中学3年は義務教育・公立最後の年。此れで幼馴染ともお別れと思ったかは感受性がそれ程なかったから判らないけど、放課後クラスメイトと(よく突き指しながらも)バレーボールをした。朝早く登校すると一階角っ子の技術室前を掃除してた。と何時からか技術室前に近い3年C組前の廊下をヤッコこと「恭子さん」も掃除している。別に話す事も無く黙々と二人揃って掃除するホンワカした時間が続き夏休み。予備校の夏講習があり隅田川下方の永代橋近く迄僕は自転車で通った。住んでたのは2つ上方の新大橋近くだった。何と彼女も僕より遠方から来ていた。此処で幾ら鈍感な僕でも心臓が高鳴りだす。でもも何でもも関係ない。ラブレターのハウツー本等探す当てもなく、下手な文章を書いて彼女に何時渡した記憶もないまま返事が無い時空だけが有った。その間、マセたクラスメイトの話すダスティンホフマンの「卒業」を見に行って、主人公のシーン、許嫁を親に決められたヒロイン・エレンの乗ったバスを走って追いかけるのを見て、今ならストーカー紛いながら彼女が砂町で都電に乗るのを確認して亀戸のセイコー工場近くでもう一度口頭で聞いた。結局お決まりのピリオド・失恋パターンを経験した。但し「お友達でいましょう」と返事まで一寸の時間が有ったから、お母さん等に返事の相談が有ったのだろう。ダメ・無理ほかストレートな応えでなくソフトな内容だった。(東京)ボンタ即河野先生音楽の卒業記念にクラス皆各自録音マイクを手に歌わされ、僕はドイツ語講座で覚えた歌を歌った。Ach wie ist's möglich ( 何で別れが出来るものか) そう、歌なら其れも外国語ならマセた大人の表現も顔を赤らめる事無く出来るのだと、録音テープを職員室で聞いたと保険の先生が卒業式後の謝恩会で僕の母に言ってたそうだ。母には後で聞いた。先生は一言も言ってくれなかった。其れが有ったらもっと励みになったのに。イタリア人のバルコニー下で歌うセレナーデなりフランスのシラノ・ベルジュラック然り。卒業式にお別れ握手とか今なら気がつくコンタクト方法も気が付かず。大きな気後れがあり、彼女は別の高校に進学し、サッカー部のマネージャーをしてるという噂と共に甘酸っぱいメモリーとして残っている。教えてくれたのは柔道の試合で合った元同級生だった。僕の失恋は相当校内で大々的に噂になってたのだろう。手に何も付かずの状態ながらその後シッカリ結果を見届けたのは幸いだったのかな。

何れ、イケメンではない僕には女性には姉妹の様に接するよう念を押された出来事だった。其れは其れで好きな子とそうでない子(嫌いと言うわけでは有りません)の線引をしない会話を楽しむ場の過ごし方を会得したわけです。

高校では(習字)美術・音楽から音楽を選び月一度の個別試験ではドイツ語講座の歌を引っ切り無しに別個で何時も歌った。先生からは専門的に「ん〜、巻舌をちゃんと発声したまえ」というコメントを頂戴した。声楽的コメント。巻舌はべらんめえだけじゃないと知らされた。そお言えばEPイタリア民謡のナポリタンはLとR(注:イアホン表示じゃありません)を僅かに発音仕分けてた。


高校は柔道部でグループ団体戦では4〜5人先鋒次鋒の2番目対戦役「次鋒」で合った。コーチの先生が昔の東京師範、現在の筑波大出身で厳しい。あだ名は「名人」柔道は立って投げる立技とレスリングに似た寝技とあるが、立技で埒が試合時間3分中チャンス少なければ、寝技持込み絶対負けない様にトレーニングされた。当時62キロの体重で1年後輩の80キロ他、相撲取り見たいな型位の二人を悠々と持ち上げ堪らひっくり返す練習があった。逆立ちして畳の上をよく歩いた物だ。よく言う、野球の打者が球筋を「読める」とか柔道でも相手側の動きをマイクロ秒単位で察知、自分の次の動きに繋げるという、それより連続技は理論でなく身体に覚え込まされた。(当時、国鉄両国駅で通勤客とすれ違う際、相当早いかち合わせでもサラッと除けて歩けた。)僕は筋トレが不十分で勝てないかも知れないが、最低引分てチーム団体戦の勝敗を先送りする忍務を司った。中学の生徒会長になったイケメンスポーツマンも当時剣道剣士だったが、同じ柔道チームの4番手にいた。当時隅田川東の学区には私立高校の強豪揃い。都立両国・墨田・小松川はよく対抗戦をやった。墨田高校は確か曳舟駅だったか、東武線で亀戸と浅草の集まる所で(50年近く前の当時)僕の田舎だった久喜へ行く通りすがりの界隈だった。北原白秋の男声合唱曲の幾つかは向島から両国迄の風物詩・叙情詩が在りどれも好きだ。

更に脱線すると。小学生当時、僕は親父のバイクに乗せられてよく(建売住宅ブーム前の)久喜の爺ちゃんの家に行った。東京生まれ育ちの割に田舎育ちに近い。古い家は天井なし壁掛け時計の刻む怖い音が印象に残っている。僕の2歳上の叔父、その上に当時中高校生の叔父叔母がいて、大家族大兄妹の末っ子の扱いだった。食べ盛りの子供同士、競争は激しい。食事は早食いしおかわりする事を覚えた。夏は裏の田んぼ・お寺へと年の近い叔父と遊び廻り、セミ・カエル・カブトムシを間近に見る環境にあった。隣には大きなイチョウの木が秋になると溢れんばかりの銀杏を落とし土産に持って帰ってはフライパン状の網地で炒っては茶碗蒸しにいれるなど賞味した。

さて本題に戻ろう。国立外語大を逸した僕はカトリック大に入った。昼休みは一番上の壇上のある教室で発声練習、校歌他2ヶ月後の演奏会で歌う組曲の準備。ドミソドの長音和音なら気持ちよくハモるが、ドミソシのセブンスは不安定な気分を引き起こし初心者には馴染がない。ギターとか楽器ならそのままでも自分が声に出す音(上記ならドと隣のシ)がそもそも正しいのかしらん。ってな事になる。一方で、ドイツ語受験でドイツ語専攻という、英語受験のドイツ語学科クラスメイトより一寸先んじた感の有ったのが毎回ドイツ語の詩を暗記させられる。そう、演らされる受動態プラスmustのプレッシャー。ただ、此れは卒業してもサラッとそらんじる事が出来る。「国破山河在」「風林火山」スラスラと日本語読み下し出来るのに近い。詩吟に憧れた。羽織袴で颯爽と「叫ぶ」クラス中でただ、たかが1000(単)語と文法一夜漬けの状態、努力少なくヒアリング経験薄っぺらの僕だからメッキは剥げてくる。2年目に入るとドイツ人先生の授業の其々の根幹が揺らいでくる。発音の授業は楽しく課外活動と両方役立ったが合唱練習で授業予習ままならない、眠の気(ネムの気、合歓の木)誘惑と戦って集中力カランカラン。宿題の意味がワッカリマセ〜ン。もう合格時持った筈のドイツ語知識という船の喫水線デッドライン切りました。と言う状態即、負のスパイラルに入った。そう、落第のレッドランプが点滅。スター・トレックのキャプテンピカーの脱出号令を待ってる中、合唱部ではドイツ語(訳)担当・発音指導担当仰せ司。ブラームスのジプシーの歌。10曲、文語訳より口語訳をトライそちらに頭はフル回転。もう、どうしよう・どうしようのクラリネットを持った子供の気分。時は合衆国独立200年祭。プロ合唱団のロバートショウ合唱団の記念レコード抜粋をラジオで聴いた。


幼馴染は居なかったが引越先の新大橋の隅田川界隈は滝廉太郎の「春のうららの隅田川」で始まる歌も何時も鼻歌するぐらい好きだ。錦糸町〜築地の都電軌道に沿って、築地の東劇まで歩いて映画鑑賞。そのまま歌舞伎座を右に足を伸ばすと三越・和光・三菱を掲げた茶筒円筒三愛ビル、TV番組のディズニーコマーシャルで馴染んだ景色、更に有楽町駅まで深川界隈と違った景色で一寸大人の気分を味わっていた。都電代わりに徒歩でコスト制限し当時の銀貨百円玉をセーブ。銀座三越一階に有ったマクドナルド1号店でミルクシェイクを買った。アイスクリーム溶かし、それらしき名付けを付ける物だと思った。銀座に歩行者天国が始まる頃であった。「有楽町で逢いましょう」「数寄屋橋交差点」不二家のぺこちゃん。大きな円筒状の日劇。朝ドラ ブギウギ の世界はまだ其処此処に覗く事が出来た。何時も思っていたのは「早く大人になりたい。宿題に追われる毎日から解放されたい!!」ウドの Der grosse Abschied の1番、世界はまだ小さく鉄道モデルの様に丸い軌道を回ってる丈で良かった。