此処最近ブログのラフな話題を念頭に写真を捜し出す作業から進めるようにした。de Gruyterのオレンジ色の本を基に大学3年にドイツ語史の講義を受けた。2年次に苦手だった先生の授業だったが、此の時は相当気合を入れて受けた。白水社の日本語訳をアンチョコにする(高校古文授業での裏技を)使う等必死だった。お陰で(角)Horn/Corn (心臓) Herz(heart)/cuoreと欧州の主要言語の二股の別れ道(HとC)が説明され、やる気を加速する事となった。僕らの時代、西仏独露が幅を利かせてたが、今や書店に行っても欧州語は中国語・韓国語に押しやられ、スペイン語フランス語一寸隔てドイツ語のスペースが有る様相。まだ語学検定があるから見つかる。ドイツ語史の翻訳本も三省堂で買った記憶が有る。紀伊國屋はまだ行って無かったし、丸善も原書探しがメインだった。

此れに、ギリシャ文字アルファベータガンマ延長キリル文字でCCCP (SSSR)、此れをソ連と認識しながらロケット・宇宙船を目に刻んでいた世代で奇しくもロシア民謡を合唱団で練習してたからCはS、PはR と読替え Ser(d)tseはピピッと勘が効く気がした、Herze即ハート。

もう、各国語のお友達感はドンドン大きくなり、何か発見する探険隊員であった。(註de Gruyterからはドイツ方言の本が ドイツのぺーパーバック専門出版社Dtvからはドイツ語方言地図、英語関連でも興味深い本が出ている。ネットで検索要。)

何も此れはピンポイントで単語の同じ物を見つけるだけで、他の言葉が判って来た訳では無い。社会人に成り、オーストリア勤務で欧州隣国と直接電話で話す様になって「しっぺ返し」を喰らう事になる。Mr.A pleaseと落ち着いた声でイタリア工場にイタリア語で電話して、相手が居れば繋いで貰えるが、non c'e ノンチェ(居ません)と応答が来たらもう大変。声は上ずり「オーストリアの〜ですが、Aさんが戻ったら電話させて下さい。」としどろもどろの英語でメッセージを残すしか無い。フィリプスの会話本にはツーリスト場面設定で出来ているから、業務会話はない。


だんだん場数と相手国が増え、表計算の知識と子供用の紙製着せ替え人形の要領で予想返答・臨機応変さを増やしていった。

ロシア語圏のエージェントパートナーとは日本語での挨拶会話伝授した。一方ドイツの公共第3放送(NDR/北ドイツ放送)でロシア語講座があり、習った表現を直に試す機会があった。例として「具合どうですか」に英語流に「not bad (Nye plokho)悪く無いよ」と応える等。此のロシア語講座はまだソ連の時代に作られた物で、Quelle/Otto等ドイツのカタログ(勿論標示はドイツ語)を基にデザインを真似て仕立てる洋服屋のシーン成り、オーストリア・ウィーンのレコード専門店とそっくりな別階での支払い商品渡しなど面白かった。洋服屋は生地代と縫製手間賃の二本立てで価格を伝えていた。

因みにドイツのテレビ講座は仏西伊露辺りを流しているがネットで見る限り、毎年同じ物を流している。教材映像はフィンランド作成、ドイツ語で説明するロシア語先生もオルガ・バルビアンさんでカーキ色の軍服っぽい写真がのってる。映像もオデサ紹介するものあり、映画オデッサファイルで馴染んでいたが(ソ連当時は)熱海を思わせる保養地であった。ソ連時代の録画だから今では先生も相当お年だろう。各放送題名は下記:

仏 Bon courage 頑張って

西 Hablamos español 西語話そ

伊 Avanti avanti ほらっほらっ

露 Russisch bitte 露語お願い



日本NHKのはモスクワとサンクトペテルブルグと二極で司会も変わっていた。日本の文化がロシアでどの様に受け入れられてるかを紹介してた。コスプレ文化もあったとおもう。


ドイツ語講座に限ると、高校に入る頃76年辺りからStuttgart から役者 Michael Münzer さんが現地人ヘルパーでラジオ・テレビに出演しだした。ゲーテ・インスティトゥト系列で派遣されての来日か、長い間講座の顔であった。後日スペインへ異動した。寸劇では本業役者で、ラジオ講座では週後半で一時期、方言でのダイアログがあった。方言まで教える積りでは無かったとは思うが、最初の頃ハンブルクの魚市場Fischmarkt で目に見える様な演技"Aale! Aale frische Aale! " うなぎ、うなぎだよ。新鮮な奴! 色々お客とやり取りして、最後に又、「家の魚、全部新鮮」で終る。ピース夫妻の本そのまま。(男達は言ってる事を聴かないし、女性は上手く路上駐車出来ない)


スペイン語のロボ先生。視聴者に発音練習させて、親指・人差し指でユックリと丸を作って !Muy Bien! ( Very good / Sehr gut) 発音アシスタントがテレサさんだった?


Gut.  あ、フランクフルトの住民局Meldeamtに新任者家族を連れて住民登録をした際、渡されたパンフレット題名が Ei, gude? ( やあ、どお?) ヘッセン州、普通の会話では更に wieが付くらしい。

Wie は Wie geht's ? の最初。各国会話のサイト1つにBabbel が有る。だが此れは「(くっ)ちゃべる」= babbelと言う感じのヘッセン方言から来るのかもしれず。世界的自動車メーカー、メルツェデス・ポルシェを有するフランク南西Baden-Württemberg 州、此処のパンフレットには「我々は何でも出来る、Hochdeutsch以外は」とあった。彼らの故郷に対する自負が感じられる。

休憩

尺長く「ワテらな、(間)なーンでも出来まっせ。(間)あの標準語言いましたっけ、タダねその東京弁(とおーきょーベン)っちゅう奴。あれ、あれ、イケマヘンねん。叶わん。」

赤ペン修正で「アテラな~んでも出来まっせ、東京弁以外は、ナ。知らんけど」こんな感じですかね、マッサン・おちょやんで大阪弁捲し立ててた女優や吉本イメージすると。


Hochdeutschはドイツ標準語の意味合いがある。Stuttgart からMünchen 迄顧客廻りで半分以上森をセールスマンに運転して貰い走った時はこれぞLudwig Uhland の見ていた風景と、運転する彼には失礼だったかも知れないが、頭の中でウーラント作詞の民謡メロディーが流れていた。(例: Es zogen drei Burschen über den Rhein 3人の若者がラインを渡り飲み屋に寄った、(偶に一緒に成った3人が3人、飲み屋の娘に対して対応・思いを語る形式で話は進む。彼女の母親、女将に対し話す際、敬称のSieに三人称単数の動詞が付いたとまで覚えて)) 高速道路が有るわけではないので河〜橋〜水車小屋とイメージが進む。In einem kühlen Grunde / In a cool valley と言うシレジア出身Eichendorffの詩もローレライの作曲家Silcherに作曲が有る。内容からUntreue(不実な娘)/ 壊れた指輪と言う別題名もあり、後者がNHKラジオ講座で紹介された時の題名であった。ユーチューブにて聴ける、男声合唱団の十八番であるからSilcher 曲集なりドイツ民謡集だと殆どのCDに載っている。

海外に出てる日本人はもっと自身持って日本語でその国の民謡なり歌えば良いと思う。え、ローレライの日本語? とドイツ人なら自国語の歌の世界に広がっている点に誇りを持つだろう。


表計算の要領とは:

こちらドイツのXx、A(誰某さん)お願い

Qui parlo Xx de Germania.Per favore A

Eto govorit Xx iz Germania Pozhaluista A

Hier spricht Xx aus Deutschland bitte A

粗同じ順番に無理矢理押し込む。

語尾変化等文法二の次、


日本人の同僚がドイツ赴任の際は次の回に回します。

(だんだん紙芝居のオッサンに成って来た)