1990年12月10日

 

 

 

 

 

この本はかなりの難産であった。

 

 

 

 

まず、待ったなしの竹中労氏の病状。

 

 

 

 

「胃がんはレーザーで焼いて退治したんですけど、肝臓がんが見つかって、糖尿病、肝硬変の3点セット。」(竹中労・無頼の墓碑銘)90年4月当時。

 

 

 

 

「医師は、淡々と言うより無愛想に、「5年のプロバビリティしかありませんな。」と答えた。」(たまの本)

 

 

 

 

「竹中さんの横にはつねに医者とナースがぴったり張り付いて様態の確認をしながらそれは行われた。」(石川浩司・「たま」という船に乗っていた。)

 

 

 

 

それから、たまの激務ぶり。

 

 

 

 

「超人的というも愚かな強行軍」「名古屋の時は、おそらく疲労は絶頂に達して、口をきくのも彼らは億劫だったのだ。」(たまの本)とインタビューに支障をきたしている。

 

 

 

 

マネージメントの不手際!!

 

 

 

 

「たまの秘密は月刊カドカワにしか明かせない」という記事が、「月刊カドカワ」に掲載された。これにより当初予定していた内容は変更を余儀なくされ、入稿が1ヶ月遅れた。竹中氏は激怒するも、責任の所在は明らかにならず。

 

 

 

 

「宝島」のたまと宮永正隆氏の連載、「月刊たまぷくろ」の記事(楽器紹介)も「たまの本」と重複してしまった為、代わりに長い後書きを書かねばならぬ羽目になった。

竹中氏は悪化する病状の中、疲労困憊。

 

 

 

 

もし、当初の予定通りに出版できていたら、たま結成の日でありイカ天初出場日でもある、11月11日に出版出来ていた可能性がある。書きながら気が付いた。