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ハルさんの日常

認知症の不思議な行動の数々。あるお年寄りの介護の日記。

余談ですが、数日前に私 ちょっとした鬱になっていました。何もする気がなくなり、お腹も気持ち悪く、マイナスな思考が頭の中でぐるぐる回っていて。
セルフカンセリングをしたり、原因となった夫へ『鬱状態だ』と話した事で改善しました。

理由は、
ハルさんの九州での老健入所が決まり、9月の初めに東京へ向かいに行く事になりました。介護者は私とそして夫も同行するというのですが、これが厄介なのです。
自分も母親の介護している事を示したいというのが、夫の気持ちなのでしょうが、何も訳がわからなくなっている人を飛行機に乗せて、遠距離移動する事への細心の注意を払ってほしいのに、別の事へ神経をとがらせてしまうのです。

飛行機の時間の関係もあり。ハルさんのお昼ご飯抜きで移動してしまおうと私は予定していました。
その事に、夫が激怒してカーとなると止らなくなるのです。
そうでした、ハルさんも夫も義弟も神経症というものらしく、かんしゃくを起こすと、相手をなじって自分の言うように物事を進めさせるという癖があるのです。

初めて、ハルさんをショートステイに入れた時、ハルさん家へ戻ってこれないという勘違いを起こし、パニックになりましたが、この時起こした夫のパニックも相当でした。『精神分裂にでもなったらどうしてくれるんだ!!』と私は怒鳴られてしまいました。
しばらく夫のこうした癖も治まっていたのですが、また勃発したのです。

ハルさんの昼食を抜いてしまおうと考えたのも理由があります。
私が介護している時って、必ず排便があるからです。

そして、ぼろぼろこぼしてしまい、掃除だってしなければならなくなります。手だってべとべとですし、拭いたりもしなければなりません。

以前に、ハルさんの姉妹とのお墓参りへ同行した時もそうでした。よりによって新宿駅とかでそんな事になってしまうのです。

今回は車椅子だし、やり方だって今までとは違っています。自動水洗だって本人わからないので、蛇口の上をがっしり握ったまま手を離さず、パニックになった事もありました。

そもそも、車椅子から便座への誘導だって私がやる事になるのだろうし。
まあ、夫がハルさんの身体を支えたりはできるでしょうが…

移動の前日は、1日早く東京へ行って、私が老健でハルさんの荷物のパッキングです。
義父の介護の時に作った銀行口座の廃止の手続きもしなくてはなりません(九州の私達が住んでいる県に同じ銀行ないからです)。

いっぱいいっぱいで、さらに用事が増えて。

それに追い打ちをかけるように、ハルさん、飛行機に乗る事そのものもパニックになるかもしれないと考え、飴でもなめてもらおうと思っていたのですが、『虫歯になるからほどほどにしてくれ』と夫から言われてしまいました。

施設を捜すのだって大変でやっと決まり、飛行機の手配やら日程やらなんやらかんやら。ほっとしていた時にこれです。完全に気持ちダウンでした。

手伝うつもりで来てくれるのか、邪魔するつもりなのか、息子と母親との関係って厄介なものだな~、というのが私の感想です。

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横道にそれましたが、さて義父の話しです。

義父の呼吸が乱れ、お医者さんが私へ連絡しようとその場を5分ほど離れた隙に、心臓が止ったそうです。


電気ショック等の措置もできないうちに死んでしまった事、お医者さんとしては悔いてられるようでした。

『電気ショックもしないで下さい』といううちの考えがあまりにイレギュラーだったからなのでしょうか。

病院へ戻ると、義父は空きの病室へ移されていました。

呼吸が乱れ少し喘いだという話しでしたが、義父の顔は、私がちょっと前に病室を訪れた時に見た様相とまったく同じポーズでした。
口を開け 斜め上の方向へ顔を向いたまま。

意識がない状態で『その時』が来たのだとしたら、義父は、きっと苦しまないで逝けたと思うのです。 


それが何よりもありがたく嬉しいです。

前日、救急科のお医者さんの所では、『バイタルチェックで異常なし』という結果だったにも関わらず……
そして1時間ほど前、『危篤状態ではない』というお医者さんの判断にも関わらず…

死を知った時、ふと思った事は、

『人が死に行く過程』は医学では測れないものだなと。
医学は肉体を診るものだけど、
そこに魂が関わっているからだ。

しばらくして、面談の時のお医者さん二人と、少し遅れてソーシャルワーカーの方が病室へ入って来られました。


まず家族として、私が義父であることを確認し、主治医のとても若い先生が時計を見ながら死亡時刻を詠み上げました。


『午後5時21分』

(福祉課の所長さんから義父の家は行って救急車を呼ぶように促されたのがちょうど前日の午後5時頃だったのです。やっとこれで24時間が経過。長い長い1日でしたが、残された者にとっては、この後も大変でした)


私は促され、義父の傍に立ちました。

これはどうも『最期にお別れの言葉を』ということだったらしいのですが、初めての体験で。

「触れてもいいですか?」

と、とんちんかんな事を言ってしまいました。(こんな時私はたいてい間が抜けていて、後になって落ち込んでいます。あ~、またやっちゃったか)

ブランケット越しにも義父の体の温もりが手へと伝わり、これがまたあまりにリアルに温かく

『今にも動きそうで生きているとしか思えない! 義父のことだから、また突然復活するのじゃないだろうか? 』とも、思ったりしました。

そしてまたも再び、

「温かいものなのですね」

と、間抜けな事を言ってしまうのです。

こんな時、泣きながら義父の身体へすがりつけば、それらしい雰囲気だったのかもしれません。

が、涙は出ませんでした。

その代わり、ポツリと自然に自分の口から出て来た言葉は

「よく頑張ったね」

でした。

お医者さんがまず部屋を出、ソーシャルワーカーさんが

「お父さん、最後に家へ帰れて良かったですね」

と、微笑み言って下さり、私はこの時はじめて涙がでそうになりました。

義父は前回の入院時に家へ帰りたがっていたこと、義弟が病院にクレームをかけたり迷惑をかけた事、そんな義弟へ私達が介護を託し義父を退院させた事、ゴミ屋敷状態での家での暮らし。こんなごたごたな事情の全てを知っていて、こんな温かい言葉をかけてくださるのです。

職員の人達、若い方ばかりでしたが、すごく温かく義父の事を見守って下さってました。


義父の人生の最後はつくづく恵まれていたと思うのですが。

義父はこの事をどう思っているのだろうか? ふ~


「最期のお見送り、私も出席させて下さいね!」

と、ソーシャルワーカーさんは涙で潤んだ美しい笑顔をこちらへ向けて去られました。


『んっ……? 最期のお見送りって…、何…???』


経験が無いというのは怖いものです。

私はこの後、何があるのかさっぱりわからずにいました。

私は1時間半以上、義父と対面したまま、ぽつりと病室にいる事になるのですが、

夫はすでに、こちらへ向かっているようでした。


通りがかりの看護師さんにこんな時何かすべき事がないか尋ねてはみたものの


「お父さんの傍にいてあげて下さい」


の一辺倒な回答。


なすすべなく義父と対面したままじっとしていると、何だか急に病室全体が明るくなったような気がして…


あれれっ?、と思っていたら

ぱ~っと、自分の身体から何かが吹き出して行くような感覚を覚えました。

いったい自分の中で何が起こっているのだろう?

義父に対する感謝の気持ちが溢れ出ていたのです。圧倒されました。

義父と出会った事や、看取らせてもらった事だけではなく、別の深い物。

生命の誕生、単細胞生物からやがて脊椎動物へ。魚類、哺乳類、人類、ご先祖様、そして義父……、こうして私達へと。


人が『生』からまた新たな次の『生』へ。
代々繋がってゆく事の意義。
その関わりへの深い感謝でした。

読んで下さっている方は、ぶっとんでいると感じられるかもしれません。人の心は単純じゃなく、いくつもの層を成していて、表面の私の意識は義父に怒ってばかりでしたが、めったにアクセスしない自分でも気づかない部分で、こうした事も感じていたようです。

人の死と間近に関わった時って、こんな事も起こるのだな~と、感動していました。



そんな気持ちもやがて鎮まり、私は再び退屈になってきて、ふと変な好奇心が湧いて来ました。


『死後硬直ってどんな感じなのだろう』と。


つんつんと、衣類ごしに義父の腕を触ったり、指で押してみたり。

『あれ、なんだ全然 柔らかいじゃないか』

なんて、とんちんかんな事をしていました。


口が大きく空いたままの状態の顔を見て『閉じてあげなくちゃ』と思い、あれやこれや頭を抑え顎を押して頑張ってみましたが、びくとも動かせず閉まりませんでした。


死後硬直ってこういうことなのでしょうか? 皮膚は柔らかいのに、役に立てず残念です。


こんな事にも少し飽きてぼけ~としていると、例の二名のお医者さんがまた話しがあるという事でした。
私は面談室のような部屋へ案内されました。

こんな所でまた文字数オーバーとなってしまいました。(;^_^A
続きはまた。m(_ _ )m



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