大河ドラマ 麒麟がくる  第31回「逃げよ信長」の関連地図です。

 

この回は第1回朝倉攻めと有名な「金ヶ崎の退き口」です。

永禄13年4月20日。妙覚寺から進軍を開始。従軍したのは徳川家康、松永久秀、池田勝正など約3万人。琵琶湖の西側をゆっくりと北上し若狭に向かいます。この頃の若狭武藤氏は内部分裂状態でした。田中氏の田中城⇒松宮玄蕃の熊川城⇒粟屋勝久の国吉城(ドラマでは佐柿の城とナレーション)と移動し旧若狭武田氏の武将を糾合していきました。

 

摂津晴門「信長は軍をどちらに向けたか?」と尋ねるシーンがあります。三淵藤英「東へ」と話します。摂津は「やはりのう。初めから狙いは朝倉」と話します。この戦いは表向きは「義昭の名代として若狭武田氏を成敗にいく」というものでした。ところが熊川城から西へ行き武田の本拠を攻めねばならぬはずが、ここで北東へ転進し国吉城に入ります。そこではっきりと「狙いは朝倉」と対外的に分かるわけです。しかしこの話。何かと似ていませんか?そうです。明智光秀の本能寺の変前の行動です。初めは毛利を攻める軍として出発し、目標を知らされぬまま兵士は行軍。本当の目標と違った相手との戦に突入させる。信長に付き従う武将にはそれぞれのお家事情があったでしょうし、初めから目標を伝えて漏れでもしたら計画がとん挫することもありえます。途中で目標変更をするのは意外によくあったことなのかもしれません。そのくらい京都は陰謀に満ちていて一部にか本音を語らなかったと考えられますね。今回は摂津晴門の登場で政治と複雑さと表と裏、本音と建て前の描写を面白くしてると感じます。

 

さて。国吉城で体制を整えた信長軍は山地にある手筒山城をまず攻撃します。信長公記にはこのように書いてあります。

 

「二十五日、越前の敦賀方面に軍勢を出した。信長は駆け回って状況を見、ただちに手筒山城を攻撃した。この城は高山にあり、攻めかかった東南側は険峻な山容であった。しかし信長は「突入せよ」としきりに命令した。将兵は一命を捨てる覚悟で力の限り忠節を尽くし、間もなく場内に突入して、敵の首千三百七十を討ち取った」

 

短兵急な力攻め。ドラマでは松永が「味方は1000名失った」と言っていますが、味方の被害数は信長公記には書いていません。しかしこれだけの首を討ち取ったということは相当の損害があったでしょう。これサラッと読み飛ばしそうですが、先に手筒山の城を攻めるあたり信長です。続けて峰続きにある金ヶ崎城を攻めます。

 

「手筒山に並んで金ヶ崎の城には、朝倉景恒が立て籠もっていた。翌日、またこれを攻めた。攻め滅ぼす予定であったが、敵は降参して退却した。引壇の城の敵も退去したので、滝川彦右衛門・山田左衛門尉の二人を派遣して、塀や櫓を破壊させた。」

 

ドラマでは松永久秀があっけなく金ヶ崎から引き上げた朝倉のことをみて「どうも嫌な感じがしてならん。朝倉は一体何を考えているのか」というシーンがあります。この時点で浅井の寝返り工作はある程度進んでいたか決まっていたはずです。信長公記には書いていませんが引壇城(マップ上では疋壇城)の兵は越前ではなく南に撤退し布施城に入ったのではないかと推測します。ここで浅井軍と合流すれば巻き返せます。

 

ドラマでは信長がいきり立ち「木の芽峠に進軍し討ち死にする!」的なことを光秀が止めてなだめるシーンが出てきます。

実際はどうだったでしょう。信長公記には

 

「信長は浅井が背いたというのは誤報であろうと思った。しかし、事実であるとの報告が方々からあった。信長は「やむをえぬ」と言って越前から撤退することにした」

 

と書いてあります。縁戚で北近江一体の支配を任せているのになぜ?と思ったのは事実でしょう。ドラマでは長政が「信長は朝倉には手を出さないと言ってきたのにこの有様だ。朝倉の次は浅井だ」というようなことをお市の方に話します。ただ実際には長政の意見を曲げさせたのは、父、久政です。位置的に北近江の浅井は北の朝倉、東の織田、南の六角とに挟まれた難しい立地にありました。元々朝倉家には同盟を結んで六角と対峙した時期もあり恩義もある。それぞれに良い顔をしておかねばなりませんが、もしかすると久政の心の中に「新興勢力の信長如き小童が」といういわゆる老害じみたやっかみもあった可能性はあります。隠居しても発言権を失っていない久政の意見に長政が折れたのでしょう。どちらにつくかを議論の末、結局久政の意見を取り入れ朝倉についた。もちろん盛んに朝倉から寝返りの打診は来ていたでしょう。「織田を滅ぼした暁には尾張と美濃の半国を与える」位の大きな報酬もちらつかせながら。この判断が後に家を滅ぼす結果になるとも知らずに。。一つの判断ミスが一家を滅ぼすことになるシビアな時代でしたね。

 

さて。その謀反の話を聞いた信長がドラマのように無念さを爆発させたかどうかは分かりませんが、この時は速やかに正しい判断をしました。ドラマでは秀吉が光秀に頼み込んで殿軍の命を拝受します。これは身分と指示系統的にあったかもしれません。しかし、光秀と丹羽長秀は撤退途上で武藤友益(今回の遠征で当初目標とされた武将)から人質を取ってこいと信長から命を受け石山城に向かっています。金ヶ崎には秀吉だけ残ったのかもしれません。(徳川実記には家康も殿軍を務めたと書いてありますがこの信憑性には疑問が付くようです)

 

 

撤退ルートは本軍は熊川城から琵琶湖へは出ず、朽木元網の案内で朽木越えで京に撤退しました。朽木家は足利義輝を一時的に匿ったところとして、以前出てきましたね。そのため将軍家とも近く、この時も最初は信長を殺そうとしたそうです。ところがこの時は松永久秀の奔走で事無きを得ました。秀吉も恐らくはこのルートで撤退したのでしょう。光秀は人質を連れて鯖街道と呼ばれるルート「針畑越え」で京都に帰還しました。秀吉はこの戦いで恩賞を預かり一気に名声を高めます。

 

信長が京に帰還した時、付き従う伴回りは10騎ほどだったそうです。それだけ諸将は盾となって信長を逃がしたのでしょう。ドラマでも摂津晴門がそのようなことを言っていましたが、討ち減らされてそうなったのではないということは補足の余地はあるかと思っています。

 

ドラマでは光秀が撤退時に左馬之助にこういいます。「自分は甘かった。平らかな世を作るために今は戦うしかない」。と。

このドラマは成長の話でもあるようです。駒も将軍と理想と現実との狭間で悩むことになるのではないでしょうか。

 

場面は変わり、摂津が将軍義昭に敗戦の報告をします。「これで信長だけに重きを置くわけには。参りませぬぞ~」と進言する摂津。「朝倉には内々に感状をお出しになるのがよろしいかと。」。それに義昭は苦々しげに「よきに図らえ」と。そして義昭は駒の元に逃げる。。摂津もしたたかですね。現代の政界にも間違いなく居そうなタイプです^^

 

明智は無事帰還。そこに木下藤吉郎がいます。「たれも信じてくれませぬ。この私が殿を務めたことを。お前如きに殿が務まるはずはない。どこかに身を隠し、逃げ帰ったのであろうと。明智は帰らぬ。お前は生きてここにおる。それが嘘の証じゃと!」

それに立腹した光秀は「誰のおかげでその酒が飲めるとお思いか!」

 

このシーンを見て、私はこの世の中への暗喩も含まれているんだろうな。と感じました。

戦後最悪となる法人の倒産数。過去最多の自殺者。どうしてお前らはそこで笑っていられるのか!と。

 

思い起こせば、麒麟の中断から再開した最初の回、第22回「京よりの使者」、第23回「義輝夏の終わりに」、第25回「羽運ぶ蟻」でも、このドラマの制作陣は今の感染症対策に対するメッセージを送り続けていました。今回の最後の場面。「信長さまは生きておられる。生きていれば次がある」。これも単純に信長に対して言っているだけには思えませんでした。「日本人よ目覚めよ。気付け!戦え!」と。

 

最後は余談でしたが、我々の祖先は本当に命を燃やし、精一杯生きていました。

これは現代人が大いに学ぶべきことだと強く思います。

今年の大河は単なる大河にはないものをたくさん感じる今日この頃です。

 

では今日はこのあたりで!