今年は能登半島地震が元日におこりました まだお水さえ通ってなく全く見通しが立たない方々もいらっしゃるようです
政府には一刻も早く被災された方々の対応をきちんとしてほしいと切に願います


あれから13年経ちました
13年前の3月11日・金曜日
私は当時保育園に勤務していました
静岡中部地区 海沿いの園
その時間は急にやってきた
子ども達が午睡から起きる時間
私は職員室にいました
園舎は当時5年前に建て替えた園舎です

地震県なので耐震性にすぐれた作りでも
揺れた 揺れた
私が生きて来た中で一番揺れた
それも長い間ずっと揺れた
感じた事がなかった揺れだった

その日は主任が研修で東京に
出張だった
私は最初に地震の大きさを確認した
宮城県沖で震度7が起こった情報
それに関する揺れとのこと

私は放送を入れるのを
考えたー訓練でなく凄い揺れで
園児たちもびっくりしていると
思ったからだ
放送だけで泣く乳児さんもいるから
大きい紙にマジックで
最初の情報を書き
各保育室をまわった

保育室では
いつもの訓練のように
職員が自分のクラスの子どもを
守るためにテーブルの下に
子どもたちを入れ
じっとしていた
とても静かで
緊張感がすごかった
保育士の所にいき紙をみせた
先生達はうなづいた
私はあえて笑顔で返した
若い先生は明らかに
動揺していたからだ
大丈夫、落ち着いてと先生達に
思ってほしかったからだ

そして次は避難する場所を
考えた
揺れはありがたくおさまっていた
しかし次の情報で
津波注意報がでた 海沿いだからだ
上の階に避難するようにした
放送を入れる

「保育園のお友だち
○○先生です 
今 ゆれたね
びっくりしたおともだちもいたね。
でも、 だいじょうぶ
せんせいたちがいるからね。
それと みんなのほいくえんは
つよいたてものなの
おへやのせんせいのおはなしを
よくきいてね
だいじょうぶだからね」と
子ども達に向けてまず放送、
次に職員に向けて避難場所は
何パターンかあり訓練していたので
避難をする場所を
番号で手短に知らせたー番号化してあったのだ。

その直後垂直避難が始まった
私も乳児クラスにいき
笑顔で手伝った
(エレベーターは使わない様に
なっていた 停電に備えて)
明らかに不安そうな若い職員には
子ども達にわからないように
耳うちし 「先生が不安な顔すると子どもが察知するからね」とその職員の肩に手をあて言った
垂直避難がおわり各クラスの点呼をし全員避難を確認した

午後のおやつを食べさせた
乳児のミルクも確保し
そして情報を集めた
J R東海道線が止まっている事をしり、栄養士さん達に
もしもお迎えに来れない子ども用に夕食、朝食の材料を購入しにいってもらった。
勿論避難食は備蓄してあるが、
ありがたく ガスや電気などは
私たちの地区は大丈夫だったから
暖かい何時もの給食をあげたかった出来るだけ何時も通りを心がけた

保護者向けに一斉メールを
出すか?難しかったが出さない判断をした
お迎えメールを出しても足留めされている保護者様が園に電話して
くださるのが予想できたからだ

もしかしたら次の揺れが来るかも
しれない子ども最優先にして大人の手を多くした事務の職員も全て電話はいつでも出れる様に子機を持って

午後4時前から職場が近い保護者様はお迎えに来てくれ始めた
お仕事は会社の判断で早く終了
したとの事
津波注意報が津波警報にかわり
サイレンが流れていた
先生たちの配慮で絵本を読んだり
手遊びしたり いつもの子ども達の顔になり少しほっとした

午後5時になると園児は半数に減っていた。
パートの先生には帰ってもらうようにした それぞれお子さんもいらっしゃる きっとご自分の子どもさんの事も心配だったはずだ
労いの言葉をかけた
午後6時になると1/4の園児数になった、祖父母様がお迎えにきてくれたご家庭もありありがたく思った
ここで正規職員に交代で自分の携帯から電話をして下さいと指示が初めて出せた
職員も家族が気になっているのは
痛い程わかっていた 私もそうだったから
職員が家族と皆連絡がとれ無事がわかりほっとした

最後に私の番だ1人で心配だった
父に電話した
すぐ繋がり無事である事がわかり安堵した、 保育園第一で連絡が遅くなった事を話したら父もわかっていたから大丈夫だと言ってくれた
娘たちは止まっているJ R東海道線を利用して学校に通学していた同じ学園の中等部、高等部だった
娘の携帯は何回目かにしてやっと繋がった

学校の先生は電車が止まっていたら学校に戻って来て良いと下校させたらしいが姉妹揃って静岡駅にいて電車再開を待っている
地元のバスは動いていない
バスでも帰れるのですが...
タクシーも動いていない...

駅の何ヶ所かあるカフェは人が溢れて入れない、携帯用の充電最後の2つを購入出来たと言っていた。
疲れて駅の階段に座っているとの事とりあえず無事で2人でいるからとの声に少し安心
お母さんは保育園の最後の子どもを無事帰すまでは貴方達をお迎えにいけないと言ったら娘たちは2人だしたくさん人がいるし大丈夫だと言ってくれた
主人も無事であるが道路渋滞が酷いとの事、とりあえず私の家族も無事だといったら職員も皆安心してくれた。

午後7時夕食を給食の先生が出してくれたこの時120名の園児が5名になっていた(電車通勤の方々だ)
田舎なので車通勤の保護者様が多いのが幸いした
電車通勤の方も知り合いの方々に
車でお迎えに来てもらった様で
皆さんありがとうございますと
言ってお子さんを迎えに来て下さいました
そして午後9時17分最後のお迎えがあり無事にお子さんを保護者様に引き渡す事が出来ました

良かった、本当に良かった

園児全員無事に保護者様に手渡せた
職員に労いと感謝をして仕事を終わる事が出来た
職員が全員帰り私も自分の車に乗った
安堵したが今度は娘たちの所に行かなければならない

母の顔になり今度は娘たちに電話した
仕事が終わったから今から迎えにいくと話すと 先程とは打って変わって凄い嬉しそうな声になりほっとしたようだった
迎えの時間は普段の3倍はかかったが後に首都圏の様子をしり恵まれていたと感じた
国道を走って娘たちをお迎えに行く際消防車が何十台とサイレンをならし進んで行った
静岡からも被災地に応援に行くと
早く行ってあげて下さいと皆道を当たり前だが譲った

迎えにいったら娘たちは喜んだあとカフェがいっぱいでコンビニも何も食品がなくてお腹が空いたと言っていたので
私はこちらのコンビニで購入した
おにぎりを渡すと2人でパクパク食べていた

ちなみに私はお昼11時半の給食から何も食べていなかった
でもお腹もすかなかったからだ
父と主人に娘たちを車に乗せて帰る連絡をいれた
主人には帰ったら父と一緒にいてもらうようになっていた
2人とも良かったと安堵していた

家に帰ると12時をすっかり過ぎていたが東日本の方々を思うと私のこの1日なんて何の事はないと思った

東日本の保育園は誰一人と犠牲者を出さなかった事、後に研修でも課題になりました。
幼稚園と保育園勤務を交互にしていた私、あちらの幼稚園では降園の時間と重なり悲しい事が起きてしまった事も考えさせられました

あの日、東日本で子ども達を何日間も守った先生方に敬意をずっと持ち続けています


毎年今日になるとあの日の私を思い出します。
今日は午後2時46分に黙祷をします

🙏