ウドのアルバムはオーストリアに来た82年秋以降、田舎のレコード屋・スーパー・ウィーンのレコード専門店へと足繁く通って買い集めた。添付のうちLieder die im Schatten stehen2枚組3シリーズ(1-6)は揃った。ヒット曲集でなく、全曲集。全て歌詞カード付。

今でも、テープに落しながら歌詞を追っていた日々が懐かしい。スタンダード曲他も歌っていたしウド自身作曲の曲数からも本当に全部網羅している筈も無く、シリーズ7の曲を見ても古いので入門編と言った所か。「考えさせるテーマ」の歌が詰ったアルバムがLieder voller Poesie である。アルバム Nur ein Lächeln はオーストリアで買ったカセットテープMC 内であるがCD化されて居なかった。そのWien(ウイーン)も上記のCDに含まれている。オーストリアからドイツ・フランクフルトへ転勤した直後TVでウド・コンサート放映され、Wienも流れた。曲終わりの飛行機窓からStefansdom聖堂から南へ伸びる門前街Kärntnerstraße があたかも目の前で消え行く描写有り、オーストリアを「第2の故郷」と感じてた僕には懐かしさ以上のものがあった。

アルバム発表ペースが早すぎ、出来上がり感の低いマイナーな時代に「人生の半分を過ぎた」とか歌って歌のテーマが広がり過ぎたか悩んでいた時期かも知れない。カトリック教会と揉める歌詞内容で世間を騒がせたりしていた。


因みに、スタバに〜ラテと定着凄まじい現在とは隔世な日本人とコーヒーの関係。僕ら学生時代、70年代後半はカフェオレ=ミルクコーヒー、アイスコーヒー(水氷入、甘いシロップ入)、ホイップクリーム入り=ウィンナコーヒーと思っていた。会社同期の女の子が結婚前に2人してウィーンに来た時、昼はStefansDom門前Kärntner Strasseの路上カフェ、コーヒー頼むには要注意と伝えた。「ウィーンのコーヒー? 家のは全部ソウよ」と言われかねない。薄っすらとミルク、チョコの粉末をまぶすのはメランジェ(おフランス的にはメラnジュ其れもラnにアクセントを置くのよ!)と説明、第三の男で有名な遊園地プラーターで彼女らの写真を撮ってやって、北側ホイリゲのワイン酒場でJauseヤウゼを頼んだ。当時の僕の認識ではソーセージ・ハム類の纏めFestplatte フェストプラッテと同じ感覚であったし、そのまま出て来た。コーヒーの話、喫茶店カフェでコーヒーに限らずホイップクリーム(Schlagobers/Schlagsahne)はケーキにもかける。

Aber bitte mit Sahne (勿論ホイップクリーム忘れないでね)モーツァルトを思い出させる弦楽イントロで始まる飽食老女グループの物語。ウドはイタリアに国境接するKärnten 州で育った。州都Klagenfurt にはLindwurm(竜に似た怪獣)が有り。Minimundusというミニチュアワールドがある。インターネット上で調べる事など40年前にはあり得なかった。イースター休みに同僚と行ったら、休館中で有った。天気は良かったので足を伸ばし陸路ベネチア迄行った。事前に調べての旅行で無かったが地図を頼りに動き回れるのも醍醐味では有った。全部オーストリア・シリングで支払いは通し。水上タクシーから缶入ファンタ=1000リラ( 1 DM/ 7 ATS)おおよそこんな感じで値踏みした。サンマルコ広場でベネチア観光本を買った。指先をマゼマゼして会計。拙いイタリア語 ! でシリノ? アドリア海沿いの先輩が、休みに「車でお出で」と誘ってくれていたが叶わず。30年後(今から10年後)にミラノと合わせ出張で訪れる事となった。(ミラノの大聖堂は大きすぎて、並のガラケーカメラでは納まらなかった。ミラノのスカラ座でマリアカラスを映像・音響で楽しむ夕べ的光景に出くわした。大音量で建物の外まで聴こえてたと思えば正装の紳士淑女が出て来た。)


合唱と出会ったのは中2の音楽授業であった。「山に祈る」清水脩作曲。二期会合唱団の物だった。合唱曲の間にナレーションが入り劇場仕立ての物語。席が直ぐ後ろの僕はヤッコのすすり泣く様子の方が気がかりで歌の内容はソッチのけで有った。此の娘は何と感受性の高い子なのだろうか。不思議で有った。(3年後高校の課外授業でチャップリン「街の灯」を観、始めて悲喜劇の意味合いを知る事になる。) 音楽の先生は所謂カリキュラムに囚われ無い自由な授業形態を採っていた。あだ名は当時寄席番組に出ていた東京ぼん太からとって「ぼん太」国鉄亀戸駅で乗換、京葉道路沿いの時計工場「精工舎(Seiko)」で南下する都電に乗換してた。時々時計工場屋上から「ボーンター」と黄色い歓声が聞こえるんだとニヤけた顔で嬉しそうに話してた。精工舎は当時亀戸の他、隣駅・錦糸町駅北側にも工場を持っていた。72年頃都電が都バスに置換えられたり、錦糸町駅が駅ビル化、高架に成ってもう数年経っていた。ロッテ会館辺りに踏切があり、蒸気機関車が走るのを観た世代。人間の輸送手段が64年「夢の新幹線」からB747ジャンボ迄ガンガン代わっていたようだ。

あ、合唱曲との出会いはヤッコに気を取られ、バリトン立川清登さんがリュックサックの歌のカルテットソロに入っていたのは社会人に成ってLPの説明にて読んだ話である。合唱=ベートーヴェン第九であり、シューベルト=魔王、ドイツ国歌メロディーはハイドンの弦楽四重奏「皇帝」というクラシックとポピュラーとの大きな隔たりが有った。やはり大学で始めて合唱したといえる。