前回話題にした欧州時刻表の写真をネットで見つけました、僕のは表紙がくたびれてお見せ出来ませんが右下の87年度が当時82年度August 版となります。当時でもEastern Europe ハンガリー、ユーゴスラビア等の幹線は載っていた。4,35 Pound.と写真左下に載ってるのだが、82年は3,60 Pound  2割高い。


Post-it具体的付箋なんか付ければアナログ君としては完璧。ヴュルツブルグからフュッセンまでの観光バス時刻表迄調べ挙げた後が、又マインツからマンハイム迄のルートにブラントワインで有名なリュデスハイム近郊ビンゲン記述が、「ライン河の曲がりかたが凄い」とある。一眼レフのガメラに入れるフィルムたっぷり持っていたが、ケルンからライン河沿いで相当使った覚えがある。ハイデルベルク「哲学の道」でネッカー河背景に自身取ろうとし、タイマー掛けたが、ピンボケだった。


オーストリア時代の名残は、西部Vorarlberg 州のボーデン湖迄下宿Kumpel 同僚チョンガー同士で新車ダッツン・サニー1000ccを駆使て行った途中、イン川沿いチロルのInnsbruckで買ったTiroler Hutチロリアンハット。DATSUNダットサン、現日産は当時ダッツンと呼ばれていた。ドイツ転勤時、オーストリア航空便に乗る頭上に被って行った。東洋人に此れだから目立つし、暫し目の合った人には「微笑がえし」された。今だに僕の部屋にSchladmingスキーリゾートのマスコットHopsi(子兎に紅白の帽子)と一緒に守ってくれている。81年アルペンスキー選手権の有った村がシュラードミングである。最初の年は20日近く滞在したものの、頂上から麓迄全区間「ハの字」ボーゲンで滑り切る(柔道譲り)膝の強さが幸いだったものの半分の日数風邪で寝込んだし、上達度「上」のJägerkurs(狩人コース即、山スキー)に紛れ込み、スキー靴にスキー担いで薄暗い道を1時間以上放浪したり大変で有った。82年春、ウィーン日本人会主催ウィーン南方にあるSemmeringツアーで雪国っ子の先輩に手解きうけ、パラレル「I I の字」で自分のペースで滑るコツを得た。ドイツ転勤後、後任でオーストリアに来ていたのは東京で一緒だったスキーの上手い同期で82年冬に合流した。日本にいる時の酷さに比べちょっとは上達度を見せれた。頂上迄は椅子型のゴンドラでなく、時にT-バー(お尻を二人でTの字の真っ直ぐな棒を間にして2人ペアで一の字左右に寄っかかる)リフトにも乗る必要がある。此れには手こずらされた。慣れて、1人でバランス取りながら乗れるようにもなった。あの頃、車は社用車・プライベート問わず、唯のラジオがスタンダード。カセット聴きたければ買って取り付けるオーダーメイド発注時にクーラー他オプションで手配が普通だった。中古車市場がそうだった。80年頃まで日本叩き、静かに成って90年以降逆の状態と成って、相前後して日本車、込み込み値段へ市場はシフトした。ナビ(ゲーション)も然り。ドイツ統一で中古車が掃けて、新車が売れだした風潮もあっただろうか。シュピーゲル他雑誌特集などでドイツ他欧州市場に向けて自動車メーカーがキャパ増大に凌ぎを削る有り様が書かれていた。エンジン工場とノックダウン組立工場の二段階で検討されていたのが興味深かった。「業界再編成」が重工業・軽工業ここかしこに見られた。TREUHAND東独委託局が東の企業救済に当っていた。其れから30年以上経った現在、世界の産業地図はかわり、歴史のうねりを感じざるをえない。

僕はディーゼル車を手放し、公共交通機関のサブスクたるDeutschland Karteに換えた。通常の回数券と僕のケースだと同等のコスト。国内2等席カバーだから遠距離乗る人は得をするのだろう。