
秋の陽が傾きはじめ、カフェ・エンバースの窓から淡い橙色の光が差し込んでいた。
昼間の喧騒はすでに落ち着き、店内に残っている客もまばらになっている。
フィリスはカウンターの内側で今日の仕込みを終え、考え込みながらカップを磨いていた。
「やっと定期試験、終わったーっ!」
窓際の席で、サクが両腕を高く上げて思いきり伸びをする。
椅子の背もたれがぎしりと鳴り、その隣でエミがくすくすと笑った。
「二人とも、お疲れさま。」
緋雀が、二人の前へティーカップを置く。
エミにはいつものレモンティー。サクのグラスからは、メロンソーダの氷がからんと音を立てた。
「手応えはどう?」
「めちゃくちゃいい!今回はいけた気がする!」
「昨日まで、現代文が無理だって焦ってたのにね。」
「エミに教えてもらったところが出たんだよ。だから、たぶん大丈夫!」
胸を張るサクを見て、エミがまた小さく笑う。
それから、カウンターにいるフィリスへ視線を向けた。
「フィリスは、何か考え事?」
「うん。結局、コアって何なのかと思って。」
カップを置いたフィリスは、口元に手を当てた。
一昨日、サクの胸元から現れた、小さな結晶。
コアを回収したあとも、サクの体調に変化はなかった。
魔力を持たないサクから生まれたにもかかわらず、体力や気力を消耗した様子もない。
「一昨日はサクから出てきた。でも、出現条件が全然分からないのよね。」
フィリスはしばらく考えたあと、サクへ顔を向けた。
「サク。もう一個、コアを出してみて。」
「えっ!?そんな急に言われても……。」
サクは困ったように眉を下げながら、胸の前で両手を構えた。
「う、うーん……。コア、出てこーい……!」
力いっぱい唸ってみるものの、当然、何も起こらない。
その必死な姿を見て、エミが口元を押さえて笑う。
つられるように、緋雀も小さく肩を揺らした。
しかし、フィリスは一緒に笑っている場合ではなかった。
ようやく一個目を見つけたものの、残りは九個。次のコアが見つかる目処は、まるで立っていない。
「そうよね……。」
フィリスがため息をつくと、なぜかサクとエミも同じように肩を落とした。
「緋雀は、コアが出てきたときに何か感じなかった?」
「何も。魔力とは、違った。」
緋雀は静かに首を振る。
「じゃあ、サク。コアが出てきたときのことを、もっと詳しく教えて。」
「えっと……助けてもらえて、エミにハンカチを返せて、それで……。」
サクの視線が、隣に座るエミへちらりと向く。
「嬉しかった、かな。」
「嬉しいと出るのかしら。でも、それだけなら今までだって、誰かが喜んでいる場面くらい見ているはずよね……。」
再び考え込んだフィリスを、緋雀が心配そうに見つめる。
やがて何かを決めたように厨房へ引っ込み、湯気の立つ皿を三人分運んできた。
「おっ、美味しそう!」
皿に盛られたミートスパゲッティを見て、サクが目を輝かせる。
温かな湯気とともに、トマトソースとひき肉の香ばしい匂いが広がった。
「フィリスも、エミたちとご飯食べて、休憩して。」
「もう少しで閃きそうな気がするの。私はあとで――」
「朝、少ししか食べてない。それに、早く食べないと、冷める。」
「う……」
緋雀はフィリスの前へ、最後の一皿を置いた。
「フィリスの、大盛りにした。」
エミとサクの皿に比べて、倍近い量のパスタがこんもりと盛られている。
ソースの絡んだ麺の上で、粉チーズがゆっくりと溶けていく。
(美味しそう……!)
香りに刺激され、空っぽだった胃が急に存在を主張し始めた。
ついさっきまで考えていたことが、頭の隅へ追いやられていく。
「座って、一緒に食べよう?」
エミに手を引かれ、フィリスは観念して隣の席へ座った。
それを見ると、緋雀はそのまま厨房へ戻ろうとした。
「ちょっと。緋雀の分は?」
「お皿、洗ってからーー」
「早く食べないと冷めるって、今あんたが言ったんでしょ。自分にも同じこと言いなさい。」
緋雀は少しだけ目を丸くした。
「ほら。緋雀も座って、一緒に食べるわよ。」
「……うん。」
緋雀は困ったように、それでもどこか嬉しそうに頷くと、厨房からもう一皿を持ってきた。
フォークで巻いた熱々のパスタを頬張る。
トマトの酸味と肉の旨味が口いっぱいに広がり、冷えかけていた身体まで温まっていく。
「美味しい……!幸せ……!」
「フィリスの幸せって、安いな。」
「あんたに言われたくないわよ。」
サクに言い返しながらも、フォークを動かす手は止まらない。
その食べっぷりにエミとサクは目を丸くしていたが、緋雀だけは満足そうに微笑んでいた。
しばらくして、エミがふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、あのシスカって子も魔術を使っていたみたいだけど、フィリスの知り合いではないんだよね?」
「知らないわ。正規の許可を受けて人間界に来ている魔術師なんて、実習中の学院生くらいしか知らないのよね。」
フィリスはフォークを置き、一昨日の出来事を思い返した。
黒いコートを着た少女。
手にしていた小さな宝箱と、青い魔石が光る細身の小さな杖。そして、途中で取り出した首飾り。
あれはどれも。
「……魔工具だったわ。」
呟きが、穏やかな店内へぽつりと落ちた。
そして、シスカは言っていた。
魔力さえ集めれば、“あの方”が願いを叶えてくれる、と。
(あの方って、誰なのかしら。)
シスカに魔工具を渡し、人間から魔力を集めさせていた者がいるのかもしれない。
「まだ仲間がいる可能性もあるわね。シスカは、あれからどこへ逃げたのかしら。」
「あれ?」
同じように考え込んでいたエミが、不意に首を傾げた。
「そういえば、あの宝箱って、そのあとどうなったの?」
「そういえば……。」
フィリスは腕を組み、記憶を辿った。
宝箱を開け、奪われた力を戻した。
サクが目を覚ました。
その直後、コアが現れてーー。
「初めてのコアに夢中で、すっかり忘れてたわ。」
(もしかしたらまだあの堤防に……。)
そこまで考えたところで、フィリスははっと顔を上げた。
堤防を離れたあと、緋雀は確かにこう言った。
“忘れ物”をした、と。
「ねぇ、緋雀。」
名前を呼ばれた緋雀の肩が、ぎくりと跳ねた。
「もしかして、忘れ物って……まさかとは思うけど。」
「……ごめん、なさい。」
緋雀は身体を小さくし、気まずそうに目を逸らした。
「何がよ。」
「でも、コアとは関係ない、から……。」
「やっぱり持ってるのね?」
フィリスが椅子から身を乗り出す。
「関係なくないわ。アストラシアの魔工具で、人間界の人が被害に遭ったのよ。
魔術で対抗できる私たちが、どうにかしないと。」
「拾って、警察に届ける、つもりだった。」
「一昨日から?まだ届けてないの?」
フィリスが目を細めると、緋雀の視線が床を泳いだ。
「……アストラシアの警察に、届けないと意味ないと、思って。」
「それはそうだけど。いつ届けるつもりだったのよ。」
「機会、見て……。」
「ふーん?」
何かを隠しているような気がする。
けれど、人間界とアストラシアを軽々しく行き来できない以上、渡す時機を考えていたというのも、分からなくはない。
それより今は、魔工具を調べる方が先だ。
「早く出してちょうだい。」
緋雀はフィリスと床の間で何度も視線を往復させた。
やがて逃げ切れないと悟ったのか、おずおずと一昨日の宝箱と、細身の杖を取り出してテーブルへ置いた。
「触っても大丈夫なの?」
エミが心配そうに覗き込む。
「もう、魔力残ってない。発動しない。」
緋雀の言葉を聞き、フィリスは慎重に杖を持ち上げた。
夜の堤防では杖に見えたが、明るい店内で改めて見ると、ずいぶん細くて短い。
青い魔石の周囲には銀色の細工が施され、先端からは小さな飾りが垂れている。
「あれ?これ、杖じゃないわね。」
フィリスは道具をくるりと回した。
「簪だわ。」
シスカが杖のように振っていたため、すっかりそう思い込んでいた。けれど実際には、髪を飾るための簪だったらしい。
「さっきから言ってる“魔工具”って、どんなもの?」
サクがおそるおそる手を上げた。
「フィリスが持ってる杖とは違うの?」
「それ、私も気になってた。」
エミも真剣な顔で頷く。
「魔工具っていうのは、魔石を組み込んだ道具のことよ。魔石には魔力や魔術を込めておけるから、必要なときに取り出して使えるの。」
フィリスは指先で、テーブルに置かれた簪を示した。
「炎の魔術を込めて火を起こしたり、光の魔術を込めて夜道を照らしたり。日常生活で使う物が多いわ。」
「便利じゃん。オレも欲しいなぁ。」
「話は最後まで聞きなさい。人間界へ勝手に持ち込むのは禁止よ。」
サクが伸ばしかけた手を、慌てて引っ込める。
「私たちの世界でも、全員が魔術を使えるわけじゃないの。だから、起動させるだけなら魔力を持っていない人でも使えるように作られた物もある。」
「じゃあ、あのシスカって子も?」
「ええ。自分の魔術ではなく、魔工具に込められた魔術を使っていたんだと思うわ。」
フィリスが答えると、緋雀が小さく頷いた。
「シスカから、魔力は感じなかった。多分、人間界の人。」
「やっぱり……。」
人間界の少女が、アストラシアの魔工具をいくつも持っていた。
となれば、シスカへ魔工具を渡した者がいる。
おそらく、彼女が口にしていた“あの方”と無関係ではない。
「魔工具には、護身用や戦闘用の物もあるわよ。防護壁の魔術を込めたアクセサリーとか、魔力を通すことで強度を増す武器とかね。」
それまで黙って話を聞いていた緋雀が、袖から一本のナイフを取り出し、テーブルへそっと置いた。
「これも、魔工具。」
赤い魔石を削り出した刀身が、陽の光を受けて熾火のように輝いた。
「綺麗……。」
エミとサクが、揃って息を呑んだ。
フィリスはその反応に、なぜか少しだけ誇らしい気持ちになった。
「そうでしょ。これは魔石そのものを加工して作った武器よ。魔力を通せば、普通の刃物よりずっと強くなるの。」
フィリスの視線が、懐かしいナイフの上で止まる。
「警察官だった父が使っていたの。魔工具には、こういう武器もあるわ。」
「緋雀は持ち込んでも大丈夫なの?」
エミが尋ねると、緋雀は平然と頷いた。
「許可、もらってる。」
「人間界へ持ち込める魔工具は、事前に登録して、特別な許可をもらった物だけよ。」
緋雀は宝箱と簪へ目を向けた。
「これは、許可得てない魔工具。」
「誰かが許可を得ずに、持ち込んだということ?」
エミが顎に手を添えて考え込む。
「多分。でも許可なしで、持ち込むの、ほぼできない。入界規制、厳しいから。」
緋雀が首を横に振った。
フィリス自身も実習へ来る際、王国上層部から発行された許可証を学院から渡されている。申請すれば誰でも簡単に得られるようなものではない。
「そうね。シスカは人間界の人みたいだし、自分でアストラシアから持ち込んだとも考えにくい。」
やはり、誰かが彼女へ渡したのだ。
そこまで考えたところで、フィリスはふと眉を寄せた。
「そういえば、緋雀。」
「……何?」
「なんで、これが許可を得てない魔工具だって分かったの?」
「……へ?」
緋雀の目が一瞬だけ丸くなった。
すぐに視線が泳ぎ、テーブルの上の簪へ落ちる。
「許可得た魔工具、印がある。これには、ない。」
緋雀が自分のナイフに手を翳すと王国の紋章がふわっと浮かび上がった。
それから簪の方にも手を翳すが何も起こらない。
驚いて自分の杖も確かめる。確かに紋章が浮かんだ。
「そんなことまで知ってるの?」
「入界するとき、教えてもらったから……。」
「ふーん。私、聞き逃したのかしら。」
「たぶん……。」
緋雀は神妙に頷いた。
どうやら、うまく説明できたと思っているらしい。けれど、答えるまでに妙な間があったことを、フィリスは見逃さなかった。
(やっぱり、何か変ね。)
気にはなる。
けれど、フィリスの関心はすぐに、目の前の魔工具へ引き戻された。
簪を、宝箱の隣へ置く。
「宝箱に、首飾りに、簪……。」
シスカが使っていた物を、ひとつずつ思い返す。
宝箱には、草花を模した繊細な彫刻が刻まれている。簪にも、小さな花をかたどった銀細工が施されていた。あの夜に見た首飾りも、淡い色の石をあしらった美しいものだった。
どれも、人を傷つけるための道具には見えない。
むしろ、大切な誰かへ贈るために作られた品のようだった。
「変ね。あれだけ危険な魔術が入っていたのに、最初から武器として作られたような物が一つもないわ。」
フィリスの呟きに、エミも真剣な顔で魔工具を見つめた。
「アクセサリーとして持ち込んで武器として使っているのかな。」
「まだ分からない。でも、シスカ単独ってわけではなさそうね。」
「私にも、何か手伝えることある?」
エミが顔を上げる。
「手伝ってくれるの?」
「うん。フィリス、あと九個もコアを探さなきゃいけないんでしょう?この魔工具も手掛かりになるかもしれないなら、私も力になりたい。」
「オレも手伝うよ!」
その言葉は、素直に嬉しかった。
けれど、エミとサクを危険な事件に巻き込むことは、フィリスの望みではない。
「じゃあ、光る石や、変わったアクセサリーの噂を聞いたら教えて。それだけで十分よ。」
「うん、分かった。」
「ただし、自分で危ない場所へ調べに行ったり、怪しい人についていったりするのは絶対に駄目だからね。」
フィリスが念を押すと、エミとサクはもう一度、しっかりと頷いた。
窓から差し込む夕陽が、テーブルに並んだ簪と宝箱を照らす。
柔らかな光の中では、それらは一昨日、人を傷つけた道具だったとは思えないほど、美しく見えた。