ドラマ「幸色のワンルーム」の
関東圏での放送が中止になったようですが
ひとつ疑問に思うことがあります。

ドラマの放送中止運動をされている方々は、すでに試写会などで実写ドラマをご覧になったのでしょうか。

ドラマを制作しているのはドラマスタッフであって、原作の作者ではありません。
ましてや、幸色のワンルームは原作が未完であり
今回の実写化の結末も、ほぼオリジナルストーリーになる事が予想されます。

同じストーリー、同じキャラクターを使っても
作品の印象というものは、創る側の力量や魅せ方によって、いかようにも変わります。

規制しろ! VS 原作をちゃんと読め!
で延々と揉めているけど、


まだ誰ひとりとして
実写化されたこの作品を観たことがないのではないでしょうか?

観てもいない作品を、なぜ躊躇無く焼き払うことが出来るのでしょう。
作品は結末まで観て、やっと初めて批評出来るものではないのでしょうか。

例えば、同じように誘拐犯を描いた
「八日目の蝉」という作品の序盤では、
幸色のワンルームとは比べものにならないほど
大人の身勝手な誘拐が描かれています。
また、実際の事件(日野市OL放火事件)をモチーフにしたと言われており、更にこの事件では幼い子供が2人も命を落としています。

【八日目の蝉】主人公の希和子は、子供を望んでいたにも関わらず不倫相手に堕胎をさせられ、二度と子供が産めない身体になってしまいました。
しかも不倫相手の妻が妊娠し、妻に幸せを見せつけられ、「子供が産めないのは女としてがらんどう」だと馬鹿にされます。
希和子は不倫相手の妻が産んだ子供を殺しに行くのですが、赤ちゃんの首に手をかけた時に、その愛おしさにどうしても殺すことが出来ず、思わず赤ちゃんを誘拐して、自分の娘として育てはじめるのです。
赤ちゃんは薫と名づけられ、薫と希和子は本物の親子のように仲睦まじく逃亡生活を送ります。
身を隠すために宗教団体「エンジェルホーム」に入り、子供にも宗教にどっぷり染まった生活を送らせます。

もうこの時点でめちゃくちゃ身勝手な大人のエゴに何の罪もない子供が巻き込まれているのですが、前半部分では、希和子が本物の母親のように薫に注ぐ愛情の深さがメインに描かれ、4年後に希和子が逮捕されるまではずっと「お願い、幸せな親子の生活を壊さないで・・」という犯人目線の物語が展開し、4年間も子供を誘拐されたまま、必死に探しているはずの本妻がまるで悪人のように描かれます。

いま、批判を浴びている「幸色のワンルーム」の原作は、八日目の蝉で言うとちょうど、この第一部の部分の展開にあたります。
このあと作者がどうするつもりなのか、ドラマの結末はどうする予定だったのか、それはまだ誰も知りません。
そして、この段階で作品が焼き払われようとしています。
もしも八日目の蝉も、この段階で「問題がある」と言われていれば、同じように不謹慎だと言われたと思います。

【八日目の蝉 後半】やがて希和子は逮捕され(皮肉なことに、誰よりも幸せそうな親子に見えた2人の姿をアマチュアカメラマンが写真におさめ、その写真がもとで逮捕される)薫は4年後に本物の両親のもとに戻るのですが、産んでから4年間他人によって育てられた我が子は実の母親に怯え、再会した瞬間におしっこを漏らしてしまいます。また、薫はまったく標準語を話せず、希和子そっくりの口調で方言を話しています。自分が産んだはずの我が子が、旦那の不倫相手の女そっくりに成長し、不倫相手と同じ方言を話す。本物の母親は、薫を愛することが出来なくなってしまうのです。
そのことで母親とうまくゆかない薫は、自分と母親の運命を壊した希和子を恨みます。
ここで初めて読者は、希和子の犯した罪の重さに気づくのです。
薫は、同じ宗教団体育ちのマロンと出会い、自分の過去を辿る旅に出ます。そこで思い出したものは・・・


作品は最後まで読まなければ、その作品が伝えたかったものは理解出来ません。
実際ご存じの通り、八日目の蝉は見事な名作となっています。
犯罪者の心理、巻き込まれた子供の不幸、我が子を愛せなくて苦しむ妻、
そして、奇しくも希和子と同じように不倫をしてしまい、堕胎を考えていた成長後の薫が
「私もこの子を産もう」と思い直すところまでをしっかりと描いた作品です。

もし、八日目の蝉の新聞連載が前半部分で
「誘拐を美化している!」「不倫を肯定するな!」「現実の事件に似ているから不謹慎だ!」とバッシングされ、途中で作品が消されてしまっていたら
この作品はきっと、ここに生まれていなかったでしょう。


不謹慎か不謹慎でないかで言えば、ぼくは確かに幸色のワンルームの冒頭も不謹慎に見えると思いますし(4巻で初めてお兄さんの回想が入り、お兄さんは幸を誘拐したのではなく、幸がいじめと虐待にあっていることを観察した上で自殺を目撃し止めようとした事が描かれますが、冒頭部分では単なるストーカーです。)
八日目の蝉の前半なども、上にあらすじを書いただけでも分かる通り、希和子は完全に子供の人権を無視しています。更に子供に義務教育すら受けさせず連れ回す逃亡生活を、作者は親子の愛情たっぷりに描いていて、そこだけに注目すれば、とんでもなく不謹慎な作品に見えると思います。

今の時点で幸色が「このテーマをちゃんと描き切れるのか?」と、不安視されるのも分からなくはありません。
でも「実写化」では、ドラマ制作陣の力量はまだ分かりません。
スタッフが作ろうとしているドラマの後半の展開が分からない限り、
ドラマ・幸色のワンルームが、八日目の蝉のようになっている可能性も否定出来ません。

作品は完結して初めて、作品になります。
特にこの手の作品の場合、一見幸せに見える逃亡生活が、そのままハッピーエンドを迎えることはほぼ無いと思うのですが・・・

未完の作品を導入部分だけで批判し、数の力で簡単に焼いてしまうことが出来る世の中は、とても危険です。
創作する者は萎縮し、自分の身と作品を守るため
最初から読者に「この物語は安心安全ですよ!」「いま悪者に見える登場人物も、最後に勧善懲悪で痛い目にあいますから安心して下さいね!」と
ネタバレ全開で、ハッピーエンドや勧善懲悪を約束した作品しか作れないようになる可能性があります。


ドラマスタッフが、幸色のワンルームの未完部分をどうする予定だったのかは知りません。
けれどドラマ化しようとするからには、何らかの着地点を目指しての事だと、ぼくは思います。


むしろ反対運動で、この物語が完結しないまま途中までで焼かれてしまい、
何のメッセージも伝わらないままに終了してしまう事の方がぼくは怖いなと思うのですが、いかがでしょうか。


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ちなみに誘拐モノのドラマの成功例としては
「Mother」というのがあります。
また、この物語の設定は、幸色のワンルームに非常に良く似ています。

【Mother】小学校教師である奈緒が
自分の教え子の怜南の身体の傷や、夜中に郵便ポストの回りをうろついているのを見つけ
怜南が家で虐待されていることを知り、しばらく観察しているところから始まります。
奈緒はある日、怜南の家の前で黒いゴミ袋に入れられて棄てられている怜南を発見します。
怜南は赤ちゃんポストの記事の載った新聞の切り抜きを握りしめ「さっぽろ、に、行きたいです。さっぽろの赤ちゃんポストに行きたい。7歳でも入れるかな」と言い、奈緒は「私、あなたを誘拐しようと思うの」と伝えるのです。


【幸色のワンルーム】主人公の「お兄さん」がたまたま幸と街でぶつかり、そのあと幸が公園で同級生からいじめを受けている現場を目撃したことから彼女の写真を撮りはじめます。
お兄さんが、玄関に鍵をかけられて夜になっても家に入れてもらえず、夜の街をさまよう幸の後をつけていると
幸が子猫に「私、死のうと思う」と話しているのを見ます。
その後、幸は一見普通に暮らしているように見えましたが、お兄さんは気になってまだあとをつけています。
そしてある日、幸はお兄さんの目の前で川に身を投げようとします。
隠れていたお兄さんは思わず幸の手を引き、

「死なれるくらいなら、君を誘拐しようと思う」と伝えます。そんなお兄さんに幸は「私自身が捨てようとした人生を拾ってくれるんですよね」と答えます。


Motherと幸色のワンルームのテーマは
誘拐そのものというより、「いじめ」「虐待」「一向に助けてくれない行政」にあります。
奈緒やお兄さんが、虐待児童を助ける手段として「誘拐」を選択してしまうことは犯罪です。
もちろん彼らは、社会的に糾弾されても仕方ありません。
でも、虐待を発見して通報しても、世の中には助からず殺されてしまう子供が大勢いるのもまた事実です。


また、Motherの奈緒は、同僚の教師と一度虐待を児相に通報していますし(良い返答は得られなかった)
幸色のワンルームでは、幸は学校でのいじめ、家庭での虐待に加え
学校の教師(社会的信用がある)にも性的虐待を受けており、頼れる大人がどこにも見当たりません。


児童相談所が把握していたのに殺されてしまう、幼い子供のニュースはあとをたちません。


「誰でもいい。誰かが見つけてあげられていたら。もし誰かが、逮捕覚悟であの家から連れ出してくれていたなら、あの子はあたたかいご飯を食べさせてもらうことができ、今もどこかで生きていられたのじゃないか」


それは、子供たちを救えなかった
無力な私達のファンタジーであるし、
単なる犯罪なのかも知れませんが、


いまも現実に、どこかの密室の中でじりじりと
飢えや暴力によって生命の火を吹き消されようとしている子供たちに取っては、
「私は逮捕されるかも知れない。でも、あなたを誘拐しようと思う」とまで言ってくれる大人が
目の前にあらわれること・・・


それはきっとマッチ売りの少女のみる最後の夢のように
今の世に必要とされるべく生まれてしまった、哀しい物語なのかも知れません。



私達がいまこれらのフィクションに対してやるべき事は
必死に物語を焼くことではなく、
このような物語が生まれない世の中をつくることです。
いじめや虐待から
誰も助けてくれない現実がある限り、
子供たちは叶わない夢を見ます。
その現実が改善されない限りは
何冊の本を焼いても、いくつものドラマを潰しても、きっと永遠にこのような物語は生まれ続けるでしょう。


「誰かに誘拐してもらわなくても、しかるべき大人がきっと救ってくれる」
この国が、子供たちに取ってそう信じられる国ならば、
このようなファンタジーはいずれ
必要の無いもの、現実味のないものとして
自然に淘汰されてゆくはずなのですよ。


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表現を無くすのに
表現への弾圧は逆効果かも知れません。
表現は、生まれるべくして生まれ続けるのだから





春名風花