3回めの出演でやっとクロスポーズできたよ!!!(遅い)まだ出先なので、誰かキャプあったらください笑笑

今日のゲスト松浦茂樹さん、若新雄純さんと☺️

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言いたいことが多すぎて時間が足りなくてしゃべりきれない・・・
そして言いたいことが多すぎたせいでギリギリまでオピニオンタイトルが決められず、微妙なタイトルのまま本番へw
何ていうタイトルが良かったかなぁ?といまだに悩んでいますが、今日のクロスではいじめについていろいろと話しました。ここに軽くまとめておきます😚

【クラスをなくして、居場所を増やそう】

皆さん「デスゲームもの」って分かりますか?1か所に集められた登場人物たちが、何らかの理由で最後の一人になるまで、お互いに殺し合いをさせられるような作品です。


教室は、デスゲームの舞台に似ています。スクールカーストで勝ち残り、何らかの安全な地位につけない子どもは、安心して教育を受ける権利どころか、命まで奪われてしまうから。むしろ共通のルールにのっとって正々堂々と殺し合いをしているぶん、漫画や映画のデスゲームの方がまだマシなぐらいです。毎年、毎年、いったい何人の子どもたちがいじめで命を落としてきたのでしょう。

なぜ毎年これだけの被害者を出していながら、学校のシステムそのものを見直そうとはしないのでしょう。

子どもの世界はとても狭く、学校と家と、塾などの習い事くらいしかありません。その大半の時間を占める学校が、一年間もクラス固定なのは辛い。

人間が自分を好きになるために必要なのは、たくさんの居場所で、たくさんの自分を持つこと。たくさんの人から見た様々な自分を知ること。今いる場所での評価だけが、自分の価値ではないことを知ること。

居場所がたくさんある人間は強いです。

子どもの生活の多くを占める学校の中に何とかして、もっとたくさんの居場所を作れたらいいのになぁと思います。

ぼくは通信制の単位制高校に通っているんですが、そこは、物理的にいじめが起きにくい構造になっています。大学のように自分たちで自由に時間割を組んで、いろんな教室で授業を受けているので、同じメンバーとずっと顔を合わせなくても良いからです。仮にもし人間関係に行き詰まっても、その人たちと会わずに済む時間割を考えて組めば、学校に行けます。クラス替えや転校が無くても、同じ学校の中でカジュアルに環境が変えられるので居場所が本当にたくさんあって、理不尽ないじめによって学びの場が失われるようなことはありません。


もしも小中学校にクラスというものがなく、大学や単位制高校のように、いろんな教室を出入りしながら学べる環境があったなら、そこでデスゲーム空間から降りることができる子どもは、きっとたくさんいるはずです。


クラスがないと団結や協力や忍耐が学べないと言いますが、それは誰かの学ぶ場所や、命を犠牲にしてまで「授業の時間に」やらなければいけないことなのでしょうか。まずは安心して、安全に学べる環境を全員に保証することの方が先決ではないでしょうか。


仲の良い家族だってずっとひとつの場所に一緒にいたらストレスでイライラするものなのに
別に何の目的もなく同じ年だというだけでランダムに集められた人達と一年間も狭い場所で
来る日も来る日も成績やスポーツで競わせられたら、誰だって不安になるし、他人より少しでも良い立ち位置につこうとします。
そして恐ろしいことに人間は、皆が誰かを人柱にしている間は、自分のポジションがほんの少し守られることにも気づいてしまいます。


固定された人間関係、選ぶことができない担任、他人と比べられやすい環境、同じ服装、同じ髪型などの校則・・・学校という場所には、まるでいじめを起こそうとしているかのように、あまりにもいじめの起きやすいストレス環境が揃いすぎている。


そんな中で、いつまでも子どもたちの道徳心にだけ頼って「みんな仲良く」とか「いじめをするな」と叱るのは、どう考えても無理があるのではないでしょうか。

いじめられてしまう子どもも、いじめをすることで自分を守っている子どもも、いじめを見ても何も言えなくていじめに加担してしまったり、必死にまわりに溶け込もうとして本当の自分を押し殺している子どもも、みんな学校の被害者だとぼくは思います。


クラス制にこだわらなくても部活や課外活動、委員会活動などで、集団生活の大切さを学べる場は他にもたくさん作ることができます。

「学校とは、こういうものだ。」そう思い込むのをやめて、いじめの起こりにくい、風通しの良い環境づくりをしていきませんか。


【いまの環境ででもできるいじめ対策】

青森の中2自殺「いじめが主な原因」 審議会が最終答申


①第三者委員会じゃない委員会をつくろう

青森の事件で学校側は「自殺の原因はいじめではなくうつ」と言う主張をしていたようですけど、いじめでうつになったのに、自殺の原因はいじめではなくうつだ!という理屈が本気で分かりません。殴られて出血多量で死んだら原因は殴られたことではなく出血多量になるのでしょうか。そんなばかな。名指しの遺書も書いていて、SNSの記録もあって、尚こんな言い訳が許されてしまうのなら、もうどうしようもない。死人に口なしとは正にこのことだなと思いました。


そもそも、いじめ自殺が起きたときに出てくる第三者委員会って、学校に依頼された人たちだったり、学校と何らかのつながりがあって、本当はそんなに第三者でもないことが多いです。また、その学校とは直接の繋がりはなくても広い意味で同じ教育関係者である限り、どうしても学校側に味方をした発言になってしまう可能性はあります。身体を張っていじめられた生徒の味方をしたところで、その人たちには何の得もないのですから。


何か起きたらまず、学校や教育委員会と何の癒着も繋がりもない民間の探偵会社など

教育関係者ではないオープンな調査機関にも、きちんと調査をしてもらうことを全国的に徹底してもらいたいです。


学校と一緒にいじめ被害者を追い込む「第三者委員会」の実態 - まぐまぐニュース!
いじめ関連の大きな事件が起きると、学校は「第三者委員会」を設置します。これはその名の通り、事件とは関わりのない人達で結成された組織ということですが、その実態は学校が選んで雇った、教授や弁護士などの有識者であることがほとん…
www.mag2.com


②不登校児にも税金を

現在、いじめで不登校になった子どもは、自力で受け入れ先を見つけて転校したり、高いお金をかけて、遠くのフリースクールに通ったりしています。ですが、それはほんの一部の子どもだけ。家庭にそこまでの経済力がない子や、人と会うのも怖くなってしまった子は、自宅学習か、家に閉じこもるしかありません。そのまま社会復帰出来ず、引きこもったまま成人するケースも見られます。「いじめられるのが嫌なら、学校なんて行かなければいい」「死ぬくらいなら逃げろ」ってアドバイスをする優しい人たちも、逃げたあともずっと続くその子の人生までは考えてはくれません。逃げたあとのことは完全に「個人の精神力」と、「各家庭の経済力だのみの自己責任」です。


本来ならどの子どもも同じように教育を受ける権利があるはずなのに、なぜいじめられた子はその権利を行使することができないのでしょう。なぜ、フリースクールも自宅学習も私学への転校も、全て家庭負担の民間任せなのでしょう。


いじめられた子どもは、好きで学校を休んでいるのではないんです。学校に行きたくても、行けなくさせられた被害者なんです。なのに国は、いじめられた子には1円の支援もせず、いじめた子たちが何事もなかったかのように通う学校にお金を出しています。嫌なら行かなくてもいいよ、学校から逃げなさいというのなら、逃げたあと、その子たちが今までと変わらない教育を受けられるように、国は公的に不登校児の教育環境も支援するべきなんじゃないでしょうか。


国の財政的に今はムリなら、民間の保険会社のようなものからでも構いません。火災保険や地震保険、自動車保険やガン保険のように、いじめにあってしまった被害者にも、そろそろ何らかの保証があって良いと思います。


イジメ被害者には、二択しかないという無責任
静岡市長が定例の記者会見で、いわゆる『イジメ』についてメッセージを発した。「イジメが止まらないなら学校に行かなくていい」「悩みを伝えられなかったり、心が折れそうになったりした時は学校に行かなくていい」「自分の身を守るのは、最低限、自分の責任だ」何を言ってんだ!
blogos.com



③いじめは犯罪!と言って脅すのをやめよう

よく「いじめという言葉を使うからいじめがなくならないんだ。いじめではなく、犯罪という言葉を使うべきだ。」という人がいますが、実は暴力や恐喝、もちものを壊すなどなど犯罪として事件になるようないじめは、全体のいじめのうちそこまで多くはありません。犯罪と認定されないレベルの「無視」や「嘲笑」、「ばい菌扱い」などの、「精神的ないじめ」が学校でのいじめのメインです。これらは大人のセクハラやパワハラと同じで、非常に証拠をつかむのが難しいです。先日の青森の事件でも「亡くなった子が言い返していたので、遊んでいるだけだと思った」という証言がありました。


いじめを「犯罪」と呼び変えることで、本当に犯罪と呼べる事件は減るかもしれません。でも、犯罪に至らないようないじめを受けている子どもは、ますます「大したことない」と思われて、いじめられていることを打ち明けにくくなってしまいます。


直接手を下さず、精神的な「人権侵害」や「ハラスメント」などのいじめをしている人たちにも、やはり罪の意識を持って欲しい。法律上犯罪にならなくても、それは罪なんだよということを知ってもらいたいし、そうしなければ根本的な解決は望めないと思います


直接手を出さなくても人は死にます。無視やLINEはずしで死を選んだ子どもも、世の中にはたくさんいるのです。


子どもの「いじめ死」をどう防ぐ――「微弱なSOS」に大人が気付くには - Yahoo!ニュース
いじめを苦にした子どもの自殺が後を絶たない。どうしたら救えるのか。『いじめで死なせない』の著者・日本テレビの岸田雪子さんに、生死を分ける「気づき」を聞いた。
news.yahoo.co.jp


ただでさえ私たち未成年は法律で守られていて、罪の意識を感じる機会に恵まれてはいません。でも、法に問われるものだけが悪いことではないのです。捕まらなければ、バレなければ、何をしても良いわけではない。なので全体に向けて、「いじめは犯罪!逮捕されるよ!」という言葉を使うのは、ぼくは少しだけ、待ってもらいたい。それは「ほら、怖いおじさんに怒られるよ」と言って脅して、子どもに言うことを聞かせようとするのに似ているから。


みんなで少しずつ無視しても、バイ菌扱いして笑っても、それは犯罪にはなりません。逮捕されることもありません。でも、

誰からも咎められなくても、人を傷つけた事実は決して消えることはないことを知って欲しい。


子どもを脅して抑えつけることは、一見簡単な解決方法に見えますが
本人が罪の意識を持つことからは、少しだけかけ離れてしまうような気がするのです。



④学校で演劇をやろう

学校で演劇の授業をした方が良いんじゃないかなーと思います。演じるということは他人の感情を想像するということ。自分の感情だけで動き、思い通りにならない他人にキレるのは、ここの訓練が圧倒的に足りていないから。


傷つけ、傷つけられる関係に実際に陥ってしまう前に、シミュレーションとして「演じてみる」ことは有効です。交互にいじめられる側といじめる側の両方を経験させて、どう感じたかを話し合う。分の中に他者の視点を持つことを、できるなら、なるべく小さいうちに。

人間は自分が悪いことをした時に、「悪いことをした」と思うことが出来なければいけません。他人から見てどう思われるかではなく、自分で自分の行動に恥ずかしさや、後ろめたさを感じる経験を積み重ねて、「もう二度とこういう思いはしたくない」と「自分が」思えなくてはなりません。


でないと、さっきも話したように「バレなきゃ何をやっても良い」と思うようになってしまいます。


現実世界は子どもに失敗を許してはくれません。間違えることやつまずくことを許してはくれないのです。ちゃんとしなきゃ、怒られないようにしなきゃ。クラスの中で失敗したくない。恥をかきたくない。笑われたくない。見下されたくない。たとえ誰かを傷つけても、安全な場所に居たい。みんなきっと、そういう息苦しさの中で生きている。


演劇の世界では、好きなだけ怒ったり、人を傷つけたり、殺したりすることが出来ます。そして、すべての感情を解放した結果、相手がどうなるか、自分がどう感じるのか、どうすれば良いかも疑似体験することが出来ます。

ストレスまみれの教室に生きる子どもたちには、そのエネルギーの捌け口がいじめぐらいしかないのかも知れません。大人にバレないように、怒られないように、子どもたちは行き場のないモヤモヤした感情を爆発させている。


思い切り怒り、思い切り傷つき、思い切り泣く。そして、少しずつ相手の気持ちを想像し、自分の感情をコントロールする術を学ぶ。
転んだことのない人間には、転んだ人の痛みを想像することは出来ません。誰かを殺してしまうまで、その罪の重さにまったく気づかない人もたくさんいます。
そんな経験のない子どもたちにとっても、ぼくは演劇の授業は最適なんじゃないかなと思います。


【いじめているきみへ】


8月20日にぼくの絵本「いじめているきみへ」が出ます。これはぼくが小学校6年生のときに書いたものを、より小さいお子さんたちに読んでもらえるように絵本化したものです。


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いじめているきみへ
いじめているきみへ
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いじめられている人向けの本はたくさんありますが、いじめている加害者に向けた本はほとんどありません。「いじめは許せない!いじめっ子は酷い奴だ!いじめっ子に厳罰を!」で、話が終わってしまうからです。

彼らを分かりやすい悪として責めるのは簡単です。理解出来ないと切り捨ててしまうのは楽でしょう。

でもいじめっ子にもいろんな子どもがいる。家庭で虐待を受けていたり、生きづらさを抱えていたり、昔いじめられていたり、他人の感情を理解出来なかったり、劣等感や疎外感を感じていたり、情緒が育ちにくい環境にいる場合もある。特に相手に対してイヤな感情も持っていないのに、単に「クラスから浮きたくない一心」でいじめに手を染めてしまう子どももいる。いじめは、加害者のSOSである場合がある。


誰だって、最初はみんな同じ赤ちゃんだった。今も私たちと同じ人間です。そして、いじめている子を救わなければ、いじめは永遠になくならないのです。




春名風花