいと思います。

 

【戦前~序盤戦】

金ヶ崎の敗戦で京都に帰還ののち、信長は岐阜に戻ります。この時、すでに岐阜への街道は封鎖されており、日野城の蒲生氏郷などの尽力で千草峠経由で岐阜に帰還します。その際、信長は狙撃されますが危うく難を逃れました。その後、浅井勢は岐阜からのルートを封鎖するため長比(たけくらべ)、苅安(かりやす)城を整備し防衛を強化します。これを見た信長は鎌刃城に調略をしかけ、浅井家老の堀秀村、樋口直房の寝返りに成功。その報を受けた信長軍は満を持して元亀元年(1570年)6月19日岐阜を出陣しました。長比、苅安の浅井勢は撤退。信長は長比に入りここに一両日滞在し、堀、樋口の謁見を受けるなど更なる進軍に備えました。

姉川の戦い

 

【小谷城下に進軍】

元亀元年(1570年)6月22日。長比砦を出発した信長軍は横山城をスルーし城下に迫ります。軍を二手に分け雲雀山には森可成、坂井政尚(まさひさ)、斎藤新五などがのぼり町を焼き払う。信長以下、柴田勝家、佐久間信盛、木下藤吉郎、丹羽長秀ら主力軍は虎御前山(とらごぜやま)に陣を張り、村々や谷の隅々まで焼き払いました。焼き払うのは隠れ場所を無くしたり、食料を調達させないためでもあり、将来兵士になる農民や町民を逃散させるためでもあり、当時の戦では必要な作業でした。

姉川の戦い

ここで信長はいったん引く命令を出します。朝倉から援軍が出た報をキャッチしたのでしょう。いったん下がり、あとからくる家康軍と合流して対峙しようと考えたものと思われますが、兵士の構成は「鉄砲隊が500、とお弓の衆」(信長公記)と書いてあるので引くと見せかけた待ち伏せ狙いだったのかもしれません。殿軍は簗田広正(やなだひろまさ)、中条家忠、佐々成政の三部隊。攻めかかってきた軍をそれぞれやや別方向に誘って逃げています。八相山の麓が激戦地でした。そのあと主力軍は八島町あたりで野営しています。大きく引いていないところからも統率は取れていいたと見え、意図的に撤退したふりをして誘い出した可能性はやはり高いように思います。

 

【横山城を囲う】

6月24日。姉川の南にある支城「横山城」を囲います。信長軍が南方へ動いたのを見た浅井軍は小谷城の南の大依山(おおよりやま)に移動し、朝倉軍と合流。信長軍は姉川を越えたところにある龍ケ鼻に移動し、家康軍と合流し陣を構えました。

姉川の戦い

 

【姉川の合戦】

ここまでの流れを経てからの「姉川合戦」です。

元亀元年6月28日早朝開戦。信長公記には「27日早朝に陣払いしたかに思えた軍が、翌28日未明、30町(3.3キロ)ほど進出してきた」と書いてあり一旦引いたに見せかけての奇襲だったのかもしれません。

 

朝倉軍は三田村、浅井軍は野村に布陣。浅井勢には織田軍が、朝倉勢には家康軍がそれぞれ対峙しました。火ぶたを切ったのは家康軍。川を越え攻めかかります。

朝倉勢が南北に伸びているとみた家康は榊原康政を西に大きく迂回させ側面から奇襲させます。これで朝倉勢は崩れ敗走。浅井勢もつられて崩れ立ち。敗走します。

 

姉川の戦い

織田軍は敗走する軍勢を追い小谷城下まで押し寄せます。城下を焼き払い、横山城まで戻り、ついに横山城の浅井軍も城を明け渡しました。

 

【姉川合戦後】

横山城を押さえられた浅井軍は南北に分断されました。浅井勢として姉川の合戦でも活躍した佐和山城の磯野員昌(いそのかずまさ)が織田軍に反抗していましたが、「磯野が織田に通じている」という風説を信じた浅井陣営は磯野を助けず、止む無く磯野員昌は開城し織田に降りました。

姉川の戦い

これで完全に北近江は分断され京都と美濃との街道確保に成功しました。信長は横山城に木下藤吉郎以下を防衛軍として残し、大阪方面に転戦していきます。

 

以下。次号へ続きます!