もうだいぶ記憶も薄れてきていますが、自分がサメタイプと分かって色々謎が解けてきました。

 

高校時代を振り返りましょう。

 

まず、休みがなかったですね。早朝から補習。

補習とは名ばかりで、普通に授業。なので全生徒参加。

夏休みも毎日2時間補習。林間学校もあったし、夏休み後半は体育祭の練習も加わりました。

 

当時、補習のある学校なんて別に珍しくなかったと思いますけど、

もともと覇気のない元気がない人間ですので、1年の2学期辺りで疲労がたまってきました。

その辺で、こんなのがあと2年も続くの?無理だなって思った記憶があります。

 

三陽高校は個性的で厳しい先生が多かったです。授業は常に緊張感がありました。

でも今思えば緊張感の高い授業が苦手で。1年の時は特に古文。

一文一文品詞を言わされる。間違ったら「立っとけ」。

だんだん古文の授業をさぼるようになつた時、廊下を歩いてたら古文の先生に見つかって、

ヘッドロックをされました。

「何で授業に出ないんだ?」私は「すいません」と愛想笑いをしてたと思います。

 

体育の授業も私に微妙な影を落としました。

当時まだ27歳くらいだった剣道部の顧問の先生は、最初は優しかったのですが、

途中からいきなり厳しくなりました。いや厳しいんじゃない。感情的なのです。

それがすごく嫌でした。

生徒間では恋人と破局でもしたんじゃないかと噂してました。

 

で、この2学期辺りから記憶力が弱くなりました。

テストは何とか持ちこたえていましたが、勉強が大変でした。

「覚えられないという事は、やる気がないからだ!」

と直接は言われませんが生徒全員にお説教が来て、それを正面から受け取りました。

当時は何でも「やる気がない」で片づけられましたね。

 

朝起きるのもつらくなってきました。起きた時が一日で一番疲れていました。

 

3学期~2年進学時はほとんど記憶にない。春休みの補習を全部さぼったことは覚えています。

 

中学校からやっていたことなんですが、学校をさぼる=自分に罰を与えるという事で、

翌日心が安定して学校に行けたのです。

 

2年が始まって、補習に行かなかったの怒られるかな、と覚悟していましたが、

何も言われませんでした。逆になんか言って欲しかったなあ。

 

ここから英語が厳しくなりました。

英語の担当は前の学校で生徒をバンバン落第させたことが自慢の嫌な先生でした。

毎日プリントが出て、それをやってこないと落第させると脅されました。

めちゃくちゃ大変でした。英単語が覚えられないので片っ端から辞書を引きまくりました。

途中で、落第してもいいやと諦めましたけどね。

授業も嫌な授業で、「○○の形容詞系、言ってみろ」と言われて答えられなかったら、

「お前○○大狙ってるんだろ?そんなことも分からないのか」と嫌味を言われました。

もちろん、その言葉をまともに受け取り、自分を攻めました。

そんな授業など受けたくなくなり、しかし避けることが難しいため、学校に行かなくなりました。

 

心配してくれた担任は、私を野球部に入れてくれました。運動すれば気持ちも晴れるだろうと。

そういう問題ではないんだけどな。

先生がキャッチボールの相手をしてくれました。

そこで先生から、「希望する進路は、お前に合ってない」と言われました。

うん、とっくに気づいてたよ。目標は高い方が良いと思ってただけなんです。

元々やりたいこと、好きな事なんて何もないんだから。(いまだにない)

そんな事より、自分自身でも屈辱的な現状に打ちのめされてました。

 

記憶力がいよいよやばくなりました。物理の公式が全く覚えられない。

 

友達との関係も難しくなりました。死んだ顔で教室にいるもんだから避けられてたんだと思います。

 

秋の修学旅行は行きました。担任から言われて。何か好転するかもしれないと淡い期待もあって。

たまにしか学校に来ないやつが、なに修学旅行だけ来てんだよって話で、恥ずかしかったです。

でも、クラスメイトは何事もなかったように接してくれてました。

なんていい奴らなんだ。だから私も頑張って、元気に振舞いました。

 

淡い希望も実らず、その後全休。留年決定。カウンセリングに通い始めました。

 

 

2回目の2年生。色んな先生が励ましてくれました。

勉強は去年と同じなんだから、前半はは楽に行けるだろうからなんとかなる、と思っていました。

残念。記憶力が無かったのでした。あれ?同じようなところで躓いてる。既視感。

 

この学年は数学が厳しかったです。生徒全員が順番に黒板に問題の解答を書かないといけません。

分からなかったらこっぴどく叱られます。

その緊張にだんだん耐えられなくなりました。

2回目なのに分からないというショックもありました。

 

丁度そのころ、前年に嫌だった英語の先生に出くわしました。

その先生は私を見るなり、指をさして大笑いしました。

プチンと私の中で何かが切れました。もう学校へは行けなくなりました。

 

この辺りで、当時の担任が家に来て色々話してくれました。寮に入ったらとか言われた気がする。

私はのらりくらりとはぐらかして本当のことは何も言わなかったなあ。

疲労疲弊していて、過度の緊張にもう耐えられないなんて恥ずかしくて言えないじゃないですか。

そこのところの根本原因を自分ではっきり認識していたか、どうだったかなあ。

 

以上、地獄の三陽高校でした。

 

そういえば、退学後、在学中にどの科目の単位を取ったかの証明書を学校から送ってもらわないといけなかったのですが、中々送ってもらえず困りました。

退学した生徒のことなど、後回し後回し!

 

今思えば、私のその後を少しは心配してもよさそうなものなのに、

学校からは一切何にもなかったなあ。

そこのところは、学校といえど金の切れ目が縁の切れ目のシビアな世界。

心配の連絡なんかされたらすごく嫌だったとは思うけど、そんなもんなんですね。

 

この話で一番の後悔は、復学してしまったことです。

かえって傷を深めてしまいました。誰か止めてくれよ。完全に限界だったでしょう。

多分私の「もう大丈夫だ」という演技にみんな騙されたんです。

カウンセリングの先生も。

 

この日本では、私自身も、親も誰も学校へ行くという「正義」には抗えない。

いじめられっ子が〇ぬまで学校に通うのはそういう事だから。

あの子たちは、大抵部活にまで入ってるんだからなあ。

教室でいじめられ、部活でいじめられてもなお学校へは通ってる。

 

好きだったドラマ、ダーマとグレッグ。

主人公のダーマは、学校へは通わずヒッピーの両親に教育を受けています。