階段で一階へ降りる。
エントランスの前には芝生のスペースが広がっている。
昨年、ここを駐車場にするかどうかで会合があった。
車を持っていない住人と建設費の負担で揉めている。
そんな芝生スペースに古びた木製ベンチがある。
村上秀昭が座っている。
今日も紺のパーカーとデニムだ。
後ろから声を掛ける。
「村上さん、初めまして。茜ちゃんを預かっています島浩明と申します」
「あ、どうも。娘がお世話になっています」
にこやかに立ち上がった男は前髪が伸び放題だが垂れた目のせいか笑顔を見る限りとても人がよさげに見えた。
礼儀正しさも手伝ってこの人が自分たちを誘拐犯と吹聴しているとは俄かに信じがたい。
「あの、一つ質問があります」
「なんでしょう?」
「昨日杏子が引き揚げてから団地の主婦と何を話してたんですか?」
「え?それはどういうことで?」
「聞きましたよ。私たちが茜ちゃんの誘拐犯だって言ってたそうじゃないですか」
「言ってませんよ。ただ誰かがうちの茜をさらって行ったので行方不明になっていたと言っただけです」
僕は確かに江藤さんから聞いたのだ。
江藤さんは口は悪いが悪意のある嘘をつくような人じゃないことは分かっている。
この人が嘘をついてるに違いない。
ごまかしで逃げようったってそうはいかない。
浩明は抗議した。
「そうですか。私たちはね、茜ちゃんが倒れていたところを助けた縁で児相の方の了解を得て保護しています。誘拐だなんだと触れ回るなら児相を通じて訴えますよ」
「だから違いますって。誤解ですって」
男は低姿勢で謝った。
「そうでしょうか。私は信用置ける主婦から聞きましたよ。親切で預かっているのにあんまりですわ」
杏子も抗議する。
「違いますって。誤って伝わってるだけですよ。むしろ私は保護していただいて感謝してるぐらいです。なんでそんなこと言う必要があるんです?」
ずるいのか頭がキレるのか知らないがごまかし方も上手い。
「もういいです。結論を言いますね。児相の方が判断を下したいと言ってますので私たちはこの件を保留したままにします」
「え?実の親が引き取りに来たのにですか?そりゃ親権はありませんが実の親ですよ。あなた何の権限があって・・・」
「だから、私たちではなく児童相談所の方と話し合ってください」
「児童相談所がうんと言えば引き取っても構わないんですね」
男の目がズルそうに光ったのを浩明は見逃さなかった。
杏子が不安そうに浩明を見た。
「そうです」ときっぱり言う浩明の袖を引っ張る杏子。
「いつ返してくれるんですか?」
「さあ?それは児相の方と・・・」
団地の主婦が遠巻きに見ているのを秀昭が確認してからまた土下座した。
そうして大きな声で主婦たちに聞こえるように言った。
「お願いします!娘を返してください。大事な一人娘なんです!わあぁ~ん」
なんと泣きまねまでしだしたのだ。
「やめてください」
「じゃあ返してください」
「だから児相の判断次第です。それまで返せ・・・」
「わあぁ~~ん」
またも大泣きする秀昭。
それを見て主婦たちがひそひそと話す。
「連絡するんで名刺とか無いですか?」
「今失業中でありません」
「スマホは?」
浩明は秀昭のスマホを受け取ると自分の電話番号を打って自分のスマホに掛けた。
「後で登録しといてください」
すると秀昭はまたも大きな声で芝居をした。
「ありがとうございます。娘を返してくれる約束を守ってくださいね!」
もう相手にするのも馬鹿らしい。
「帰ろう」
秀昭を振り返りもせず浩明と杏子は団地に消えた。
「ありがとうございます」またも土下座して見送る秀昭。
しかしその顔は歪んで舌を出していた。
「バーカ」
「あんな約束して大丈夫なの?」
「中田さんなら心配ない。しかし難儀な人やな」
気分が悪いが茜を不安にさせまいと元気に戻る浩明と杏子。
「ただいま」
「おかえりなさい。怖かった」
茜は一部始終をカーテンに隠れて見ていた。
「あのね、あの人じっと私のいる部屋を見上げてたの」
「安心して」と杏子は茜を抱きしめた
続く

