Goodbye Lenin( 2003 )のシーン。

字幕に一寸注目。教科書通りでは無い疑問文形態。通常文+? = 通常文+じゃない的作り方。((ドイツ語習ってた時に、エスツェットに大文字はない! 筈だった。が、現実にはsodass(so that)とか ß がssに押されて使う人口が減った分、GROẞE ...と言う広告チラシを見る様になって20年以上。大文字にはデザイン上もしっくりこない。))

病み上りの母親に快気祝いの家族セレモニーをしてた所で、窓の外には、あれよあれよと大きなコカコーラの旗状CMが飾られた。共産真赤の眩しさに東独が協同したと説明する息子。ビデオフリークの友人には西独市民の東独への避難状況をニュース(フェイク)映像発信。89-90年の東独TV映像をARD/ZDFで見ていた世代には現実として見た物であった。



DDR 40周年、1949-1989。此の式典後に、当時のトップ、ホーネカーは南米に逃亡した。ルーマニアの共産トップが大統領で受けた市民からの仕打ちを恐れての事である。



東独市民生活の変化を綴った作品の1つ。Der Turm 



Das Leben der anderen STASIで盗聴を担当させられた事務官は統一後、郵便配達夫となり、最後、彼の犠牲になった人の本を購入する。


ディズニー映画でNight Crossingと言うのが有った。82年映画だが西ドイツで80年代にTV放映された。やはり身近なテーマだからだろう。東独から熱気球で西側へ脱出する家族の話。STASIの刑事が医者.薬局のカルテから主人公を割り出し追い詰めてゆくサスペンス物であった。刑事役は映画マリアブラウンの結婚で戦争中に行方不明になってた主人公の夫役を演じた俳優である。


2003-4年頃、娘が大学に入らない内にと家族旅行を自家用車でやった。ヘッセン隣Thüringen 州のアイゼナッハ通過時にああOpel工場有る所か考えながらSachsen州の田舎のホテルに。牛肉BSE騒ぎ直後でも有って、ダチョウ他ゲテモノ肉がビュッフェに鎮座して居られた。食堂テラス越しに見た湖には3メートル以上に泥で黒ずんだ橋桁が。ああ、此処もエルベ河上流辺り。幹線アウトバーンは限られ、州道は舗装状態悪く「田舎のバス」の歌詞を歌いたかった。約1時間で間近のアウトバーン入口へ其れからErfurt、Dresden、Weimarへは距離より時間が短く感じられた。其々1日掛り。Dresdenは必見。Zwinger宮殿の各種博物館。(此れをユックリ見るだけで2日掛けてもいい。出来たらホテルも採って。)ボッティチェリの天使の絵が見たいとの娘の要望に応えた。別の日はワイマール即ゲーテの住んでた家訪問。僕らの行った数日後、火事が有って復旧作業に手間取った。此の街はGingko銀杏の盆栽等も売っていた。最後の賭け。陸路チェコの首都プラハを目指した。田舎のバスは耐久テストを受ける。当時、アウトバーンはプラハとブルノ間丈で、北西進入の我々はビールのニガリ?ホップに囲まれた道を、他に一寸丈、ベートーヴェンが愛人と逢引したKarlsbad/Karlovy Vary辺りは海外旅行客の為、マトモなmotor wayであった。プラハでコルナに両替。EUR=CZK 32(今日のレート26より2割高)幸い、駐車場近くにドイツナンバーをみてガイドが声を掛けてきた。親子4人乗れるワゴン車で一通り駆け足観光。ドイツでも有名なチェコ人歌手Karel Gottの豪邸を指し、Er ist unser Gott.あの人が我々のゴット(神様)さという。土産物屋で混んでるカレル橋をユックリ渡り残りのコルナ殆どをガソリンに替えて帰ってきた。国境には安い殆ど偽ブランド衣料等土産屋が、ガソリンもタンク入りで販売されていたが、混ぜ物疑惑拭えず、町中で満タンにした。プラハにしても、ドレスデンにしても冷戦終結後の復興途中で、ドレスデンの教会も募金活動真最中。Zwinger宮殿の屋上には2次大戦大空襲で黒焦げススの掛かった装飾像が修復を待っていた。プラハには4-5度出張する度、建物の修復具合が確認出来、気分もよく、行く楽しみの1つだった。クリスマスシーズンに一度デパートのレコード屋でクリスマスソングのCD/楽譜探したが生憎見つからず。