四半世紀程住んだオランダ国境村Elmpt (Niederkrüchten)村は第3の故郷である。98年末にアウトバーンもオランダに繋がった。

住んでた年数からも、合唱を通じて知りあった其処此処の親父さん連中。建てた家近所の人達。隣故に揉めたり喧嘩したりしたが今思えば「恩讐の彼方」(地下室作成用ブロック等キットから自分でオーガナイズする、下方詳しく、)眼の前にはトウモロコシ畑後の更地。其処に穴掘らせ、測量士手配から始めた。新興住宅地域で近所も一緒に家を建ててたから皆「俺お前 duzenドゥーツェン、仏伊西ならtuで呼び合う仲間」( 動詞duzen <-- du  cf.英 thou )になる。近くの他人。僕の祖父は親父・母さん何方も大工の棟梁だったが、僕は(画・粘土塑像は漫画から何とか行ったが) 工作は苦手。結局同じ家造りキット組立中の「助っ人」夫婦をEx嫁が全部手引した。僕はお手伝いに徹する。更地には地下室作成用ブロックが山積み。呆然とする僕1人。車にはオムツ姿の長男。小学校入りたて長女。

0) Bausparkasse 賃貸アパートで苦労してたEx嫁は逃げ道を探し僕の日本の会社から独現法移行時の退職金を原資にオランダ国境の「RAF英空軍騒音」で安くオファーされていたElmpt の土地を確保した。ドイツ統一で更に湧いていた「自分達で家を建てよう、Eigene Vier Wände(own four walls )という風潮」に乗って融資する不動産オファーとセットの銀行。前もってドア取っ手、風呂桶の色他指定済み・オーダーメイドの「あなた達の決めた」家だとのキット販売で具体的に客は釘付け。キャンセルは面倒臭い。壁塗り・電気工事どれかが出来るドイツ人なら棲みながら次々と仕上げて行けるシステム。プラモデルを親戚総動員で自分達で組上る人達と比べ、更地に石ブロック山を見た僕はもう大変。一方、Ex嫁は子供の頃親と似た事をやって居たから先が見えてた様子、LEGOを買ったワクワクムードだった。さぁて、東洋人とドイツ人の夫婦がどうするか「お手並み」拝見と、興味本位の野次馬来る中、週末しか来ないお助けマンであった。(RAF=RoyalAirForce、 ドイツ赤軍も同じ頭文字だからややこしい)










(上記写真のナンバーは一致しませんが、説明イメージを添付しました)

1) 地下室堀り゙、測量士登場①、監督登場①が置いた定礎のブロックを基に地下床をEinschalen囲い作業する。25センチ幅(高さ)板。下水逆流防止弁付器、奥から道路側の排水構まで下水管を繋げ一緒に方眼紙の化け物的鉄製の柵をコンクリ注入時に動かない様重りと括り付ける。ミキサー車第1、4台コンクリ流す為の外囲い。(ケーキ型にケーキ生地をドクドクと流す様に)コンクリを流す。気泡を無くすよう棒で掻き回す。もうクタクタ第1。夏も終りつつあった。【乾くまで粗2ヶ月①】

2) 監督登場②、床強度チェック後、正規の定礎をコンクリ・ノリで固定。此処を基に25センチ厚の壁用ブロックを図面に沿って積上る。クタクタ第2。監督登場③、図面とのチェック(此処で不合格だと又やり直しの憂き目) コンクリミキサー第2でブロック隙間に注入。気泡抜き。

壁の外にコールタールを塗り乾かす雨水等が地表から地下へ抜けるようにである。乾くと発泡スチロールの板を隈無く張り付けて土で埋まった後タール層が傷つかない様にする。此処に子供がイタズラをしにきた。発泡スチロールを一部張りなおし。英国軍関連の家族でEx嫁が対処。【コンクリ乾く迄更に2ヶ月②】

3) 監督登場④、図面とチェック。オーケーなれば次のキットが納品される。即、地階、一階床を作る準備。地下各部屋の鴨居Träger(を地下壁間に置く)此れの間に平たいブロックを敷いてゆく、フランク・Seligenstadt近郊の義理の弟が仲間を連れ手伝ってくれた。此がクリスマス。未来の地下天井を支える棒を平米辺り何本と調べては「助っ人」は支え棒を運び込む。監督登場⑤、地下天井・地階床相当部分に方眼鉄筋柵・重りを敷いてEinschalen外に漏れ無いようにした。今度は、プレハブの家を引っ掛けるアンカー部分を開ける為に発泡スチロールを鉄筋柵同様に固定する。(後、此をコンクリからほじりだすと、大きなLEGO板が完成する。)大晦日は此のチェックであった。丁度、独蘭国境が無くなる日。オランダ車輛がヨットを牽引しながらRoermondへの道に走って行ったのを覚えてる。

4)雪と寒さを心配する長~い冬。3度めのミキサー車と気泡抜き。もうクタクタは数えられない。初春を迎え、週の間Ex嫁は長女と発泡スチロールほじりに、僕は仕事・出張と週末は地下室周りに砂利を巻き、地下コンクリ底とブロックの地下室壁部分との間に特別な液体で隙間埋めをした。周りをブルドーザー業者に土で埋めて貰う。地下室という大きな箱が出来たので(当時はまだあった)50キロのセメント袋を40袋即今では脅威の2トンを袋破りを危惧しながら地階から地下室へ運んだ。現在は25キロ袋が宅配便とかと同じ標準。クタクタ第3。如何にも「若かった」ビール腹はそのままだったが日焼けてもいた。

5) プレハブ搬入・組立。イースター等休日の間を縫って海外出張してる間に一週間のうちに家の様相が出来ていた。屋根瓦も。コンクリを地階床のアンカー用ホゾ(発泡スチロールが有った所)に埋めてアンカー完成。但し、その後、電装・暖房温水サイクル配線・Estrichと言う床関連の柔らかめのセメントが射出された。浴室・タイル張りはその後数週間でなされ、キッチン・カーペット業者が外注工事最後。

平行して今迄の賃貸アパートの退出作業、白い壁塗り等進めた。

6) 新築壁に白い下地を塗る。Ex嫁の家族に応援を頼んで壁紙張り。長女・長男別の物である。多分此が今迄一緒に頑張ってた子供への精一杯の「Dankeschön 」だった。新居への引越はレンタカーを借りても2日かかった。

7) 長女の小学校Grundschule1年生の終わりから新学期を新しい所で編入する迄、結局1年掛かりのプロジェクトだった。テレビはドイツ放送はアンテナでは受信難しく。当時流行り出してたパラボラアンテナ機器で屋根上に設置した。(風が強いと僕以外誰も直せないので、10年以上だった所でアンテナを庭・地上に移した。受信ベッドも2種類、受信局数がどっと増えた。近所の衛星放送機器に詳しいセニア隣人が長男にベース知識を伝授。此処等は長男が電気工事等、僕の親父から隔世遺伝したか勘が良いので彼に任せた。)

8) 引越以後1年毎にレンガ、敷石プラスターと税金が戻ると全部再投資するのが、嫁のやり方で、此処等から軋轢が発生して離婚に至った。


隣街、A52最西、アウトレットで有名になった蘭Roermondの古い街並み(ブロンズ)。スーパーJumbo近くのプロムナードにある。内陸部ながらRoermond はハンザ同盟構成街である。

20年程前にElmpt村より十字架を掲げて土地を廻るProzession の大掛かりな物がありRoermond の教会迄長女・長男が祈りを捧げながら行った時に、村の合唱団は覚えて数年のヘンデルのハレルヤコーラス等をオランダ側で演奏した。

MGメンヒェングラートバッハ隣のKorschenbroichコルシェンブルッフは-broichを-bruchの如く読む。ノイス外人局があったGV Grevenbroichも同様。
ついでに一寸中世辺りに戻ろう。
ヘッセン州とバイエルン州境に有るSeligenstadt.ゼーリゲンシュタット。フランク近くこの界隈に住んでた頃もあった。カーニバル(ファッシング)はヘッセン放送で実況中継されていた。長男は此処のバシリカ(カテドラル)で洗礼を受けた。
画の下はマイン河、写真右側と同じ。


中心部にはEinhardhausがある。カール大帝の書紀Einhardアインハルトの名前・カール大帝がSeligenstadtの名前を付けた由来が語り継がれている。(Emmaと言う彼の娘に又会うことが出来たから街に「幸あれ」と名付けよう)
Selig sei die Stadt genannt, da ich meine Tochter wieder fand.
selig = happy ( 語源的には silly)
でrKaufmannszug
ニュルンベルク(バイエルン)からフランク迄の長い道程、最後の休みを取る街で大きな1リットルの杓を呑める者を讃えるDas Geleitという見世物がある。