ギャンブル依存症 | ハルさんの日常

ハルさんの日常

認知症の不思議な行動の数々。あるお年寄りの介護の日記。

義父の退院後、1週間経った頃。
介護の問題解決に向け、 福祉課の人たちが一気に動いてくださった。
まず、会合が開かれた。
私は出席しなかったが、夫と義弟がともに呼び出された。夫の話しからすると、この時 総勢9~10名ほどの人が関わったそうだ。
福祉課の人たちには、 彼らなりの立場と理念があるらしい。
『家族内の問題は、家族内で解決してもらう』
最初から最後までこの考えを貫きとおしてられて、義弟が起こしている問題に立ち入れたわけじゃなかった。
が、苦しい立場の中、彼らは機転を効かして立ち回ってくださり、そのかいあって、主たる介護の権限が義弟から夫へと移った。ただ、飲食に関したは、同居している義弟が 引き続き請け負うことになっている。

そして、『義父の年金の通帳』が、義弟から夫へ、そして手続き関係を請け負う私へと渡された。
これによって、金銭トラブルの基がかなり改善され、介護の見通しも ずっと明るくなる。
だけど、通帳を受け取っても、私はすごく複雑な気分だった。
こんなもののために…。
どうせたいしたお金が入っているわけじゃない。
介護の費用がたくさんかかったら、この通帳ではまかないきれず、どうせうちが払う事になる。それなのに、これまでたくさんの妨害や嫌がらせ、脅しめいた発言に、中傷のメイルの数々があり、 通帳を受け取った後もくだらない嫌がらせが続いた。
特に受け取った直後がひどかった。
宿主を失いそうになった寄生虫が激しい動きをするというけど…。そんな感じだった。
脅しめいた言葉も夫を新たな宿主にしようとするためのテクニックだったようだ。(義弟の電話はいつも夜中頃になり、しかも長い。だから、夜11時にはうちの電話回線を切る事にして、メイルでやりとりするようにしていました。)
そんな、いわくありげな通帳だ。
だいたい介護にしたって、気分が重い。
通帳を開くと、12月なかばの年金入金直後、予想していたとおり義父がほぼ全額引き落としている。
そして、直後、一度だけ1月分の家賃相当額をあわてて預け入れている形跡がある。
そしてそれから先は、プツンと記帳が途絶えていた。
番号がわからなくたって、義弟にだって記帳くらいできたはずだった。
光熱費や電話代など、何月のどの引き落としが未払いになっているのか、チェックして払おうともしていない。その『管理のズサンさ』にあきれた。最初から、自分で払う気もないということなのだろう…。


義父も義弟も自分たちに都合のいい『この家』にものすごく執着している。
『ギャンブル依存症!!』
アルコール依存症、覚醒剤依存症、麻薬依存症…。
どれも依存症になると、人間は自分の快楽や刺激を追い求めることばかりへ気持ちがいってしまい、『他へ迷惑かけること』など顧みれなくなるのだなと、私は知った。
たとえばの話、通信機器でゲームが楽しめるから、最近ではずっと少なくなったかもしれないが、ちょっと昔 ゲームセンターヘ頻繁にいりびたってしまう子どもの中には、ゲーム代欲しさに 他の子を脅してお金を巻き上げるような犯罪まがいのことだってやってしまう。
これも、自分たちの快楽の事しか頭の中になくなっている中毒症状のようなものなのだと思う。
そして、依存症というのは厄介な事に、その生活から抜け出せないのではなく、そもそも『抜け出したくない』のだと、義父を見て知った。
ギャンブル依存症になってしまった者は、どうも死ぬまでやり続けようとするものらしい。

さて、義弟の家への執着も大きかった。
義父を無理に早期退院させたり、なくした保険証の再発行手続きを急いだり、『この家での生活をずっと続けてゆく』ための義弟のもくろみは、不思議なくらい すべてうまくゆかず空回りしていたようだった。この現象は、彼へ『もうこの家には長くいられないよ』と伝えているかのように 第三者的には見える。

だけど、『すべての事には終わりがある』という、たったこれだけの事を、彼はわかろうとしなかった。
だから、もがいてくだらない嫌がらせをくりかえしてゆく。

ある日、スーパーで子どものわめき声がフロア中に響き渡っていた。


あ~…。
こんなふうでは、ごてればなんとかなると、わざわざ子どもに教えているようなものだ、と思った。
ねだられたからといって、年金の一部を息子へ小遣いとして与えていれば、ごて方はエスカレートしてゆき、いずれ手のつけられないモンスターへも化けてしまう。
だから、最初にどう接するかが大事なのだと思う。

義父の今回の件は、義弟にとっても大きな経験なのだなと思う。
仕事をしているとはいえ、長年 義両親に保護された生活をしていて、こうした閉鎖的な空間では、すべてのことがうやむやで隠してしまうことができただろう。
だけど、今回は病院関係者や福祉課の人たちなど多くの人が、義父の家に関わっていた。隠してきた自分の生活まで人目にさらされてしまう。もうこうなると、否応無しに自分で自分の生活や行動も ちょっとぐらい振り返らざる終えなくなっているだろうと思う。

そして、誰かがそんな義弟を『間違ってない方向へ』誘導しようとしても無駄だった。
これから何をしようとしているのかも不明だけれど、この時の彼にとって、とことん体験することに意義があるみたいだった。

そして、義父の今回の件ーこれは、私にとっても大きな経験だった。
前回のブログの中での出来事で、私は義父へ怒りをぶちまけることができたわけだけど、その後、一気に気持ちが晴れた気がした。
私には赤ちゃんだった頃から抱えていたトラウマがあって、自分の感情を隠してしまう癖があった。
(感情表現がド下手なのです。怒りも悲しみも嬉しさも、ストレートに表現することができなくて、ぎこちなかったり、変にごまかしたりして、そんなあいまいな感情表現なので、大切な人すらも傷つけてしまうこともありました)。
こんな性質に自分でも苦しんでたけれど、義父に向かって言いたい事を言い切って、すごくすっきりすることができた。
どうもトラウマの一部が開放され融けたような感覚だ。そして、とても大事なことを義父へ伝えられた気がする。
こんなふうに、人との関わりって 不思議なものだなと思う。何がどう作用するか、後になってわかることもあるから面白い。

話しは戻り、この時の会合のすぐ後、みなで義父を入院させるべく義父の家へ向かったのだが、義父はその前夜 ベッドから落っこちて、ベッドとベッドのすき間でもがいていたと、いうことだった。
義弟はその日、仕事が休みで助けてあげられたはずだった。結局、放置していたことが福祉課の人たちにばれてしまっている。
どうも、義弟は、義父の体に触れることさえ避けているようにも思える。
後日、森里さんが、
『半日以上、落っこちた状態だったから、褥瘡ができかかっている』
と、嘆いてられた。
でも、これは義父自身に大きな責任があると私は思う。
結局、おおぜいで義父の家へ押しかけても、やっぱり義父は入院を拒否した。


介護の権限が夫と私に任されたということになって、会合の翌日からすぐ介護の人が入るようになった。
まず自費払いの形で、ヘルパーさんが掃除してくださり、介護ができる通路をベッドとベッドのすき間に作ってくださった。
それからはヘルパーさんがほぼ毎日来てくださったので、容態の急な変化があれば、連絡してもらえた。夫と私は義父の様子を看にゆく必要がなくなり、しばしほっと一息できる期間ができた。
そして、また介護の契約などのために義父の家を訪れた。
(それにしても、契約書を交わすのも一苦労です。書類を広げる場所がないのです。ダイニングテーブルには、食べ物やら食べかすやらいろんな物があふれかえっていて、置かれたままのまな板が比較的ましだったから、私は『このまな板の上で、署名しましょう』と勧めてみたけれど、ヘルパーさんはそれはまずいと思われました。彼は機転を効かせ、比較的きれいな新聞紙を拾い上げ、その上で契約書を交わしたような状況です。)

さて、ヘルパーさんが帰った後、私たちは義父に用があった。
新聞を買いにいったりできない義父は、暇をもてあましているだろうからと、 保険施設で撮らせてもらった被写体ハルさんの写真集も携えていた。
 

「お父さん、大事な話しがあるんです」
私は、義父の通帳を握りしめ言った。
『大事な話し』に義父は勘違いし、涙目で夫と私の顔を凝視し訴えた。
「どうしても施設へ送るつもりか!?」
はっ? いえいえそんな話しじゃ。それに、私たちだって義父を無理に施設へ入所させたいわけじゃない。本人が望むなら、むしろこのまま自宅にいさせてあげたいとも思う。

「お父さん、暗証番号教えてください。介護に必要なんです!」
義父はきょとんとした顔で黙ってしまった。
義弟へは番号を教えなかったけれど、私にはきっと教えてくれる。ちゃんと説明すれば義父は納得してくれる人だと、私は確信していた。
義弟の嫌がらせのなかに、こんなことがあった。退院時に、私たちの元へ郵送する手はずをしていた請求書を、義弟は適当な嘘を言って、会計からもぎ取って帰って行った。入院費を踏み倒させるつもりだったのだ。
『病院が義父の体を悪くしたのだから、入院費なんて払う必要はない』なんて訳もわからないことを言っていた。
だけど、義父は入院費はちゃんと支払うべきものだと認めている。もちろん夫払いなのだが…。

「わからないんだよ」と、義父がぼそりと答えた。
「たとえば、こういった番号ですか?」

私は思い当たる番号をいくつか言ってみた。
義父は泣き笑いの顔をし、
「忘れちゃったんだよう。ここぶつけて!」
子どもがするようなしぐさで、自分の額を指差した。
退院前日に自分でトイレへ行こうとして、すっころんだ時にできた痣が空豆ほどの大きさの黒ずんだホクロのようになっていた。
そうじゃないでしょ、お父さん。すっころんだから忘れたのではなく、入院時に認知症の症状がでちゃったのでしょ。
私も泣き笑いの顔になった。 
義弟に教えなかったのではなく、言えなかったのだ。(義父が亡くなって4ヶ月近く経った今も、この通帳開けられない状態です) まったくいわくありげな通帳だった。


つづく


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