アテアさんでの龍技2講座の冒頭にて✏️
「龍技1をやっている人?」と尋ねられ、「稲荷神社を見た時にしかやっていないから“やっている”と言えるのかな~?」と手を挙げるのを躊躇😥
毎日や定期的にやっている訳ではないから「ちゃんとやっているとは言えないのでは?」と。
しかし皆さんの手が挙がったのを見て、「え、毎日やっているの?そんなにやっているの😲」と驚いて思わず言葉を発していました。

そして私が“やっている”と認識するレベルではなく、少しでもやったら“やっている”の認識で良いことに気付きました💡
職場では100%全てやって初めて“やっている”と認識されるのが常で、そこに漏れや不完全な部分があると“0”として扱われます。
また実家では毎朝の読経を欠かさない父親、時間を見つけては読経する母親がいますが、母親に言わせると「そんなに信仰していない、やっていない」ということになります。
それは荒行を修めて僧侶になった友人知人を知っているから、本職の僧侶と比べて、または在家ながらも修行をしている方々と比べて“やっていない”ということになるようです💦

そういう環境に身を置いていると認識の基準が変わってくること、どこを基準にするのかに因って認識は変わることを感じました。
ある場では”やっていない”とされることでも、基準(場)が変われば“やっている”とされるということです😁
所が変われば評価も変わるということであり、ある場では評価されなくてもそれが全てでは無い、他では評価されることもあるということでもあります。

そう考えると“出来ない自分”を必要以上に卑下しなくてもいいのではないかと、自己容認というか自己弁護の一材料をそこに見つけました👍