粗毎夜デュッセの家族はホームシアターでSF物を視ているが、最近はスタートレックVoyagerとDS9の放映重なった時期に来ている。Voyagerの艦長は女性で、やっとこ気付いたのが髪型の変化。昨日まで黒柳徹子を思わせる「玉ねぎ頭/左上」が今日「左下」になっていた。此のシリーズはやたらとカメラが揺れるシーンが多く艦長も髪型が乱れ、時に退場、セットし直し登場と言う物語の筋と全く関係ない所に目が行く様になった。此の様に「誰かさん」の一寸した変化を直ぐに感知しない・お世辞を言うのが苦手。4歳違いの弟は逆に全部出来た。親父曰く、「お前より早く彼女を見つけ結婚するだろう」だった。


3月最終日曜日は夏時間移行。最初のモスクワ出張は同じタイミング、朝早いフライト・2時間時差と(てえへん大変・底辺な)経験だった。



82年オーストリア赴任先のブルゲンラントは一次大戦後にハンガリーのドイツ語圏分離併合結果誕生したから当時で64年経ったが御当地ソングと言える物が不足。で、土産物屋で売れるMCカセットテープに写真の様な歌を吹き込んでた。フランク地区で歌ったら、「そりゃ間違ってる。此の近くのOdenwälderinだぜ」と否された。他にBubi.Bubi.nocheinmalと言う幼馴染を一寸成人向けに解釈出来る歌も有った。Bubiは男の子の事。幼い頃はブランコ遊びに興じてた男女の物語。

此の地方はハンガリーだった事で名前の記入方法も「姓・名」の順。バウアーさんのBをPにしたパウアーさん等の姓が見受けられる。州都Eisenstadt にはハンガリー時代の卿紳ジェントリ、エステルハージに因んだ物が多い。此のアイゼンシュタットからウィーン迄の一般道を何度か走ったが濃い霧が立ち込め、距離の割に目が疲れた憶えがある。



Ein bisschen Frieden/een beetje Vrede/a little peace 独蘭英のバージョンでユーチューブにある。82年のESC優勝曲である。丁度その夏にオーストリアに来た。プジョー106を転がし探しLPレコードを買った。商業学校の女子がアシスタントに付いて貿易事務を教えたが、その子が此のニコルと同い年17歳かつ似ていた。違いはDirndlを着て、方言をそのまま話す事。Hochdeutsch を本人は話す積りでも直しきれない。ま、美形は七難隠すと言うが業務に支障が無ければそれで良かった。3ヶ月毎に学校へ戻るから彼女が居ないと、ドッと山の様な仕事量になる。宅配便が高値の頃、16時のトラックを逸しれば近くの駅からBahnexpress鉄道便で出荷。郵便局・駅の窓口の締め切りを頭に叩き込んだ。上司からの納期質問には「え〜と、これから調べます」等は許されない。赤ボタン早押しクイズ即答出来て当たり前の世界であった。夕刻は砦近くまで「いろは坂」登り下宿のPantoffel-Theater (TV)でクタクタ。それでも1年半の勤務期間は良い思い出である。イースターには1人でミュンヘン迄行って、土産に白青チェックのスカーフ他、下宿の女将さんに贈ったら暫く髪に掛けてくれた。ドイツ(人)はオーストリアの田舎でも一寸特別な存在で、「あ〜、あすこの嫁はドイツ人だから」となる。そおいえば、砦近くの下宿の窓からウィーン南部のアウトバーン沿いのオレンジ色のライトが見えた。あの頃は其れでもメガネ頼りながら遠く迄見通せたものだ。



A little peaceの歌い出しはこんな感じ。ESC参加曲、例にジンギスカンの歌詞も作ったBerndMeinungerがオリジナル独語歌詞。よくもまあ似た感じで英訳出来る物だと思う。(僕の観察では、独語から英語・蘭語・スカンディナビア語へは相当逐語訳詞が出来そう。一方仏語からイタリア語・スペイン語へも。) 作詞家と言うとウドの歌詞や各種の独語ミュージカルを書いたMichaelKunzeも描いておかねば成らない。前者が海外の歌の独語カバーの作者でもあり、越路吹雪とコンビの作詞訳詞家の岩谷時子さんと似たイメージで僕の少ない頭の中にシッカリと保存されている。