ドイツと言うか親元を離れ初めて外国に来て、日本語的に誕生年、昭和32年、外国人として種々の書類を見る頭では西暦1957年と透かして二重の見栄えから今年で67歳になる。

物心がつく年数差し引いても40年近い海外生活をしてきた。とはいえ外国語、僕にとってドイツ語がネイティブの域に入ったかと言えば否・ナイン(Nein/No)である。一方で仕事仲間他からは根がオットリしているせいか喋る日本語が海外子女的だと指摘された事もある。人間の脳は若い時に鍛えなければ成長ベースがオットリして、更に40代の年齢からはキャパが下降すると云うから僕も出来る人から見れば馬鹿の部類になるやも知れず。焦っている。

今はドイツをデジタル電話のテンキー流に九分割して左上を一において数字の四の一寸上、大聖堂で有名なケルンより北の州都デュッセルドルフ略してデュッセに住んでいる。30年以上更にその西側オランダ国境沿いの地域にいてデュッセ中央駅近くの日本人街イママン通りは週末の日本食買出しに行ってた程度で若い小中高生のすれ違い様聞こえる日本語会話は早口のせいか聞き取れなかった。近年、コロナ禍で日本に親の面倒をしながら数年東京に里帰りした間はテレビも字幕付きで何とか耳を慣らした。明石家さんまの番組はその間見る事はなかった。一方で、ドイツで生まれた孫達とは聞き返す問題無くドイツ語でコミュニケーションが取れている。東京都両国の道端でドイツ観光客が目的場所探し口論をしているのを偶々耳にした時はスーッと耳に馴染んで上手くアドバイス対応できた。多分、英語だったら気負いこんでMay I help you? から始めざるを得なかっただろう。幸い外国人慣れしてたのか明らかにラテン系の人にも気後れせず別の場合でも気後れなく同程度対応が出来た。

思い興せばまだ学校教育で英語を習うのは中学1年だった。小学校でのローマ字教育はアルファベット慣れする以外何の意味があったのだろう。あの時点でヘボン式迄習っていたらと思う。行ってみたいなと「海」の歌詞の如く外国語への興味は小学館の百科事典に「私は学生で、名前は山下です」をカタカナルビ数カ国語で載せてた事による。それにはドイツ語ロシア語も含まれてた。戦時中の満州で白系ロシア人中国人のいる小学校へ行っていた母の有難うは中国語ではシェーシェー(謝謝)ロシア語ではスパシーバ(Spasibo)、一家で見るテレビの「兵隊やくざ」の行進歌イーアルサンスー(一二三四)、数字の四と九(ネガティブな同音)を嫌う話を聞かされ続けた事があった。

中学1年の美術を含む遠足が確か新宿御苑であり池で写生中に綺麗な白人の叔母さんが来たのでWhere do you come from ?  "England " とその後続く事のない会話に胸が高鳴った覚えがある。This is a pen.から半年経った頃だった。飛行機のプラモデルを作ったり、イタリア観光アルバム付録EPレコードのO sole Mio / Santa Lucia / フニクリフニクラを聴いたりするうち年末に新聞広告でユニオンジャックとハーケンクロイツ旗が交差し、その尖っぽに小さく戦闘機が描かれている映画があった。「空軍大戦略 Battle of Britain/Luftschlacht um England」

第二次世界大戦で優勢ドイツ軍が英国侵攻に失敗する筋書きの中、ドイツ語は下方に英語字幕と縦書き日本語字幕があった。ドイツ語会話部分に英語字幕を重ねてた僕はアメリカ英語より歯切れのよい英国英語とドイツ語音声の歯切れの良さと、所々同じような錯覚を覚えた為、翌年3月に中学2年でNHKラジオ講座4月度のテキストを買っていた。Kommt Herr Reuter ? Ja,er kommt. (ロイター氏は来ますか。はい来ます。)が始めて聴いた文。月末は聴き取りも含めたテスト。そしてドイツ民謡の歌詞がテキストにあり、そのレコードが流れる。小鳥の結婚式( Vogelhochzeit) か霞か雲か( Alle Vögel sind schon da / All birds are here )だったか。テストは往復はがきで添削返信があった。初級は平尾浩三先生 上級は中島悠爾先生だったと思う。初級のヒアリングの良い成績を取りたくていつの間にかオープンデッキのリールテープでマイク録音、何十回と繰り返して挑んだ。時に赤ペンで励ましの言葉も戴いた。毎月末のテストとドイツ民謡を楽しみにして大学時代までテキストは購入した。並行してロシア語の講座も買出してた、同様に初耳表現はEto damエタ・ダム。(此れは家です)と歌はMamaおかあさん。数学で使うギリシャ文字(アルファベータガンマ)延長してロシア文字を活字・筆記体覚え、自分の名前をスラスラ書ける様に練習した。「太陽がいっぱい」のアラン・ドロン扮する主人公が金持ち御曹司のサインを練習するシーンさながら。1971年神田神保町の三省堂でドイツ民謡集、合わせて野バラ社の世界の民謡集を買った。前者はドイツ語歌詞、後半に文法上の説明がある面白い本。最初にドイツ国歌。その時代ドイツでは軍国主義を思い出させ歌うもハバカレる一番歌詞(世界に冠たるドイツ)も載ってた。ラジオ講座テキストでも馴染みのHeidenröslein野ばらやUntreue不実な女の子(一番歌出しからIn einem kühlen Grunde 涼しい谷間にとも呼ばれる)他目を輝かせた物だ。後者は元歌と日本語歌詞併記であった。Home sweet home、庭の千草はよく歌ったし、聖夜等は日英独の3カ国歌詞の編集で、発行元の努力が見られる。イタリア・ロシア・スペインほか歌で世界中国巡りをしていた。海外のポップスに興味喚起されたのもこの頃だ。冬に音楽授業で教科書以外の歌、White Christmasを習った。高校でYesterday習うなど、音楽の授業は大好きだった。昔シャボン玉ホリデーというTV番組で日本語カバー曲を聞き慣れてた歌のオリジナルを紹介するような1972年日本のテレビ、和田アキ子と大石吾郎MCにウド・ユルゲンスが出て「別れの朝」の原曲「夕映えのふたり」を英語で歌ったのを聴いた後直ぐにレコードを買い込んだ。あの頃の小遣い大半はプラモデル関連かEPレコードに消えていった。プラモデルも日本のタミヤ・フジミだけでなく英Airfix・米モノグラムに手を伸ばした。自分の部屋はプラモデル塗装塗料のシンナープンプン。柔道部試合で国鉄(今のJR)で東東京を頻繁に動き回る行動範囲拡大の副産物と言えようか。錦糸町駅ビルでは更にウドのEPを買い漁った。ウドのマネージャーがベルギー歌手アダモと兼任だったらしく、知名度の高いアダモと抱合せでウドのEPを市場に流し、それも数枚買った。Ein Narr sagt Dankeschön (道化師は挨拶をする/ 悲しきダンケシェーン)日本語題(悲しき-)の手管には泣ける。小遣いの関係からまだLPは無理で大学に入って、秋葉原の石丸電気で赤青アルバムで第2ブームに入ったビートルズ・サージェント・ペパー(東芝EMI)ポリドール配給ウドのLP。輸入洋盤コーナーが出来てポップス・クラッシック。ビートルズの英国輸入盤歌詞カード殆ど無し、ドイツ語LPでウドと同僚のペーター・アレクサンダー。後者はメリーウィドウ(オペレッタ)からオーストリア色の強いレパートリー、自身TVショーでやるコミカルソング迄幅広く面白かった。ペーターのは歌詞カードは少なく、ウドが必ずジャケットに歌詞を印刷するなどしていたのと対照的。売り始めてたABBAが歌詞カード入りなのと似ている。恋愛関連の歌でなく、社会現象コミカルソング何でも御座い。ビートルズ活動後半も似てた。

話は前後するが

高校では受験方針強調の英語の先生には反発する一方で英文解釈と英作文若しくは翻訳の授業は大変楽しく。木枯らし紋次郎のナレーション・伊勢物語(名にし負わば)等何度か黒板に書いて先生の添削餌食となった。この先生は東京外語出だったか質の良い冗談が人気だった。西尾豆単2000語の英単語より楽勝、基本単語1000語ドイツ語で強行突破しますと受験一辺倒の先生に啖呵をきって、年末独英比較文法を頼りに独学でカトリック系大学でドイツ語学科に入った。受験勉強で比較言語学の障りを体験。英語とドイツ語の同じ西ゲルマン語派、基本文は瓜二つ。受験日直前、山手線内部でお茶の水・水道橋更に西側に足延ばすのは始めて。おまじないに「ローマ帝国最大領土にしたのは虎屋の羊羹」「辛亥革命は1911」と世界史参考書から記憶すると其れがマークシート問題にしっかり出た。ピッタシカンカン。(古文・現国のクラス担任先生には悪かったが受験教科数狭め世界史・数学・ドイツ語で一浪覚悟で東京外語を第一希望であったし、予備校主催のテストでも偏差値はよかった。「お前があそこのカトリック系に受かったら逆立ちして校庭歩いてやる」と言ってた先生。やりました〜。もう一丁東京外語2次も活きますよ〜、高校野球ならコンバットマーチが鳴り響く、が、落とし穴があった。ヒアリングの対策が全くゼロ。オープンデッキ持ち込みではないから、風の様にサラッと過ぎるナレーションを気に留め繋がる質問に答えねばならない。学費も国立だから安めだから一浪でもと親に言い訳して、私立では筆記だけだったのに。) 東京外語の一次試験は楽勝。ドイツ語解答用紙端に Auf Wiedersehen 。Bis zum nächsten Mal (それでは又、次の機会に)と書いて後日、2次試験でヒアリングに頭真っ白の憂き目にあった。その間、カトリック系私立の面接で始めてドイツ人目の前にドイツ語を話す。「ドイツ語何処で習いました?」「NHKラジオ講座でです」ニヤリとする神父。(心臓バクバク。でも僕のドイツ語通じたジャン)・後に一年二年とお世話になる事に成ろうとは。一方、メンスト構内沿道には新入生勧誘の各課外活動団体のブースが。元々2次試験結果待ち、マージャンだとリーチかけれる、と思っていたから空返事連発。何学部、君?  独語。あゝいいね、今度ドイツ語の歌歌うんだ。男声合唱団だけど明日12時に教室で練習してるから。起立礼着席の号令は中学高校でやってました。柔道気合で大声自信あり、詩吟とか応援団希望なんですけど。という僕の説明は相手には届かず。翌日、パート分け校歌練習している心此処に在らずの誰かさんがいた。


今度は、僕とドイツ語更に仕事での経験、僕と合唱という点で、日本〜ヨーロッパ行動範囲地図2次元に加え、学生時代から社会人になっての時間の3次元座標軸を引っ張って行こうと思う。