大学卒業と共にあるメーカーの海外工場対応と直接対応の貿易部船積課に所属。タイプライターを実地で覚えさせられた。慣れなければ、それも速く正確に打たなければ残業でカバーせざるを得ない。営業からの書類(納期搬送先の乙仲別)を元に船積、希望納期に合わせるべく船会社へ重量・嵩を連絡、ブッキングする。輸出通関に必要な書類、販売先、船名、出航・送り先港、経由港をヘッダー部に続けて内容物の価格・数量・外装カートンの見栄えをパッキングリストに合わせてタイプ。タイプ間違えれば修正判子を押す。金額を書いた書類インボイスとパッキングリスト、船積一件合計一定上限超えると、銀行へ申請書も必要だった気がする。乙仲と呼ばれる通関専門倉庫運送業者は午後になると書類をピックアップに来る。書類が先渡し、荷物は納期に順次彼らの倉庫に搬入。通関を経て船会社指定日に引き渡しとなる。出航すれば船会社から荷物運送の証、B/Lが届く。此れは荷物を先方が引受る際に必要。3枚のオリジナルと数枚のコピー。と今度は海上保険へ連絡、貿易部独特のアルファベットで船名・仕向港・陸揚げ顧客住所までを伝え金額に利益を上乗せたバリューを対象に保険証を待つ。インボイス・パッキングリスト・船会社のB/L・保険証・内容物によって商工会議所ㇸ原産地証明C/Oを予め所得して一緒に小切手のゴツいのをセットして課長秘書へ渡す(経理処理)、とお客様へは同様のセットを当時使われ出した書類宅配DHLで発送、先方の輸入準備を助ける。これがいわゆるAtoB。海外工場の委託で物を第三国へ送る3国間貿易AtoC、決済は仲立ちのB社とする。(現物引取りに必要なB/L他はB社に送る。B社はC社への売値のインボイス他とB/Lで支払い交渉)

タイプライターのコツはテレックスを経由して日本語のローマ字速打ちで覚え

た。国際電話が許されたのはインフラの悪い中南米対応のみ、欧州とはテレックスでのやり取りだった。誰某いるかと更に呼び鈴付き。担当は英国オーストリアスカンジナビア、フィリピン。ナイジェリア。ナイジェリアへの輸入用インボイスは超が付くくらい薄っぺらな薄緑色の特製御仕着せ用紙にタイプアウトする。3枚を間にカーボン紙挟む。ノーミス必須。消しゴムを使ってもいいが、細心注意がいる。下手すれば切れて台無し、打ち直しの憂き目にあう。合わせて、当時始まってた中国縫製のシップメント(エア、ボートでも)を一気に引受け。ヨーロッパ各国の依頼、仮にB社依頼で、青島チンタオ、上海等へAtoC出荷。


ま、そんなこんなで東欧商売・3国間出荷で社内に名を売って、オーストリアに初めて海外赴任した。ウィーン空港は機関銃かかえた兵士を見ながら荷物置き場へ移動。外国では生水はご法度。日曜に開いてる店は無く、水筒を持ち歩く習慣も持って無かったから、ホテルに戻ってビールとか飲む他なし。工場は人件費の安いとこで、田舎も田舎。夏はクーラーも無く窓を全開田舎の香水の中で過ごした。土曜は音楽の都ウィーンのナッシュマルクトと呼ばれた大市場にいって、コメ等日本食材を購入した。ど真ん中にマグロがドカンと置かれてたが、上司が大きな塊を購入。夕刻皆でご馳走になった。その後、週末にウィーンの裏道をぶらつき、本屋、楽譜屋とレコード屋を見つけた。本屋では世界会話のカセットテープサイズの本、隣接するハンガリー語と(ユーゴスラビア兼)サーボクロアチア語、スカンジナビア語の本を。世界会話の本は基本会話に其々番号が振ってあり、自分の言語で10番が「私は何処にいるのですか」Dドイツ語の欄で10番「Wo bin ich ?」、困るのは其々文字がそのまま。台湾語も手書きで読み辛い。楽譜屋ではマイ・フェア・レディ、とかミュージカルを買い漁った。パリと張ってオペレッタを中心にオペラ等を興行してる割に、楽譜屋は商品自体少なく、場末の期待外れだった。レコード屋はラ・マンチャの男、ヘアーなどのドイツ語盤、ウドのLieder im Schattenを2枚組3種手に入れた。流石、老舗は上の階で店員に渡すと紙伝票をつけて昔流箱型エレベーターで一階に移動、紙伝票半券で会計、現物受取り。後日、ABBA.ウドはスーパーで買うようにもなった。83年に車で陸伝いでチェコZlin(当時ドイツ語的名称Gottwaldov)の靴コンビナートへ商談出張した際には、ビザを事前に採っておいて、入国検査員に滞在日数に応じてチェコ通貨コルナに両替させられた。中立地帯をユックリ走ると道路左右更に時折跨いだ橋上から機関銃抱える兵士がいた。チェコ通貨の使い用は少なくデパートに物は殆どなく、レコード屋にはLPが棚に一枚ずつ平らに置かれているだけ。選ぶ事は不可能。土産はドイツ語圏でも知られている兵士シュヴェイク(の冒険)の人形とチョコレートで済ました。同様に後でブダペストへ行った時は大半ヒマワリ畑を走って、東独の大衆車トラバントと遭遇した。国別識別用にDDR(ドイツ民主共和国)のプレートが付いてた。まだノホホンだった。あと6年後、ハンガリー、プラハの西独大使館に押寄せた彼らである。ブダペストにはチェコと違い物が溢れていた。一年前の赴任時に買ったJVC のミニコンポがドル建てで購入可能だった。ホテルのラジオはオーストリア放送ORFをそのまま流していた。チェコでは妨害電波だった。ハンガリーABBAと言えばわかり易いだろうNeotonニュートンファミリーのレコードを買った。レコード屋の雰囲気は西側と一緒。ビートルズも流してた。同じ会社でも部門で言語が違い、ソ連相手部門はドイツ語でコレポン、合衆国相手部門は英語でコミュニケートしていた。早めに突貫で工場へ帰る事があり、タクシー拾ってブダペスト空港へ向かうにもドイツ語が通じた。オーストリア・ハンガリー帝国でルーマニア近くまで領土だったから両親の一方は少なくともドイツ語通じる時代であった。その後、ポーランドでワレサ委員長の連帯運動がニュースに成ると、オーストリアハンガリー間の鉄状柵沿いにオーストリア軍隊のカーキ色の車が引っ切り無しにみられた。何せ、時は冷戦時NATO対立のCOMECONの鼻先。非加盟ながら西側陣営。焦ってアパートに荷物を纏め、何時も即対応可能にとミニコンポのラジオを目覚まし代わりにタイマーセットする日々が続いた。と一方、口頭でのドイツ語は直接表現が現地人にキツく聞こえ気まずい時期を迎える。幸い、社内旅行がバスであり、飲み会帰りにマイク独占でドイツ民謡、ウドの歌を歌って見たら、反応は改善した。以後クリスマスパーティーでも歌わされた。「歌(音楽)は万国共通」は以後、ドイツ転勤しても、2000年あたりからロシア人との商談にはロシア民謡、イタリア出張すればイタリア民謡と引出しは多いに越した事は無かった。勿論、暗記してサラッと歌い出すのがコツ。ロシア(キリル)文字を程度の差あれNHK講座テキスト等でブラッシュアップしてた事による。2000年にモスクワのホテルのカラオケ屋に入ってロシア文字で西側の歌詞の上書きが出てた事があった。今や時代も変わって英語はそのままだろう。4-5年の間隔で出張したが途中、ロボット犬がテレビバラエティーに出てたり、最後に行った時はテレビにアニメ、ラジオにABBAのGimmeのイントロパクったマドンナが流れていた。曲名で相当前だった事も分るでしょ。(飛行機着陸して、その時に皆で拍手するのはロシア人グループ。) 国が国際的に悪者になっているものの、其処に住んでいる人達、20年以上前に知合い、酒を飲み交わし、歌を一緒に歌い笑いあった人達と同様の人達が可哀想に思えてならない。早く平和になって欲しい。


添付したのは東西がドイツ統一された後、W-西側 O-東側 、ドイツ語で東を Ostオストと言います。当時の郵便番号一覧、各々4桁数字。統一暫くして差別的表現 Wessi Ossi 其々 西側の奴ら、東側の奴ら が使われた。ドイツ映画Go Trabi Go、トラバントの愛車にショルシュSchorsch ( < Georg ドイツのジョージ)と名前を付けてる主人公一家がゲーテのイタリア紀行を実践するが、彼らと車を西のトラック野郎が当時流行った東独人間をからかうギャグを数件発しながらも助けてやる。この東西差別を一掃する為、全独を 頭番号 ゼロから9まで、5桁にした。配送現場に沿った、郵便局配送区分に近いナンバリング。私書箱も別の番号を振分けた。私書箱を持つ会社などは実質上2つの郵便番号PLZを持つ事になる。各家庭に郵便番号比較表が電話帳の按配で配られた。通りの名称から5桁を引き出す。メンヒェングラートバッハ、旧 4050 は其れまで、端折って 405, ミュンヘンは 8000、ゼロ3つ端折って 唯の " 8 München " という書き方も横行した。テレビ番組でヒット曲・贔屓歌手をハガキ投票する場合、テレビ画面に略がその様に表示された。