成田山新勝寺のあと、宗吾霊堂へもお参りしました。
子供の頃、お手玉しながら歌ってた桜の惣五郎って何?って思ってました。
成田の不動様も出てますね。
云十年も過ぎて検索したら、江戸時代の義民だとわかり、必ずお参りに行こうって思っていたんです。
一番初めは一の宮
二は日光東照宮
三は佐倉の惣五郎(そうごろう)
四はまた信濃の善光寺・・・・・・・・柴又帝釈天
五つ出雲(いずも)の大社(おおやしろ)
六つ村々鎮守様(ちんじゅさま)
七つ成田の不動様・・・・・・・・・・名古屋の熱田様
八つ八幡の八幡宮(はちまんぐう)・・・山田の伊勢神宮
九つ高野(こうや)の弘法様(こうぼうさま)
二は日光東照宮
三は佐倉の惣五郎(そうごろう)
四はまた信濃の善光寺・・・・・・・・柴又帝釈天
五つ出雲(いずも)の大社(おおやしろ)
六つ村々鎮守様(ちんじゅさま)
七つ成田の不動様・・・・・・・・・・名古屋の熱田様
八つ八幡の八幡宮(はちまんぐう)・・・山田の伊勢神宮
九つ高野(こうや)の弘法様(こうぼうさま)
十で東京泉岳寺・・……・東京招魂社など 他にもあるようです。
これほど信(神)願 かけたのに
浪子の病はなおらない
武夫が戦地に行くときは
白きま白きハンカチを
うちふりながらも ねえあなた
はやくかえってちょうだいね
泣いて血を吐く ほととぎす
この後半の歌詞ははっきり覚えてはいないけど、こういう歌だったんですねー。
佐倉の惣五郎は、領主堀田氏(佐倉藩)の重税に苦しむ農民のため、
将軍への直訴をおこなって処刑されたという物語は、江戸時代後期に形成され、
実録本や講釈、歌舞伎上演などで広く知られるようになった。
入口
山門
本堂
薬師堂
甚兵衛渡しへ向かいます。
拡大可
任侠の渡し守甚兵衛は、禁制を犯して惣五郎を対岸へ送り、
印旛沼に身を投じたという悲しい物語が残ってます。
沼岸まで行ってみましたが、実際の渡しがあったのは写真の杭があるところ。
印旛沼の干拓と水田造成で渡し場は消えました。
宗吾霊堂からここへ来る途中に惣五郎の生家がありましたが、
付近を工事中で見学できなかった。
宗吾霊堂に咲いていた桜、河津桜かな
もう三月になりますね。
お花めぐりにいい季節が来ます。
(^_^)/~