昭和45年(1970年)の夏の引越先は隅田川が直ぐの深川だった。新大橋は写真よりもう一寸新しい、日産サニーなどが走っている時代。そうか都電36が錦糸町〜築地間を走ってた。東京大震災で焼け落ちずに大勢の人が助かったという。同じ江東区でも東の城東区と西が深川区と呼ばれたらしい2つの地区を移動した事になる。同じ小名木川沿いでも城東側の北砂は江東ゼロメートル地帯と言われ水面が高めで、普段から堤防だよりの工業地区。北に亀戸そして大島(おおじま)と下って北砂南砂となる。錦糸町から境川へ南下曲がって西方面日本橋へ向かう都電と東の葛西橋に向かう都電が有った気がする。引越す前は探検がてら南方のセメント工場を見にいったり、小学校前で貰う割引券を持って都電通りをまたいで砂町シネマと言う映画館へ東映マンガ、大映の大魔神を見にいった。あの頃は映画も流しっぱなしで観客席の入替えがなかった記憶がある。後年、「封切り」映画が流れると観客席入替えを経験する。錦糸町駅東の江東楽天地と呼ばれた、現パルコには日本映画と洋画の2つの映画館が建物前半に其々のポスター大描の看板で建っていた。深川に引越する前年中1の年末に僕にとって始めての洋画それも封切りだったのが前述の「空軍大戦略Battle of Britain」だった。マンガ映画から大衆映画への興味をステップアップ、界隈は飲み屋も多く大人の世界に入れた気がする。錦糸町駅から南下すると住吉町。交差点を東へ向かえば猿江公園、中には江東公会堂(ティアラ)が真四角の建物でTV番組収録やら実況やらでもう一つの興行体型をしていた。砂町銀座のおもちゃ屋2軒の内中に曲がって行く先は小さな芝居小屋があった。一寸子供は「入っちゃ駄目よ」的雰囲気。自営メリヤス工場で働く母さんが息抜きに連れて来たのが商店街中のパーラーで、フルーツパフェに突合された。家事はお手伝いさんとして母さんの妹に当たる叔母が任されていた。この頃の実家からは治兵衛神社の習字塾、一寸先の珠算塾へ通っていた。「このスットコドッコイ(馬鹿野郎。)」江戸っ子言葉が垣間除く親父は手先が器用でメリヤス(セーター)横編み工場を一から立ち上げた。本来、いく世帯をかかえたアパートを買切り町工場に変えた。家の奥には(1)染色上りの毛糸を四脚の木製スプールに巻取(2)各色のスプールを手動横編器で編むと大雑把に二段階の工程があり、母さんは主に(1)と経理を担当(2)は東北青森から直々に親御さんから預かった若い兄さんの担当。色替えのパターンはどうやってたのか知らないが覚えてるのは、2人いた兄さんが1人になって数年掛かって穴の空いた板切れをキャタピラーの様にパターン切り替えする構造を導入した事だ。ミニ技術革新。深川へ引越し暫くは業種を拡大変革し、デザイン・サンプル製作だけを自分でやって、量産は下請にさせ、実家では検品タグ付けブティックへの納品する下請けから元締めにシフトした。僕も高校の頃手伝う事になる。時代も変わり海外製品を盾にブティックから値下げ攻勢厳しくなり、元締め業務を下請の一社に引継いで親父は廃業した。成人して英国マンチェスターの産業革命博物館でニット横編機を更にオランダ国境村の納屋で温存されている縫製産業機器の博物館で横編機、鶴の恩返しに出てくる機織機の200年程前の実物を目の当たりにする事があり、余りの懐かしさに目元が潤んだ。「産業革命」と言う言葉には世界史の内容以上の現場の気持ちが分る。(就職して海外工場設置・移転を実地経験すると更にそれは椰子の実の主人公の思い、思いやる八重の年月)
「子供に学校の勉強を教えられるのは小学校まで、其れ以後は教えられねえ」と親父は仕事の合間に家庭教師がてら勉強を見てくれた。兄弟喧嘩をしてればすっ飛んで来て張り倒し。「喧嘩両成敗」有無をいわせず。他に2つの事は根気よく教えてくれた。あ)自転車の乗り方、近所の友達が買って貰ったと始めて駄々を捏ねたら自転車を直ぐ買って与えてくれた。が、あれよあれよ直ぐ南側のドブへ転落。それからは早起き、東の丸八通りへバイクと一緒に根気良く仕込んでくれた。い)鉄棒の逆上がりが出来ないと小一通信簿の備考に書かれるや夏休みに小学校校庭のラジオ体操後居残りコレもミッチリと仕込まれた。親父はプラモデルが好きで、マブチモーター付戦車。F1レーシングカー等作ってくれた。オレンジのレーシングカーを走らせるレース場は錦糸町駅南、深川7中隣のボーリング場の隅に有った。僕は自転車で頻繁に遊びに行った。何度か足を伸ばして、新大橋近くの(東京の)爺ちゃんの居る家迄走ってもいた。中2夏、そこ深川へ引越しては夏休みに対岸の浜町公園のプールへ1人で行って水泳練習。適当に25メートルを片道泳げるが殆どブレス無しクロール丈で腕力任せ。平泳ぎのコツは未だ無し。ドイツで育った子供達はちゃんと泳げる印「タツノオトシゴ・マーク
Seepferdchen/seahorse」のアップリケを水着に縫い付けた。引越す前、母さんには小さなオルガンを与えられキーボードを練習させられたが、気乗りせず。音楽への興味は専ら両親がメリヤス工場従業員叔母を含めダンスする為に買ってた洋盤Hey hey Paula他イタリア民謡のEPをカタカナ表示を追って一緒に歌う程度であった。1970年、大阪万博の年。親父は出張と称して見に行って、ドイツチョコレートと各国パビリオンの写真が載ったカタログを土産に持って来た。米アポロが持ち帰った月の石とか噂に聴いてたし、カタログのソ連のパビリオンが印象的だった。大学3年に合唱団の演奏会カタログ担当、其れも「ラ・マンチャの男」演奏品目だったから、地面から空へ絞り込む様な円錐をイメージした表紙にした。
話を戻そう。家に有ったイタリア民謡レコード。それにしても神保町・三省堂で買った世界民謡集のイタリア民謡部分が多いに役だった。この頃買った本は一生物だ。今も本棚に眠っている。大学に入って個人的には東京でも神田神保町、山手線池袋のパルコ、文芸座あたりに足繁く通った。映画館情報は「ぴあ」で探る。パルコにはプラモデル。デカール。此れはスケールに合わせて飛行機のペンキ塗りを助けるシールで、国旗・英国機ならアルファベット、ドイツ機ならパイロットの階級及び隊長を示すカギカッコ( < )航空部隊マークなどセットがある。映画館文芸座には封切りでは無く名画のオンパレードで席の入替えも無かったから気に入ったら1日中座ってた。銀座に行けば丸善の支店が有った。神保町三省堂本店裏別館は外国語雑誌、ドイツならシュピーゲル、合衆国ならニューズウイーク外が並ぶ。オレンジ色の背表紙ペーパーバック、ペンギン。英語本は辞書無しでも読めると誰かに聞いて、ヘミングウェイ・武器よさらば、写真話カモメのジョナサンを無理して読んだがチンプンカンプンで、後日日本語で読み直しを迫られた。岩波書店地下はドイツ語ペーパーバック、Reclamが有った。背表紙色でジャンルが別れ、黄色・赤色・青色。日本の文庫本よりコンパクトで表紙は題名だけ、飾りを一切省いた、低コスト徹底。流石。このレクラム文庫にドイツ民謡集・各国の国歌等買った(スキャナー) 大学卒業、輸出貿易部勤務・海外赴任と進む中、定期的に言語学関連書・楽譜を探し求めた。大学で紹介されたドイツ書籍DM、MAIL ORDER KAISERは社会人になっても暫く使ってた。「船便」なら送料無料の当時画期的なサービスだったから、丸善で見つけた本の商品番号ISBNをメモって発注書ハガキ航空便で送ったら、約2ヶ月待てば届いた。料金は後払い。当時は東京駅隣の中央郵便局の窓口へ行って払込んでいた。DM= 120円更に手数料を払ってたが、航空便手配の丸善での店頭価格より割安感が有った。因みに82年8月オーストリア赴任時にマルクを買って持参した時のレートは忘れもしない。90円だった。アンカレッジ経由ハンブルク経由フランク便。日本食など望む術もなく、ぽろぽろこぼれる黒パン。「嗚呼、これからはご飯とも暫しの分かれ」、ウィーンのSchwechat空港で機関銃抱えた警官に驚く羽目になる。よど号事件、浅間山荘などから既に12年近く経て冷戦最前線で緊張する国エリア到着。