僕は東京江東区の北砂町で雪の降る日生まれ、家からは小学校へも中学校へも10分あれば間に合う状態だった。実家は莫大小メリヤス屋だった。いわゆるセーターを各パーツ編んでは縫製させていた。横編みであり、靴下肌着は筒状に編上げる丸編みと言い別の方法。子供の頃の写真には4歳年下の弟と同じパターンで編んだセーターを着てお手伝いとして埼玉から住込みで来ていた叔母とよく写っている。狭い路地の北側は東芝(製糖)の池、池自体は(トンボの子供)ヤゴを捕まえて家の金魚鉢に入れたりした。(東側は高台で金魚養殖池があり、普段アメリカザリガニ捕まえ(釣り)に行ったり出来た。大雨だと、金魚が流される心配があった。)家では金魚鉢の水面と蓋の網の間は限られトンボの尻尾は水面近く金魚は尻尾の尖を食した。ヤゴの顎に脅えてた小学生の僕は自然の掟を垣間見る事となった。池の西側は草ッ原。バッタカマキリの宝庫。東側は一寸上がっていて一寸小綺麗な戸建てが並ぶ。南筋はドブ川が有ってもう一つ筋を行くと木工所の木屑の匂いに中学校の鉄っ線網。ドブ川に沿って西に向かうと駄菓子屋が2軒。一つは大通りに面して合わせて文房具・菓子パン屋も営んでいた。その大通りを挟んだ店が氷屋兼酒屋。弟が熱出した時は、氷を買いに行かされた。大通りと子供の頃記憶には家も塀も仰ぐ程高く南方向に行けば中学校門、機械油の匂いのする鉄工所、スベリ台ブランコ砂場の公園を左手に南へ進むと、交差するのが砂町銀座。バナナの叩き売り。今は見る事無いだろうが、男はつらいよのフーテンの寅さんがバナナを売ってる様な情景で有った。2020年頃TV番組捜査課長第一課他でもロケ画像が見れた。時代も変わるが八百屋の真ん中にお金を出し入れする30センチ径の平底?のザルがあり、お釣り含めた売上全部が其処にあった。この商店街を境に北側が3丁目、5丁目南側が4丁目で亀高神社・砂町保育園と近くに(ラムネ瓶に入れる様な)ビー玉工場があった。この保育園で撮った集合写真に僕の初恋相手のヤッコが居る。皆が親しみを込めてそう呼んでいた。本当は恭子でやすこ。小学校は別だったが中学2年になって同じクラスになり、この集合写真を話題に話が盛り上がったが、夏休みを境に双方引っ越して、其れ転校せず同じ学校に留まった。席は僕の前。既にクラスで背が高かったので列の最後。中学2年秋は来年迄の生徒会長選挙が行なわれる。砂町銀座沿いの倅が立候補し対抗候補を僕のクラス投票から「誰でも即 僕」となって候補者対抗演説迄させられた。何も内容の無い話では有ったが、選挙前に同じクラスの可愛い女の子がイケメン・スポーツマンの彼に(人気)投票すると解って気落ちして居たのに対しヤッコは「其れは理不尽」と大人らしい意見で反対してくれた。此れを引金に彼女を意識するようになった。元々ダメ元だったが、大勢の前で話した経験は自分でバッテン、ヤッコは同じ年代ながらしっかり理屈の判る女の子だった。彼女に庇護されたのは選挙惨敗苦い中で甘い印象。自分より彼女の方がIQ高く立候補演説してたら説得力あっただろう。兎に角作文力は確かに負ける。

引越先から僕は北方向、両国方面に歩いては京葉道路沿い都電28号?(須田町-亀戸-境川)を回数券で乗るか直接自転車で行って駄菓子屋兼文房具屋の隅に駐車させて貰っていた。当時始めてた記念切手を定期的にリザーブもしていた。大体1時間半で学校到着。彼女は亀戸から都電で砂町方面に乗ってた。運転手の仕草を見ていて、黒沢映画「どですかでん」主人公に共感した。彼女と電車で一緒になる事はなかったが代わりに小学校時代の図工の先生とはよく一緒に小学校迄道程を一緒に歩いた。優しいお姉さんの様なシャッキッと歩く美人の先生だった。男兄弟だからお手伝いだった叔母にしろ一寸年上の女性は年柄からも話して楽しかった。今思えば、図工の先生とヤッコと同じ女性像が近くに居たようなものだった。当時流行っていたのが由紀さおり「手紙」「生きがい」、「おさな馴染み」「花のメルヘン」美空ひばり・ちあきなおみが当時贔屓にした歌手・女性歌手であった。昭和45年、生徒番号14、雑誌「丸」ドイツ語ラジオ講座。雑誌「丸」は第2次大戦を中心とした軍艦・飛行機の写真が多く載ってるので本屋でパラパラと見て気に行ったら買っていた。其れがA4サイズ、厚さ2センチ程。別巻でA5サイズの飛行機特集にハンスヨアヒム・マルセイユという撃墜数が多かった若いパイロットの記事があった。アフリカ戦線でエンジントラブル発生し脱出を試みて自分の飛行機の尾翼にぶつかり意識不明のまま落下し亡くなった。当時の僕にとってのアイドルで有り、機体に刻まれた番号黄色のエルベ14。エルベが単純にドレスデンからハンブルクまで流れるエルベElbe河から来るかベルリン方言GをY(j)と発音するせいで黄色gelbe-->jelbe(イェルベ)と成って語り継がれているのか力不足で断定出来ない。彼の映画が57年に「アフリカの星」であった。本の中でも題名が使われていた。アイドルとは女性に限らず、男性でもあり得る。「丸」に載ってた広告から軍艦・飛行機輸入雑誌の住所(水道橋駅近くだったと思うが)を見つけ神保町から足を伸ばした。プラモデルを買って英国Airfix 合衆国 Monogramm の組立説明書で英語に慣れ、Jagdgeschwader 27❨JG27❩/ GeschwaderとはRAF 英国空軍のSquadronに相対する戦隊で有り、マルセイユの戦隊は英国攻略戦線Battle of Britain/ Luftschlacht um England から砂漠のキツネ・ロンメル将軍の Afrika Korps へ異動し、運命的な状況と成った。幾つもの雑誌から写真を切り取ってスクラップし、オーストリア赴任中に行きつけの飲み屋の親父さんに話の弾みでマルセイユの話が出、彼が戦時中アフリカ戦線にいた事が判って、極東の若者がスクラップブックまで作っているのに驚いていた。PS マルセイユはフランス南部の港町の名前で彼の名前もその綴に沿って、ドイツ風にマルザイレという事も有るが、始めて彼の名前を目にした頃に戻ってマルセイユと言っておく。因みにプラモデル、縮小モデルで僕の持ってるのは彼の飛行機では縮小サイズ 1/48 1/87 1/100 に渡る。(1/87は鉄道モデルHOゲージに相当する。)