時節柄、一度遭遇したオーストリア東部のMaitanzマイ・タンツ、5月を迎え入れる踊りを思い出す。村中心部のバウムに色とりどりのテープを男女で交差しながら飾ってゆく。既述のオランダ国境地区のMaibaum マイ・バウムの徹夜の番。一杯飲屋も売上に肖ろうとTanz in den Mai.踊り明かしてWonnemonat Mai麗しの5月を迎えましょう。言って見れば大晦日のパーティーのこじんまりしたもの。
「誰も歌わむDer-Mai-ist-gekommen.」
オーストリアでのカルチャーショック82年8月辺りからを一寸詳しく書こうと思う。240203のNachtrag。
ハンブルク中継フランク経由で中立国オーストリア空港に着いた時、機関銃武装の警官が窓から視れた。商社もウィーンに東欧窓口の事務所国を置いていたし、70年頃から日本の連合赤軍ハイジャック・浅間山荘でも左翼が危ない世界をニュースに載せて聴いてたものの、ミュンヘン五輪他民族・宗教間の問題に直面の現場を目の当たりにしたが、ポーランド「連帯」でハンガリー国境も軍隊車輌が見られる様になるまで間があった。
食生活はと言えば、日本のTVのルフトハンザCMの綺麗なスチュワーデス(CA)の女性低音アルトでGutenTag挨拶を直接聴けるとワクワクしたのも束の間、機内食ドイツ一色、ポロポロの黒パンに嗚呼コレからは柔らかいパンは毎日ベッケライに行かないと食べれ無いのか?暫くホテル住まいでコーヒーとジャム付けてSemmel (Brötchen 仏バゲット生地を8センチ径程丸く焼いたパン)で済ます。(現地人はバター/マーガリンを下地に塗ってその上にジャムを塗るが(満州でパン食に慣れてた母さんに習ってトースト様食パンに僕は直にジャム若しくはソントンのペーストピーナッツかハムを乗せてた。) 会社で昼・夜はメニュー。此処にSauerkrautの洗礼を受ける。最初は(グーのジャンケンではないけど)冷たい酸っぱい物が添物Beilageで皿の隅っこに鎮座して居られる。口には出さねどヒェ~が頭を過る。、、しかし後日Bauernschmausバウアンシュマウスを試したらソーセージ・ハム各種が温かいザウアクラウトに乗っかっていた。此れは美味。この味をイメージして冷たいのにも慣れて行った。ビール・ワインの頼み方もグラスのキャパで言わねばならない。一杯飲み屋などではビールもワインも白赤も種類がない「家は此れだけ」ビールはSeidelザイデル小かKrugクルーク大。ワインはAchtelアハテル、Viertelフィアテル、それぞれ1/8 (125cc)、 1/4( 250cc) か瓶( 700/750cc)。西オーストリアのSchladming/Salzburgerland Wagrain (スキー板Atomicの細やかな工場があった)で東の言い方で頼んだら此処はklein/gross (小か大グラス)だよと言われた
さぁて、フランクに転勤して2人の先輩と昼飯を其々別の機会に一緒に成った。オーストリア経験した先輩は昼でもビールを頼む。事務所へ戻って(アルコールが赤く顔に出た為)実務引継ぎの先輩にこっぴどく怒られた。もう一人の先輩はソーセージを売ってる店に行って、CurrywurstカレーソーセージとPommes fritesフレンチフライ を奢ってくれた。Bratwurst/Bockwurst を2センチ弱の長さにシュレッダーの様に刻んでその上にケチャップとカレーパウダーを混ぜたソースを掛けた物でシンプルで美味しかった。(現地語表記してる物は興味ある人はリサイプ検索乞) 勿論チョンガーで更に定宿でも無くキッチンも無いから中華・イタリアンの献立表端から評価を付けて行った。半年後到頭、辿り着いてフランク始めてと思しきカラオケ店を見つけたのもその下の和食レストランが開店早々だったのに絡んでの事だった。
週に3日も通っては店の人々と仲良くなった。ハンブルク本店から進出でドイツへは南周りダッカ経由で来た事。週一にベンツに満タンに乗って少しずつ引越てた。閉店時間後も話し込みたまに試作料理をご馳走になった。社用車で走行距離が嵩み上司に此れまたこっぴどく叱られた。ヘッセン州とバイエルン州辺りには駐留米軍が急に演習と言って戦車・装甲車・トラックでアチコチ移動しまわる。予告してたら演習にならないという「本気」の演習。サイレンは定期的・定時に鳴る。フランク空港敷地は一部米空軍基地で、2次大戦の爆撃機がリモコンの様にグルグル飛んでるのが遠くに見えた。後日聞いた所に依ればその日デモ飛行をしていた垂直離着陸機ハリアーで事故があったとのこと。80年代世界で唯一ヘリコプターの様に飛び上がれる機種であった。90年代オランダ国境沿いに住んでたのは英空軍基地が有り、発着音が騒音で土地相場が安かったからである。住みだして数年は飛行練習のモーター付グライダーがショボショボ飛んでた位だったが、英王室のNRW訪問の際はデュッセでなく、時前基地に飛行機で来て独国内はヘリで移動する程度、ユーゴ内戦時には大型輸送機がひっきりなしに燃料・人員の中間補充に訪れ夜中もブンブンエンジン音を聴かされた。NRW 州駐留軍隊は主に英国軍で通り跨いで英国軍関係者専用のスーパー周りは戦車避け射撃避け用途の大きな三叉が置かれて、時にIRAテロ騒ぎを経験した。隣のオランダ・Roermondルアモンで何時も買物時に使ってた駐車場でも爆弾テロがあった。基地内の英国教会牧師が帰国する際にはミサに参列演奏する村の合唱団の1人として厳しいチェックを受けながら中に入った。