マッド・ドッグ(狂犬) | ぶり~でん 哀愁の“No.44”

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1988年ロッテにメジャー首位打者4回のメジャーリーガー、ビル・マドロックが入団しました。




マドロックは1969年カージナルスから11巡目指名をされるもののこれを拒否、翌1970年セネターズ(現レンジャーズ)から5巡目指名され契約を結びました。

メジャーデビューは1973年で、ペナント終盤戦の21試合で85打席(77打数)と少なかったものの、打率.351(出塁率.412)となかなかの結果を残すものの、その年のオフシーズンにカブスへトレードされました。



カブスでは正三塁手の座を奪い取り、3割以上の打率をキープしました。

1974年にはナショナル・リーグ新人王投票で第3位、1975年にはナショナル・リーグの首位打者になり、更に1976年も2年連続の首位打者を獲得。

1981年、1983年にも首位打者に輝くなど、正確無比バットコントロールで大リーグを代表する好打者となりました。

カブスを去った後はジャイアンツ(1977-1979年)、パイレーツ(1979-1985年)、ドジャース(1985-1987年)、タイガース(1987年)と数々のチームを渡り歩きました。




マドロックがメジャーに在籍した1973年から1987年の間に、ナショナルリーグ首位打者になった右打者はマドロックの他にいません。

三塁手として4回の首位打者は、1988年にウェイド・ボッグス更新されるまでメジャー歴代最多でした。

1970年以降に4回以上ナショナルリーグ首位打者になった選手は、現時点で他にトニー・グウィン(8回)のみです。

既に述べたようにマドロックはさまざまな球団を渡り歩きました。

それは名前に引っかけたマッド・ドッグ(狂犬)という異名の通り恐ろしく短気暴れん坊という性格からでした。

球団からするとマドロックは大変扱いにくい選手で、判定を巡り審判にかみつくのはもちろんのこと、ブラッシュボール激怒してマウンドを急襲し罰金を喰らったり、春季キャンプでインタビューを受けている際に茶々を入れた同僚怒りクラブハウスで乱闘騒を起こすなど、まさに縦横無尽の暴れっぷりだったようです。

YouTubeさんからお借りしました 『Bill Madlock wipes out Tony Fernandez』



その頃日本プロ野球のロッテは1987年オフ、今まで大活躍したレロン・リー成績不振高齢理由として自由契約としました。


その大打者リーの後釜としてロッテが白羽の矢を立てたのがマドロックでした。



今考えると高齢からリーを解雇しておいて、故障を抱えている37歳マドロックを獲得するというのはどうかと思いますが、メジャーで首位打者4回!!という実績は当時それ以上のインパクトだったのでしょう。

メジャー最終年の年俸が85万ドル(当時レートで約1億1758万円)だったマドロック獲得のためにロッテが用意した年俸は1億3000万円と言われています。

成績が下降線をたどっており、次のチーム探しに難儀していたマドロックとしても最後の稼ぎ場としては最高の金額だったのではないでしょうか。

来日後本拠地となる川崎球場を訪れたマドロックはそのを見て50本は打てると思うとうっかり豪語してしまいました。

本来アベレージバッターではありますが、現役メジャーのプライドがそう言わせたのか、球団側も専用のロッカールームやら特別室やら作り出し、マドロックを高待遇迎える始末でした。

首脳陣ファンもマドロックの大活躍を期待してペナントに臨みますが、しかし打率は2割5分あたりをウロウロするばかりで一向に上がりませし、豪語した本塁打ももちろん打てません。

大きく膨らんだファンの期待はあっという間にしぼみ、マドロックへの非難へと変わってしまいました。

川崎球場の外壁には「マドロック立入禁止」とまで落書きされ、応援歌のサザエさんテーマ曲がかかるや否や罵声が飛び交いました。

そんなマドロックでしたが、近鉄とのダブルヘッダー、所謂伝説の「10.19」第2試合で本塁打をかっ飛ばしてしまい、ロッテファンのみならず近鉄ファン恨みも買ってしまうという皮肉な事態も招いてしまいました。




ただ日本ではメジャー時代のような狂犬ぶりはほとんど見られませでした。

力を抜くことなく試合に臨みセーフティバントを試みることもありました(ただ、本塁打に過剰に期待していたファンからはブーイングでしたが)。



活躍を見せられずに日本を離れることになりながらも、ボブ・ホーナーのように日本野球を嘲笑することなく、「日本の野球だって、十分立派にやっていると思う」と評していました。