「麒麟が来る。再開までの合間に。関連地図」の永禄5年(1562年)、永禄6年(1563年)です。
永禄5年(1562年)、永禄6年(1563年)には信長関連では下記のような出来事がありました。
○永禄5年(1562年)
- 1月 信長と家康が同盟を結ぶ
- ※前回投稿した「於久地城の攻撃」はこの年だった可能性もあります。
前から隠密裏につながっていた両家の同盟をを公に宣言しました。これで織田・徳川とも背後の憂いはなくなり、それぞれの正面の敵「今川」「斎藤」に集中できるようになりました。
○永禄6年(1563年)
- 7月 小牧山城に移転
7月。今後の東美濃侵攻を見添えて小牧山城に移転します。
この時、信長がいかに人心掌握に長けていたかがわかるエピソードがあるのでご紹介しましょう。
以下、信長公記からです。
信長には優れた戦略があった。清州というところは尾張の国の中心的位置で裕福な土地柄であった。
ある時、身内の衆を全員同行させ、山中の高山、二宮山に上った。「この山に築城しよう」と言いだし「皆ここへ家を移せ」と命令して、ここの峰は誰、あそこの谷は誰の家を造れと屋敷地の割り振りをした。その日は帰り、また再び出かけていって、さらに先日の趣旨を命令した。「この山中に清州の家を引っ越さなくてはならぬとは難儀なことだ」と言って、上の者も下の者も大いに迷惑がった。
今風にいうと「清州からあんな山中に移れって?いや。マジムリ」そんな感じでしょう(^-^;
しかし、ここからがさすがの信長さん。
そのようなことがあった後、信長は今度は「小牧山に移ろう!」と言いだした。
小牧山へは麓まで川が続いており、家財道具を運ぶのに便利な土地である。皆わっと喜んで移転をした。これも最初からそう言いだしたらここへ移転するするのを迷惑がったのは、二の宮山の場合と同じだったであろう。
これ。社員の気持ちがよくわかる社長みたいですね(^-^)
初めに無理難題を押し付けて、次に初めよりも少し簡単そうな課題を出す。
やはり信長は人の心を読むのが上手ですね。そりゃー戦も強いわけだ。
そしてなんと!城を移転しただけでこんな大きなおまけまでついてきちゃうのです。
小牧山はすぐ隣に敵の於久地城というのが二十町(約2.2km)ほど隔ててあった。小牧山に城がどんどん出来ていく姿を見て、敵方は於久地城が小牧山の城から見下ろされることになり、守り切れないと判断して城を明け渡し、犬山の城へ合流して立て籠もった。
城を建設するだけで敵が城を明け渡す。。
やはり信長さんは神がかってます(^-^;
その他は大きな戦は無ありませんが何もしていなかったわけでは当然なく。
内政では国力の強化。外交では各方面に調略をしていたことでしょう。