ブラックペアン、やっと読み終わりました。
物語が一段落したところで予定調和的に終わるのかと思ったら、
ラストの方で一気に話が動いて、すっごい興奮しました。
ちょっと固めのお話ではありますが、
途中で止めないで、是非最後まで読んでみて欲しいです。
そして、世良くんの独白の形をとってはいても、
ブラックペアンの主役はやっぱり渡海先生だなと思いました。
それと、
潤担さんの間で話題になっていた、
夕暮マリーさんのブログも読みました。
http://yaplog.jp/yu-gure-marie/archive/1422
覚え書きとも告白とも取れるものですが、
非常に心を揺さぶられる内容でした。
それは以下のような書き出しで始まります。
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わたしの凡庸な人生の中で、ひときわ輝き、
またその輝きを思い出すたびに胸が痛む出来事がある。
それは「あゝ、荒野」舞台版の上演だ。
寺山修司の「あゝ、荒野」に取り憑かれたのは、
彼の本を編集している時だった。
それまでも寺山修司の戯曲やエッセイなどは読んできたが、
「長編小説」が遺されていることと、その意味などを深く考えることはなかった。
不勉強で申し訳なかったのですが、
マリーさんは編集者の方だったのですね。
その後「あゝ、荒野」のイメージを写真で描く書籍を企画。
さらに映画化を模索する中で、自ら台本を執筆され、
蜷川さんの舞台の影響から、
その脚本を演劇用に一から書き直されています。
まさか、一編集者に過ぎないわたしの書いたものに、
世界的な演出家である蜷川幸雄氏が反応してくれるなどとは、
夢にも思っていなかった。いや、夢くらいは見たかも知れないが、
それが実現するなどとは考えていなかった。
わたしの中にあったのは「あゝ、荒野」という、
寺山修司が遺した唯一の傑作長編小説を、
多くの人に読んでもらいたいという思いだけだったからだ。
しかも、二人のボクサーの配役を聞かされた時には、二度驚くことになった。
それはそうだろう。当代きっての人気アイドルと、
若手の俳優としては充分名の通った人物がそれを演じるという、
前代未聞の、それは「事件」だった。
マリーさんが潤くんたちとじっくり話したのは一度だけだったようです。
それは公演ポスターの撮影の日。
撮影が終わればすぐに帰ってしまうだろうと思われた彼らは残って、
新宿ゴールデン街の飲み屋の2階で、マリーさんの話に耳を傾けることになります。
同席していたプロデューサー氏から、
「作家として、お二人に伝えておきたいことはないですか?」
と話を振られた。
わたしがその時話したのは、
「あゝ、荒野」は寺山さんが文芸の世界から演劇の世界へと、
その足を踏み出す前年に書かれていること、
つまり、どこまでも受け身でしかない文芸作家ではなく、
積極的に世間に問題を突きつける「行動者」として、
演劇の世界に身を投じる直前の、
「文芸との決別」のために書かれたものだという私見と、
そして、わたしにとっては一番重要な事柄であった、
「新次」と「バリカン」という二名に分かれて書かれている人物は、
寺山修司の二面性を表したものであり、
二人は二人でありながら、
実は寺山修司という一人の人間を描いたものだということだった。
あくまでもわたしの創作上の設定に過ぎないことをご理解いただきたいが、
その見立ては確実なものとしてわたしの中にあった。
人間はそれほど単純な生き物ではないが、
大きく二つの面に分かれて(分裂して)いる。
それは未来を志向し、開かれたポジティブな自分と、
過去に拘泥し、内面に閉じこもろうとするネガティブな自分だ。
ネガティヴな部分に足を掴まれてしまえば、
人は前に進むことが出来ない。
「明日」へと胸を張って進むためには、
ネガティヴな自分は殺してしまうしかないのだ。
「だから、二人は二人だけれども、同じひとりの人間なんだよ」
とわたしは言った。
当然、わたしにはわたしの、蜷川さんには蜷川さんの解釈がある。
稽古が始まり、蜷川さんの指示があれば、それは忘れてもらって結構という、
留保付きの、あくまでも戯曲を書いた人間としての意見だったが、
二人はわたしの話を真剣に聞いてくれた。
わたしはその事を決して忘れはしないし、とても感謝している。
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ここでマリーさんから聞いた話が二人の役作りの核になったのは、
間違いないのではないでしょうか。
「新次とバリカンは寺山修司の二面性を表したものであり、
二人は二人でありながら、実は寺山修司という一人の人間を描いたものだ」
という解釈はとても腑に落ちるものがありました。
正反対の性格と容姿なのに、まるで兄弟のように仲の良かった新次とバリカン。
やがてバリカンはジムを去り、
新次に「殺される」ために、対戦相手としてリングに上がる。
そして衝撃のラストシーン、
新次は自分の「半身」に向かってパンチを繰り出し続け、
リングはまさに荒野と化します。
といっても、これは原作の話で、
私は「あゝ、荒野」の舞台を観てないんですよね。
だから実際の舞台がどんな感じだったかは知りません。
さいたま芸術劇場が取れなかった時点であきらめてしまったことには、
忸怩たる思いがあります。
あれから6年あまりが立ち、
映画版「あゝ、荒野」が公開されるタイミングで、
小説と戯曲の両方を読んだのですが、
別の人物が執筆した2つの作品にはさまざまな違いがあるにも関わらず、
世界観が完全に一致していることに驚きました。
というより、
寺山修司のエッセンスが色濃く出ていたのは、
むしろ戯曲版の方だったかもしれません。
そして、そこにがっちりとはまり込む「新次」は、
紛れもなく、潤くんの「新宿新次」なんですよね。
そのイメージがあまりに強烈すぎて、
結局、「あゝ、荒野」の映画は観に行くことができませんでした。
映画版がどんなに素晴らしい出来だったとしても、
マリーさんの戯曲にぴったりの「新宿新次」は、
潤くんのような気がします。
マリーさんの率直な舞台への感想を読んで、
さらにその思いが強くなりました。
あの舞台の感動を、どのように表現したらいいのか判らない。
評判はもちろん良いものだったし、
好意的な舞台評も新聞に載った。
テレビなどでも大きく取り上げられたらしい(わたしは観ていない)。
しかし、そうした外部の反応など、わたしには関係がなかった。
やがてメインキャスト達も舞台に登場し始める。
一糸乱れぬダンスシーンの後に、
数多くのネオンや装置が上方から降りて来て、
そこは「架空の新宿」となる。
本物のパワーショベルが舞台に登場し、
そのショベル部分に乗った歌手が歌を歌い始める。
そして、主演の二人が登場するのだが、
そこに居たのは、アイドルでも俳優でもなく、
まさに「新宿新次」であり「バリカン」だった。
特に、本物の軽トラックの上にすっくと立ったまま登場した、
その新次役の「彼」の姿は驚嘆すべきものだった。
個々のシーンの詳しい描写は避けるが、
やはり、忘れられないのは二人の対決シーンである。
セリフなどは一切ない。すべては肉体表現に委ねられる。
殺陣が付いているとはいうものの、
激しい動きの中で、どうしてもパンチはヒットしてしまう。
実際に二人の体には打たれた跡が赤く浮かび上がるのだ。
そのリアリティには凄まじいものがあった。
本当のボクシングの試合を観ているような興奮を覚えた。
ラスト、倒れて死へと旅立つ「バリカン」を抱きしめて、
「新次」は絶叫する。
もうひとりの自分の死を見つめての慟哭だ。
彼は自分自身を抱きしめている。
自分自身の死を悼んでいる。
それは、誰もが生きる上で必ず行わなければならない、辛い通過儀礼だ。
カーテンコールで、劇中死闘を繰り広げた二人は、
まるで仲の良い子ども同士のように戯れあいながら客席の歓声に応える。
死を通り抜けた後、ふたつに分かれた魂がもう一度ひとつになったように。
青山劇場での千秋楽のカーテンコールでは、
「赤い紙吹雪」がサプライズで降ってきた。
キャストにも知らされていなかったようで、
舞台上にも新鮮な驚きが溢れているのが窺えた。
その赤は、二人の血の赤である。
そしてその赤が照明によってキラキラと輝きながら舞台に降り注ぐ。
二人の血を祝福し、労うかのように。
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「あゝ、荒野」のステージを、あれこれ想像するのは楽しい。
私の中の新次はスポットライトを浴びて叫び、躍動します。
今では、それはそれでいいかなーとも思ったりもします。
でも、また潤くんが舞台を出る機会があれば、
今度は客席に潜り込めるといいですね。
なお、太字の部分は抜粋となっていますので、
是非、マリーさんのブログ全体を読んでみて下さい。